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会見の幕屋に仕えるレビ人

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民数記の目次

4. 会見の幕屋に仕えるレビ人の務め

【聖書箇所】 4章1節~49節

はじめに

  • 民数記4章には、幕屋に仕えるレビ人の三つの氏族と祭司とのかかわり、および、幕屋を移動する場合の仕方、そして三つの氏族の30歳から50歳までの人数が登録されています。以上のことを以下のチャートにまとめました。

画像の説明

  • 他の12の部族が登録したのは20歳からですが、レビ人の場合は30歳から50歳と規定されています。それはおそらく神に仕える霊的な10年間の準備期間が必要と神が判断されたのです。イエス・キリストが30歳にして公生涯に入られたのはこのことと関連があるかもしれません。十分な霊的な準備期間の重要性をここに見ます。

1. 祭司である「アロンとその子ら」とレビ人とのかかわり

  • 祭司職はレビ族の中でもアロンの直系の子どもたちの人数の登録は記載されていませんが、「アロンとその子ら」とあっても、アロンの息子は「エルアザル」(第3番目)と「イタマル」(第4番目)の他にはいません(第一番目のナダブと第二番目のアビフは異火を主にささげたことで主によって殺されてしまいました)。エルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えました(民数記3:4)。その下の子どもで名前がよく知られているのは「エルアザルの子ピネハス」ぐらいです。イタマルに息子がいたという記述は聖書にありませんから、祭司はほんの数人しかいなかったことになります。その彼らが、8,580人ものレビ人たちを管理、指導する立場にあったのです。

2. 「会見の幕屋」を移動するときの規定

  • 「会見の幕屋」を移動するときの規定が記されていますが、最も聖なるである聖所の中で使われる器具について最初に取り上げられています。器具は聖なるものであり、それを運ぶことになっているケハテ族の人々が神に打たれて死ぬことがないように、まず、祭司たが聖所に入って器具を覆いました。そして担ぎ棒をつけてから、ケハテ属がそれを運ぶのです。ですから、ケハテ族の人々は自分が運ぶものが聖所の器具だと知っていたとしても、生涯、その器具を見たり、直接に触れたりすることができないものを運んでいたことになります。不思議な感覚です。
  • 神を礼拝することにおいてそれを仕切る大きな責任は祭司に委ねられています。その監督下のもとで仕えるレビ人が神によって備えられたのです。こうした秩序を定めたのは神ご自身です。その秩序に反することは死を意味しました。
  • それに対して、幕関係を運ぶゲルション族や板や材木関係を運ぶメラリ族は、それらを見たり触れたりすることができました。

3. 器具を包む布の色は「青色」

  • 幕屋を移動する際には幕屋が分解されますが、ケハテ族が運ぶ聖所の器具に関して注目すべきことがあります。それはそれらの器具の包み方です。
  • 「あかしの箱」(契約の箱)を除くすべての器具を覆う覆い方には共通するところがあります。それは「青色の布」をかけて、その上にじゅごんの皮をかけるということです。祭壇の場合、新改訳では「紫色の布」となっていますが、「青色」も「紫色」もいずれも原語は「テへーレット」תְּכֵלֶת)です。おそらく、紫に近い青か、濃紺と考えてもよいかも知れません。その色は「空」、すなわち「神」を表わす色です。
  • 「あかしの箱」(契約の箱)の場合、じゅごんの皮の上に「真っ青な布」を広げて覆いいました。「真っ青」と訳されたことばは、青色を示す「テへーレット」תְּכֵלֶת)に「ケリール」כְּלִילという「完全な、完璧な」という形容詞がついた色を表わしています。ですから、他の青とは異なった青色で、まさに、この色の布が「あかしの箱」であることをだれもが見てわかるようになっているのです。神の臨在を表わす「あかしの箱」の上に「真っ青の布」がかぶせられたからです。
イスラエルの国旗.JPG
  • ちなみに、ダビデの星をデザインしたイスラエルの国旗の色が「青色」です。このことと無関係ではないのかもしれません。
  • この章において、重要なことは、会見の天幕を運ぶ時には、すべてのものに覆いがかけられたということです。会見の天幕は天にある霊的な事柄の写しですが、本当の姿が覆われて隠されているのです。
  • イエス・キリストの到来によってはじめてその覆いは取り除かれました。覆いは取り除かれていますが、なお、隠されてもいるのです。聖なる事柄(イエスのたとえ話においても)はその意味を問うことがなければだれひとりとして明らかにされないのです。ですから、「耳ある者は聞きなさい」、「聞き方に注意しなさい」とイエスはいつも繰り返し繰り返し語っておられました。
  • 聖所にあるすべての器具のひとつひとつはすべてイエス・キリストを指し示していたのですが、その覆いが取り除かれて本来の意味に目が開かれるためには、聖霊の助けが必要です。その聖霊も日々の糧として執拗に求め続けるならば、隠されている事柄が、目からウロコが落ちるように見えるようになることをイエスは約束しておられるのです(ルカ11:1~13)。

民数記5章、民数記6章はそれぞれをクリック。

2012.1.14


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