****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

信仰による義

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4. 信仰による義

【聖書箇所】創世記 15章1~21節

はじめに

  • ある教会の牧師が、いつも口癖のように「頑張りましょう」と言っていたそうです。それを聞いた宣教師がたまりかねてこう言ったそうです。「キリスト教はただの頑張りとは違います。頑張ると自分の力がなくなったときにダメになってしまいます。頑張るのではなく、キリストにおゆだねするのです。」と。まさにそれがキリスト信仰の本当の姿です。相撲の力士がインタビューされると、決まって言うセリフは「がんばります」です。それしか言葉がないかのようです。ところが政治家だとさすがに「がんばります」ではなく、「最大限の努力を果たす所存です」となります。いずれも同じことを言っているのですが、表現が異なるだけです。
  • 頑張りではなく、信じてゆだねていくところに、神のご計画や約束が実現されていきますが、なかなかそうできないのが私たちです。今回学ぼうとしている創世記15章のアブラムも、その一人でした。

1. アブラムに対する主の慰め(励まし)のことば

【新改訳改訂第3版】創世記15章1節
これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」


  • 1節に注目すると、主はアブラムに対して「恐れるな」と語りかけています。そう言うからにはアブラムが何かを「恐れ」ていたことがわかります。彼はいったい何を恐れていたのでしょうか。1節の冒頭にある「これらの出来事の後」とあります。「これらの出来事」とは、前の章に記されている出来事を指しています。アブラムはソドムに住んだ甥のロトが戦争に巻き込まれて、彼の家族とすべての財産が奪われたということを聞いて、自分の身の危険を顧みず、出かけて行って敵をやっつけて、奪われた一切のものを奪い返しました。しばらくはその奇蹟とも言うべき大勝利に浸っていたかもしれません。しかしやがて静かな生活に戻った時、その反動として、敵の仕返しの恐れがアブラムを襲ったのではないでしょうか。相手の国の王は専制君主ですから、敗北の汚名をすすぐためにいつ攻撃を仕掛けて来るかわかりません。ロトを救ったことによって相手の王の恨みを買ってしまったはずです。アブラムとしても、相当な覚悟をしておかなければならないと、不安になったと考えられます。
  • アブラムの恐れはそれだけではありません。アブラムにとって、寝ても覚めても忘れることができないのは神の約束でした。確かに一度はエジプトに逃れるという失敗をしましたが、再びそのような失敗を犯すまいと堅く心に定めて、神の約束を信じてやってきたのです。しかし、はたしてその約束は本当に実現されるのだろうか、一向に何一つ実現していない・・そんななんとも言えない焦燥感や心細さ、不安と失望感が複雑に交錯しながら、彼の心の中を吹き抜けていたのではないかと思います。そんな彼に、主は「恐れるな。」と声をかけられたのです。
  • 「恐れるな」ということばが聖書で初めて使われている箇所がここです(15:1)。聖書全体を通して、「恐れるな」が39回、「恐れてはならない」が33回使われていますが、神は旧約・新約を通して繰り返し「恐れるな」と語り続けています。それだけ私たちは強そうに見えても、本当は恐れやすい存在なのです。そのことを神はよくご存知なのです。私たちの人生にも、しばしば「恐れ」に支配され、迷いと不安の中に立たされることがあるものです。いろいろな困難に直面することがあります。しかし、その時こそ神はきわめて近くにおられることを知らなければなりません。あわてて対策を講じようとジタバタするより、静まって主に祈ることが最善であることを、アブラムを通して神は私たちに教えようとしておられるのではないでしょうか。
  • 神がアブラムに対して「恐れるな。恐れてはならない」と語られました。これは命令です。なぜ恐れてはならないのでしょうか。神は「恐れてはならない」理由として二つのことを述べています。

(1) 「わたしはあなたの盾である」から

  • アブラムの知恵とか力とか経験とかが彼の盾なのではなく、目には見えずとも神ご自身が、だれからも危害を受けることのない盾となって守ってくださるからです。「わたしはあなたの盾である」とは、完全な防衛の保障となってくださることを意味します。だから、決して恐れることはないのです。神が盾となってくださるという保障、これほど心強い確かな保障は他にありません。すこぶる安全だということです。

(2) 「あなたの受ける報いは非常に大きい」から

  • 神がアブラムに対して大いなる報いを約束しているおられるからです。何かを失ったように見えたとしてもそうではありません。必要な一切のものが与えられるからです。使徒パウロは以下のように述べています。

    【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙8章35~39節
    35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
    36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
    37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
    38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
    39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


  • 神を持ち、神を味方につけることは、たとえ一切のものを奪われたとしても、一切のものを持つのです。逆に、神を持たない者はたとえ一切のものを得たとしても、すべてを失うことになるのです。

2. 神から義と認められたアブラムの信仰

  • 神はアブラムに「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」と約束されました。さらに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(12:2, 7)とも約束されました。しかしここで一つ重大な問題が残されていました。それは「あなたを大いなる国民とする」とか、「あなたの子孫にこの土地を」と言われても、子孫となるべき跡継ぎの子がいないということでした。一体この矛盾はどうしたらよいのでしょうか。約束だけで、実質が伴っていないではないか。そんなアブラムの心境が2, 3節に記されています。

【新改訳改訂第3版】創世記15章2~3節
2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。


  • しかし神のことばは、どこまでもアブラム自身から生まれ出る者が跡を継がなければならないというものでした。そして神はアブラムを外に連れ出し、天を見上げるように言い、「あなたの子孫はこのようになる(つまり星の数ほどの子孫になる)」と約束されたのです。
  • TVのコマーシャルに「あなたならどうする」というのがありました。あなたならどうでしょうか。神の約束をそのまま信じることはやさしいことでしょうか。それとも難しいでしょうか。長年の経験からして「そんなことはあり得ない」と思うでしょうか。理性では不可能だと思います。親しい友人に相談したとしても、すぐさま「あり得ない」と一笑に付されることでしょう。でも、アブラムは信じたのです。そんな約束をされた主を信じたのです。彼は神の真実を当てにしたのです。人間の目から見るなら、それはとても不可能であるとしても、神にはできると信じたのです。「彼は信じた」とあるように、アブラムが「信仰の父」と言われる所以はこの一点にあります。
  • 「主はそれを彼の義と認められた」とあります(6節)。義と認めるというのは、主がアブラムに対して「それでよいのです。わたしはそれ以上のことは要求しません。あなたはわたしのことばを信じました。それでよいのです。そのままでいなさい。そこにあなたの人生があるのですから。」と言われることを意味しているのです。
  • 後に、使徒パウロが新約聖書の中で、私たちが救われるのは行いによるのではなく、信仰によることを啓示されました。彼は「信仰による義」という真理にアブラハムを通して導かれました。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙4章18~25節
18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。


●アブラムが義と認められたのは、「ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。」とあります。ここでの「私たち」とは、イェシュアをメシアと信じるユダヤ人と異邦人クリスチャンを含んでいます。


  • よくキリスト教は難しいと言いますが、決してそうではありません。キリスト教の救いは「創造主である神があなたを愛して、御子イェシュアをこの世に遣わされました。イェシュアの十字架の死と復活によってあなたを救いました。その事実をあなたは信じますか。」という問いに対して、「はい。信じます。」の一言、それだけです。

3. 「松明の契約」-神の約束の特質(真実さ)

  • 7節以降に移りたいと思います。そこで私たちが学ぶべきことは、神の約束における真実という特質です。7節で主はアブラムに「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与える」と言われましたが、現実にはカナン人がその地を所有しており、アブラムはこの時点ではまだ一坪の土地さえ手に入れてはいませんでした。そこでアブラムは主に「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)とその確証を求めました。
  • すると主は彼に「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」と言われて、アブラムは命じられたとおりに持って来ました。そしてそれらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにしたのです。これは当時の契約の形式で、裂かれた動物の間を当事者双方がそこを通ることで契約が結ばれました。この契約方法は、もし契約を破った場合には、動物が裂かれたように自分も裂かれても良いという承認(同意)を意味するものでした。
  • 子どもの頃、「指切りげんまん。うそついたら針千本飲ます」と子どもながらに、真剣な思いで約束したことを思い出します。ところが、約束した相手がその約束を破ったとしても、まさか本当に針千本飲ますことはできないと気づきます。そして次第に約束なんて当てにならないことがわかってきます。いつしか、約束を守るという重みが薄れていくのです。人間同士の約束は事情が変わればすぐに壊れてしまいます。そんな程度の約束であれば、その約束を信じていく方がどうかしていると言われてもおかしくありません。しかし、神がアブラムに対して与えた約束はそんな不確かなものではなかったのです。
  • 神がアブラムに与えた約束の確証は、神の側の一方的なものでした。人間同士の約束ならば対等に裂かれた動物の間を通らなければなりません。ところが神とアブラムの場合、動物の間を通ったのは神ご自身だけでした(17節)。そこでは、「神ご自身」の顕現を「煙の立つかまど」「燃えているたいまつ」にたとえられています。この契約は「松明(たいまつ)の契約」とも呼ばれます。
  • アブラムに対する神の約束は、一方的な恵みの契約であるということです。アブラムに求められることはそれを受け入れることだけなのです。ですからアブラムは通りませんでした。いや、神によってアブラムに深い眠りが襲ったことで、彼は通ることができなかったのです。その間に、神が一方的に契約をしたことになります。創世記2章に、神がアダムの助け手を造られるときにも、アダムに深い眠りをくだして、その間に彼のあばら骨をとって一人の女を造られました。神が大切な何かをされるときには、人は深い眠りに落とされているのです。これは、神の主権によって事を成し遂げていくことを啓示しています。
  • 松明の契約によって約束された土地が与えられるのは、少なくとも四百年よりも後(エジプト滞在期間だけでも430年/出12:40を参照)のことです(※脚注)。何か雲をつかむような話ですが、この約束は必ず実現するのです。そのことを示すしるしとして、神は切り裂かれた動物の間を通られたのでした。神の約束に信頼する者を神は決して失望に終わらせません。ですから、私たちは神のことばを信頼して、日々の信仰の歩みをしていかなければなりません。そのことを神はことのほか喜ばれるのです。
  • 神がアブラムの子孫に与えると約束された地の範囲を、最後に確認しておきたいと思います。これらはすべてアブラムが漂泊して目で見た場所なのです。

【新改訳改訂第3版】創世記15章18~21節
18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。
「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」



※脚注)
●創世記15章13節以降で主がアブラムに語ったこととして、
①「あなたの子孫は、自分たちのものではない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年間の間、苦しめられよう。・・」
②「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。」(16節)とあります。400年間と四代目とありますが、どのようにつながるのでしょうか。それについては以下のように立証できます。
●イスラエルの子の一人であったレビの家系を辿ると、レビ(137歳)、次のケハテは133歳、そしてアムラムは137歳、モーセは120歳(彼が80歳の時にエジプトからイスラエルの民を連れ出した)。レビがエジブトに行った時の歳は分かりませんが、モーセは四代目だったのです。

2017.6.9


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