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信仰における転機

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6. 信仰における転機

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【聖書箇所】創世記 17章1~21節

はじめに

  • 前回は、アブラムがその信仰生涯において、大きな失敗を経験をすることになった出来事を取り上げましたが、今回はアブラムの信仰生涯の大きな転機となった主の顕現から学びたいと思います。創世記12章以来、神はアブラムを選び、お召しになって導いて来られました。アブラムは失敗しながらも神を信じて従って来ました。16章の失敗によって、13年間という長い期間、アブラムに対する神の語りかけはありませんでした。しかし17章に来て、突如、神が現われ、彼の信仰生涯に一線が引かれるような新しい経験を与えられたのです。その経験以後の彼の生涯は前進と上昇の歩みをもたらしました。そのような信仰の転機をもたらした経験とはどんな経験だったのでしょうか。

1. 全能の神(エル・シャダイ)としての顕現

  • 1節を見ると「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ」とあります。13年間の沈黙を破るかのように、神の方から再びアブラムに語りかけてくださったのです。聖書の神は、私たちとの交わりを求められる神であり、私たちを祝福しようとかかわって下さる方なのです。神はアブラムに対してご自身を「全能の神」(エル・シャダイ)として現わされ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と求められたのです。しばらく、この神の語りかけについて考えてみましょう。
  • 神はここで初めてご自身を「全能の神」として啓示されました。これはどういう意味なのでしょうか。マジックのようになんでもやってしまうということでしょうか。聖書には確かに「人にはできないが、神にはどんなことでもできる。」という言葉があります。人間には力の限界があります。天地宇宙を造るようなことはできません。むしろ私たちはさまざまな面において無力感を感じています、しかしここで神が「全能の神」として啓示されたとは、「神が一度約束したことは必ず実現される神である」ということです。たとえ、人間には不可能と思われることであっても、一度、神の口から発せられたこと、約束されたことに対してはどんなことがあっても実現する・・・という意味での全能なのです。
  • こんな話があります。
    「どんなことがあっても助け合っていこう」と堅い約束をしていた二人の若者が、山道を歩いていました。すると突然、二人の前に熊が現われました。ひとりの若者はさっと近くの木によじ登りましたが、もうひとりは逃げ遅れてしまいました。そこで彼は、死んだふりをして地面に横たわって息を殺してじっとしていました。熊はその若者に近づき、鼻をくんくんさせていましたが、やがて立ち去って行きました。危険が去ったので、木の上の若者が急いで降りて来て言いました。「さっき熊が君の耳元で何かささやいていたようだけど、何て言ったの?」と。もうひとりの若者は涼しい顔でこう答えました。「危険が迫った時に自分だけ逃げるような者とは友だちになるなって。」
  • 私たちはだれでも約束を破ったり、裏切ったりしてしまう弱さをもっています。でも私たちが礼拝している神は真実な方です。聖書を通して約束していることは完全に成就されるのです。私たちは毎日の生活においていろいろなことがありますが、苦しいことが重なると、「もう私は神に見捨てられているんだ。」と考えたり、「教会に行ったって苦しいことは無くならないんだから、もう行かない。」と思ったりしてしまうのです。でも知ってください。ローマ書10章11節には「彼(イェシュア)に信頼する者は、失望にさせられることがない。」とあります。失望するような、あるいは苦しいことがあるかもしれません。しかし、それで終わってしまうということはないと言っているのです。「彼に信頼する者は、結果的に失望に終わることがない」のです。なぜなら、神は約束したことを必ず果たしてくださるからです。
  • アブラムはずいぶん前から子どもが与えられることを神から約束されていました。しかし待てど暮らせど、子が与えられる兆しがありません。アブラムも年を取っていくし、妻のサライもしかりです。約束にしては時期が遅すぎます。まだ子どもをつくれるうちにと考えて、妻サライの女奴隷ハガルから生まれたのがイシュマエルでした。ところがその子が約束の子ではないと言われます。ちなみに、このイシュマエルは後のアラブ民族、イスラム教のルーツとなります。今日でもイスラエルとアラブとが戦いを繰り返していますが、その問題の根がここにあります。神のご計画においては犬猿の仲となる宿命なのです。
  • 話が少し脱線しましたが、要するに、アブラムが99歳、そして妻のサライが89歳になって、肉体的には子どもを産むことが絶望的な状況となってしまった時に、神が「わたしは全能の神である」としてご自身を現わされたのです。ちなみに、この「全能」というヘブル語の「エル・シャダイ」にはもう一つの意味があります。それは「乳房」を表すと言われます。お母さんの食べたものがお乳となって赤ちゃんの栄養になるわけですが、「祝福を注ぎ出す、豊かにあるものを分け与えてくださる方」という意味があるということを念頭に置きたいと思います。

2. 「全き者であれ」との要求

  • そのような神がアブラムに求めたことは何であったでしょう。「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」という要求です。この要求は神の前に完全な者、欠点のない者であれと言われているように見えます。道徳的に罪のないことを示すことばのように見えます。しかし実はそうではありません。「全き者」とは神だけをひたすら信頼するという意味なのです。神だけをあてにせよという要求です。
  • アブラムが妻サライの提案を受け入れた時は、神の前に正しく歩んではいなかったのです。もし、私たちが人やモノに期待をしているならば、私たちは神の前を歩んではおらず、人やモノの前に歩んでいるのです。今、私たちは何に頼っているでしょうか。自分の将来をだれに頼っているでしょうか。詩篇の作者は「私のたましいは、黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら」(詩篇62:5, 6)と告白しています。
  • 「ただ神を」・・というのはとても深いことばです。もしこの信仰が起こって来たとすれば、その人にとって画期的な経験となるはずです。それまでの生き方とは一線を画する経験となるはずです。神が身近に感じ、大きな安心に支えられ、聖書のいう平安と喜びがこういうことだったのかと目のうろこが落ちる経験をするのではないでしょうか。神はそうした経験に私たちを導くために、しばしば神だけを頼るしかない状況へと導かれるのです。
  • かつて東京の八王子にある教会にひとりの中年の女性が飛び込んできました。牧師がいろいろとその方の話を聞くと、その女性は信頼していた人から裏切られ、そんな自分にも嫌気がさして「もうだれも信頼できなくなりました。もう生きていくのが嫌です。死んだほうがましです」と訴えたそうです。その訴えをじっと聞いていた牧師は、「あなたは本当に幸いな人です。あなたのような人が神に一番近いのです。」と言いました。そしてこう勧めたのです。「もうだれも信頼できなくなったのですから、あとは神だけを試してご覧なさい。やってみてもし神も信頼できない方であったなら、その時どうぞ死んでください。」と。随分と乱暴な言い方のようですが、それ以来彼女は真剣に神を求めるようになり、教会に通い、聖書を一生懸命読み始めました。そうすることによって、神の方が真剣に自分のことを愛してくださっていたことを知らされ、この神なら心配いらないと信じてクリスチャンになったそうです。
  • 有名な詩篇121篇のみことばに、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」とあります。「私の助け」、つまり、私のありとあらゆる助けが、人やモノからではなく、天地を造られた主から来るという告白です。ドイツのカール・ブッセという詩人が作った「山のかなたの空遠く、幸い住むとひとのいう」という有名な詩があります。この詩には「ああ、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみかえり来(き)ぬ」という後半の部分があります。それが意味することは、「幸いは山のかなた」にあるらしい。だから、私はそれを実際に尋ねてみたけれど、「幸い」はそこにはなく、涙にくれるしかなかったというのです。それに比べて詩篇121篇の作者は「私の助けは、天地を造られた主から来る」という明確な確信に満ち溢れています。求めて探しに行くのではなく、向こうの方からやってくるという告白です。天地を造られた主は必ずご自身が約束されたことを実現される方なのです。この方は「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言われる方を信頼して歩めるなら、何とすばらしいことでしょう。神にはご計画があります。また私たち一人ひとりに対してもご計画を持っておられます。とすれば、その計画にある約束を知ることが大切です。
  • アブラムは主の語りかけに対して、「ひれ伏し」(3節)ました。人間にとって最も美しい姿は、神の御前に「ひれ伏す」姿です。アメリカでは大統領でさえも、一個人として、神の前で礼拝をするのです。アブラムが神の御前にひれ伏した時、神がアブラムを通してすべての民を祝福することを約束されました。ですから、傲慢になることなく、「主を恐れることは知恵のはじめ」だということを心に留めたいものです。

3. 主を信頼して歩む夫婦(アブラムからアブラハムへ、サライからサラへ)

  • もう一つ、17章から学びたいことは、神を中心とした夫婦、神を土台とした家庭の祝福ということです。アブラムが信仰の転機となった出来事の中に、私たちが注目しなければならないことがあります。それはアブラムのみならず、妻のサライも同様です。つまり、神は彼らに対してそれまでの名前を改めるよう命じたということです。

【新改訳改訂第3版】創世記17章5節、15~16節
5  あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。

15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

  • ここで神が夫婦ともに改名することで、夫婦としての新しい信仰の歩みが求められました。そして主は、彼らを祝福されました。前にもお話ししましたが、神が「祝福する」という場合、単なる個人的な事柄を越えたグローバルな事柄であるということです。したがって、そこには責任と使命があります。苦労もあります。しかし同時に光栄に満ちた立場と働きが与えられることなのです。アブラムがアブラハムとして祝福を受けるということは、彼個人を越えて、他者にもたらされていく幸い、それが聖書の祝福です。この点こそ、普通のご利益宗教と異なるところです。
  • 夫婦一体として神の御前に新たな歩みを求められるという祝福は、彼らの場合、人類の救いの問題に大きくかかわる責任と使命が伴います。アブラハムだけでなく、サラも改名することを命じられたとは大きな意味があります。それは夫婦が神の御前でともに歩むということに計り知れない祝福が注がれると信じます。単にクリスチャン同士が結婚して家庭を築けば、自動的にクリスチャンホームとなるわけではありません。夫婦がその歩みにおいて神からの召しとその使命を主体的に自覚する必要があります。
  • 家庭において、中心は常に神ですが、その次に優先すべき関係は親子関係ではなく、夫婦関係であるということです。聖書は記しています。「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)。これによれば、「父母から離れること」と「結び合わされること」が正しく理解される必要があります。親子関係の場合は「一体になる」とか「結び合う」ということばでは表現されません。聖書が教える家庭の優先順位は、夫婦関係、親子関係、そしてそれ以外の関係です。この優先順位が崩れる時、多くの悲劇が起こります。もし子ども中心の家庭を築いて来た夫婦、会話も生活設計もすべて子ども中心になされている場合、子どもが大きくなって家を去るようになると、夫婦は他人同士となってしまいます。それのみならず、その子どもが結婚して家庭を築くことに失敗します。子どもによって支えられている家庭は崩壊する運命にあります。なぜなら、神が定めた正しい家庭の在り方ではないからです。
  • 子どもたちが本当に知らなければならないこと、本当に見なければならないのは、夫婦として互いに愛し合い、受け入れ合っている姿です。親が子に与えることのできる最大のプレゼントは、実に夫婦の真実な愛ではないでしょうか。そのためには夫婦としての多くの時間を持ち、大切にすることです。何にもまして夫婦関係を家庭において優先することです。「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」と聖書にあるように、秘密を持たない関係が築かれるのです。それが夫婦のみならずその子ども、その家庭が神の祝福に与って行く神の方法なのだと信じます。

2017.6.14


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