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信仰の継承の課題

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11. 信仰の継承の課題

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【聖書箇所】創世記 24章1~67節

はじめに

  • 聖書は、神が信仰の継承を望んでおられることを一貫して教えています。今回は、アブラハム、イサク、そしてその子孫に信仰が継承されていくために、アブラハムがイサクの嫁を探させたこと、そして神がそのことにどのように関与されたかを見ていきたいと思います。

1. アブラハムの切なる願い

  • 24章1節を見ると、「主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」とあります。確かに彼は多くの財産を与えられ、またそれを受け継ぐイサクも順調に成長していきました。しかしアブラハムにとって、父として一つの切実な願いがあった。それは約束の子イサクにふさわしい妻が与えられることでした。「年を重ねて、老人になっていた」アブラハムにとって、これは早急に解決しておかなければならない問題でした。それは是非とも死ぬ前に一度孫の顔を見たいといったことではなく、神が約束されたことに対する信仰が継承されていくかどうかという点で重大な問題だったのです。しかも、妻となる女性が夫やその子孫に与える影響は非常に大きいわけです。ですから、事を慎重に運ぶ必要があったと思われます。
  • 箴言の最後の章にこのようなことばがあります。「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに大きい。」(31:10)、尾山訳ですと「すばらしい妻を見つけたら、宝石よりもすばらしいものを手に入れたのだ」と訳しています。ここでは単に賢い妻(美しく、利口だというのではなく、神を恐れる妻)に勝る宝物はないと言っているのです。女が男を作るとさえ言われます。つまり、夫は妻によって良くも悪くもなると言われる所以です。
  • ところでアブラハムはこの大切なイサクの嫁選びの責任を、彼が最も信頼する最年長のしもべ(その名はダマスコのエリエゼル)にゆだねました。信頼していたということは、アブラハムが自分の全財産を管理させていたことから分かります。イサクの妻を探すに当たって、アブラハムとしもべは誓いをします。「手を私のももの下に入れる」という行為は当時の習慣で特別な誓いをなすときの方法であったようです。その誓いというのは、以下の二つの条件を必ず満たすものでなければならないことでした。

① イサクの妻をカナン人の中から娶らないで、アブラハムの親戚の中の娘であること。
② その娘をイサクのもとに連れてくること。

  • 特に最初の条件は、当時のカナン人はまことの神を信じる者はだれもいなかったからです。しかもカナンはハムの息子でノアから呪われていました(創世記9:25)。カナンの宗教の習慣(偶像礼拝)に染まることを避けるためでした。これを今日的に言うならば、キリスト者たる者は、キリスト者の中から結婚相手を見つけなさいということになるかと思います。それは確かににすばらしいことですし、祝福される結婚の原則と言えます。同じ神を信じる者でないとどういうことになるでしょうか。それは信仰者がテーブルの上にいて、そうでない人がその下にいて引っ張り合うようなものです。テーブルの上にいる者はおそらく引きずりおろされます。旧約聖書には同じ信仰を持っていない人と結婚することによって、信仰の道から離れて行った例が多くあります(ヤコブの兄エサウ、ダビデの子ソロモンなどはその一例)。しかしながら、日本では女性に比べて男性の信者が非常に少ないために、現実問題として女性の信者が同じ信仰を持った男性を夫として選ぼうとすると、大雑把に言って、三人に一人は結婚できないことになります。未信者との結婚についてどう考えるべきかは、信仰の継承において大きな問題です。

2. 神の導きを求めるしもべ(10~14節)と神の答え(15~67節)

パダン・アラム.JPG
  • しもべは長い旅をして(約四百キロの距離に当たります)、目的地であるアラム・ナハライムのナホルの町に着きました。アラム・ナハライムは地域名です。しもべは町の外にある井戸のそばにらくだを休ませ、これからの大切な役目を果たせるように、まず神に導きを祈りました。イサクの妻を見出せるように具体的な導きを求めて祈ったのです。それが12~14節に記されています。

【新改訳改訂第3版】創世記24章12~14節
12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

  • ここではしもべが一切人間的な画策をしていないことに驚かされます。必ず神は導いてくださるという確信がそうさせたのかもしれません。しもべが祈っているうちに、神はその祈りに応えられました。しもべが祈り終えるやいなや、ひとりの美しい娘が水を汲みにやって来ました。そしてその娘が水を汲んで井戸から上って来た時に、しもべは水を飲ませてくださいとその娘に頼みました。すると娘はしもべに水を飲ませてあげただけでなく、しもべのらくだにも(10頭のらくだ)にも水を与えてくれたのです。これは大変なことです。子どもにコップ一杯の水を上げるのとはわけが違います。大変な労力を要する仕事です。しかも見ず知らずの人のために労を惜しまず、喜んで親切をしたのです。
  • しもべは、「【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。」とあります(24:21)。そしてこの娘こそ神が祈りに答えてイサクの妻として備えられた人であると確信したのです。しもべは用意してきた贈物を娘に渡し、彼女の名前を尋ねました。その娘の名前はリべカというのですが、彼女は自分の名前を告げずに、「ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です」と答えました。自分の出生のルーツがいわば私たちの苗字なのです。彼女はなんと彼の主人アブラハムの兄弟の孫娘に当たる娘だったのです。このことを知ったしもべの驚きはいかばかりだったでしょう。しもべは、神の不思議な導きの確かさを今まで以上に感じ、ひざまずいて神を礼拝し、ほめたたえました。このあとに、しもべは娘の父ベトエルと兄のラバンにこれまでのいきさつをすべて話しました。すると彼らは「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません」と答えて、しもべの申し出を受け入れました。当の娘であるリベカも「この人といっしょに行くか」との質問に対して、「はい。まいります。」と答えました。

3. 信仰の継承における留意すべき点

  • かくしてイサクはすばらしい妻を得るとなりました。アブラハムが子イサク、そしてやがて彼らの子どもへと神からの約束を信じる信仰を継承させるために、しもべを自分の親戚のいるところへ派遣して、イサクの結婚の相手を探すように命じたことは重要なことでした。アブラハムは孫たち(エサウとヤコブ)の時代まで生きていたのです。結果的には、エサウは父や祖父の思いを正しく受けとめようとはせず、カナンの女と結婚して、母リベカを苦しめました。しかしヤコブはそれを正しく受けとめていたのです。
  • ところで、信仰継承を考える時に、親の子に対する姿勢とか取り組み方が課題となってきます。この点について、二、三の留意すべき点を確認しておきたいと思います。

(1) 子どもは親の所有物ではないこと

  • 子どもは神から親に与えられたのではなく、預けられたのです。子が一人前になるまで、一人で生きて行けるように責任をもって育てるように主に任されているということです。それを親の果たせなかった夢や理想を実現するための道具と考えたりすることがあります(おそらく無意識に)。神は人それぞれに個性を与え、賜物を与え、ご計画を持っておられます。

(2) 親自身の神に対する態度が模範的であること

  • 子どもの教育について考える場合、なんと言っても親自身の姿が重要な要素を占めることは言うまでもありません。どんなに子どもの教育に熱心であっても、親自身がでたらめな生き方をしていたのでは教育どころの話ではありません。特に信仰者として歩んでいる親自身が、神を神としてあがめ、神に従って歩んでいる姿勢がいつも問われます。アブラハムはイサクを育てる時に、すべてのものにまさって神を第一にしていくことを常に意識して育てたと言えます(22章)。

(3) 両親の間に不一致があってはならないこと

  • 父と母の間に一致がない時に、子どもの教育はうまくいかないと言われます。両親の間に一致がない場合、子どもはそれを敏感に感じ取って、その不一致を自分のために利用しようとします。そうなると教育どころではなくなります。特に耳が痛いのですが、子どもの教育の責任は最終的には父にあるというのが聖書の教えです。そのために神は父親を一家の長として立てておられるのです。そのための一切の権威と責任を神から与えられているのです。


最後に

  • 信仰を継承することは神が望んでおられることです。両親は神の知恵と助けによってでなければ、到底その務めを果たすことはできません。聖書的な正しい家庭を建設できるように、夫婦としての絆が脆いならば、そこを繕い、親子の絆が歪んだものであれば、それを修正して行くことができるように祈り求めるべきです。

1991.2.10


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