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人間をとる漁師にしてあげよう

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3. 人間をとる漁師にしてあげよう

ベレーシート

  • イェシュアがガリラヤで宣教を開始された時、イェシュアの弟子となる者たちを呼び出されました。ここでは四人の弟子たちの名前が登場しています。彼らはここではじめてイェシュアに会い、いきなり「わたしについて来なさい。」と言われたのではありません。彼らはすでにバプテスマのヨハネの弟子たちだったのです。しかしヨハネが捕らえられたので、彼らは故郷に帰って漁師の働きをしていました。
  • ヨハネの福音書によれば、彼らの師であったヨハネがイェシュアのことを「見よ、神の小羊」と証言したことに関心を抱いた弟子は、イェシュアの泊まっている家に行き、一晩共に過ごしたことで、イェシュアがメシアであると確信しました。二人の弟子のうちの一人であるアンデレは、翌日、兄弟のシモン・ペテロをイェシュアのもとに連れて行きました(ヨハネ1:35~42)。ですから、シモン・ペテロとアンデレはイェシュアとすでに顔見知りであったのです。彼らは、イェシュアから呼び出されたとき、すぐに網を捨てて従うことができたと言えます。
  • しかし、そうした心の準備など一切ないと思われるところでも、イェシュアの招きには人の想像を超える圧倒的な、はかりがたい権威があります。例えば、マタイ9章9節にあるように、イェシュアが収税所に座っていたマタイ(マルコでは「アルパヨの子レビ」2:14)をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われると、すぐに彼は立ち上がって、イェシュアに従ったとあります。メシアニック・ジューと言われる人の多くは、そのような招きを受けるようです。それゆえ、彼らの多くが親から勘当されるそうです。イェシュアの招きに即座に従うということは、きわめて不思議な出会いと言えます。
  • イェシュアは、彼らの他に別の兄弟であるゼベダイの子ヤコブとヨハネにも声を掛け、弟子として招きます。そして彼らもすぐに網を捨ててイェシュアに従ったことをマタイは記しています。

1. イェシュアの招きのことば

  • ガリラヤで宣教を開始された時のイェシュアのメッセージは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」でした。「~し続けなさい」という命令形の現在形と、「なぜなら」という理由がその後に語られることばでした。しかし最初の弟子たちを招いたことばは、以下のように、アオリストの命令形と将来の約束を伴うものでした。

画像の説明

  • 上記と全く同じ構造を持つイェシュアの招きがあります。

【新改訳改訂第3版】マタイ 11章28節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい(命令アオリスト)。わたしがあなたがたを休ませてあげます(未来形)。

(1) 「わたしについて来なさい」

  • 「ついて行く」「ついて来る」を意味する動詞の「デューテ」(δεῦτε)は、副詞の「デューロ」とも解され、「ここへ(来なさい)」「さあ(~しなさい)」と訳されます。ですから「さあ、わたしについて来なさい」という呼びかけのニュアンスです。文法的にはアオリストの命令形ですが、これはギリシア語では特異な意味を持っています。それは一回的な決断、主体的・自発的決断をすることを求める命令形です。つまり、その人の生涯を決定づける決断を迫る表現なのです。

(2) 人間をとる漁師にしてあげよう

Follow Me, and I will make you fishers of men.(NKJV)

  • 「わたしについて来なさい。」という命令は、弟子たちを神の働きのために訓練することを示しています。イェシュアはご自身が御父に仕えるように、弟子たちも仕える者となることを期待して呼び掛けておられます。イェシュアは弟子たちを他の人々の生涯に触れることができるように、仕える者として整えてくださるのです。
  • ここで重要なことは、イェシュアについて行った者が自分の力や努力によって「人間をとる(すなどる)漁師」になることではありません。イェシュアご自身がそのような漁師にしてくださるということです。イェシュアについて行く者は、この世で立派な肩書きは要りません。私たち人間の能力によっては、だれ一人として、神の働きを担うことはできないからです。このことはこの世の常識と異なっています。このイェシュアのことばは、能力のある者、多くの学業を身につけた者にとって不快感をもたらすかもしれません。しかし、無学のただ人にとっては大いなる希望をもたらします。
  • もう一つ重要なことは、普通、ある人の弟子となる場合は、その者が自ら師匠の門をくぐらなければなりません。しかしイェシュアの弟子となる者は、師であるイェシュアから直接に招かれなければ弟子にはなれないということです。これも世の常識とは異なります。
  • 「人間をとる漁師に」と訳されていますが、原文の直訳では「人々の(人間の)漁師」です。「とる」は「捕る」の意味です。魚を売るために、あるいは食べるために捕りますが、ここでの「人を捕る」とは、人々に永遠のいのちであるイェシュアを与えて生かすために捕るのです。これもまた世の常識とは異なります。

2. 人を捕るために、網も舟も父も捨てて従った弟子たち

【新改訳改訂第3版】マタイ4章20, 22節
20 彼らはすぐに網を捨てて従った

22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った

  • イェシュアは「湖で網を打っていた」シモン・ペテロとアンデレを召し、さらには、「舟の中で網を繕っていた」ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも召し出しました。彼ら(四人の者たち)はみな漁師たちでしたが、いずれも「すぐに」、網も舟も、そして彼らの父をも残してイェシュアに従ったのです。
  • 「すぐに」と訳されたギリシアの「ユーセオース」(εὐθέως)は、じっくり時間をかけて十分に考えてから、じっくりと計算してからという意味ではなく、まさに「即座に、たちどころに、間髪を置かずに」という意味です。新約では34回使われていますが、マタイだけでも7回使われています。即座の行動を表すだけでなく、いやしなどにおける突然の変化の現われにも使われています。往々にして、これは「御国」における特徴の一つと言えます。
  • 最初の弟子となる者たちが、「網」と「舟」を、また「父」をも捨てたということは、職業だけでなく、家業と家系も捨てたことを意味します。御国の働きをするために、この世の仕事を捨てる決心をしたことを意味します。それは御国の働きのために専心するためです。弟子となる者が学ぶべきことは、主に仕えることが、人生における他のすべてのことに優先するということです。
  • マルティン・ルターは、この世での職業を神からの「召命」として位置づけましたが、直接的に神の福音を伝え、教えるための「召命」という形もあるのです。いずれが優れて17いるというのではなく、神からの召しをどのように受け留め、理解するかという問題です。ある者は医師という職業を通して、ある者は教師という職業を通して、ある者は事業家として、ある者は家庭の主婦として、・・というように、みなそれぞれが神からの召しを受けている必要があります。重要なことは、主にある者たちが自分に対する主の召命を確信して従っていくかどうか、ということです。
  • イェシュアの招きに対して、シモン・ぺテロとその兄弟アンデレは、「すぐに網を捨てて従った。」とあります。「従った」は動詞「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)のアオリストです。この動詞は新約で90回使われており、群衆のように、単にイェシュアに「ついて行く」というレベルから、自分の十字架を負って「どこまでもつき従っていく」という弟子道(修道)のレベルまでを網羅する重要な語彙です。英語ではほとんどfollowと訳されます。ちなみに、この動詞「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)の各福音書の使用頻度数はマタイが25回、マルコが18回、ルカが17回、ヨハネが19回となっています。
  • 使徒とされたペテロの生涯は、イェシュアの招きに応じて「すぐに網を捨てて従った」(4章20節、「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)のアオリストで始まり、ヨハネの福音書21章19, 22節の「あなたは従いなさい。」という同じく「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)の現在命令形でくくられています。途中、ペテロは主を否認し、主の弟子として従うことに失敗したこともありました。にもかかわらず、イェシュアは彼のために祈り、繰り返し、従い続けるようにと命じています。つまり、キリストに従う弟子の道は、主体的な決心をしたなら、後は常に「従い続けていく」という現在形なのです。どんな理由であったにしても(たとえ大きな失敗を犯したとしても)、途中で放棄せずに、従い続けることを主は望んでおられます。しかしそのためには御霊の助けが不可欠ですが、それすらも与えておられるのです。
  • 教会学校で歌われる歌に「イエス様について行こう。イエス様について行こう。イエス様について行こう。どこまでも、どこまでも。」があります。単純な歌ですが、まさにこの中に、主の弟子として生きる者の姿勢(主の弟子道の精神)が歌われています。

3. なにゆえ、イェシュアの最初の弟子が漁師であったのか

  • イェシュアが語ったこと、またなさったことのすべては、たまたまといった偶然的なことは無く、すべて意味をもっているという視点からすれば、イェシュアの最初の弟子となった者たちが漁師であったということ、そこには必然性があるはずです。
  • 「漁師」という語彙が持つ概念は、以下のように「すなどる」ことにあります。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書16章14~16節
14 それゆえ、見よ、その日が来る。──【主】の御告げ──その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた【主】は生きておられる』とは言わないで、
15 ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。
16 見よ。わたしは多くの漁夫をやって、──【主】の御告げ──彼らをすなどらせる。その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。

  • 漁師の働きは人をすなどるだけでなく、終わりの日に良いものと悪いものを最終的に選り分ける働きを象徴しています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書13章47~48節
47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

  • 旧約聖書の中で「漁師」という語彙を検索すると二箇所ヒットします。そのうちの一つには、メシア王国において、エルサレムの神殿の敷居の下から流れ出るいのちの水が流れ行く所では、たといそこが死海であったとしても、すべてのものが生きることが記されています。そしてそこにも「漁師」が登場しています。終末的審判だけでなく、終末的祝福においても、「漁師」の務めが語られています。ちなみに、メシア王国では朽ちないからだを与えられていない者もいるので、魚を食べる者たちがいるのです。また漁師がいることで、あらゆる種類の魚がいることが明らかにされることでしょう。

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書47章10節
漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。

  • このように、イェシュアが最初の弟子として漁師を召し出したのには、神のご計画における御国のあり方を象徴的に示すかたちとなっています。


2017.1.2


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