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交わりのいのちのしるし <1>親密さ

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A-05. 交わりのいのちのしるし <1>親密さ

はじめに

  • ヘンリー・ナウエンは、その著『いのちのしるし』(女子パウロ会、宮澤邦子訳、2002)の「はしがき」の中で、「わたしたち人間は恐れに満ちた存在である。・・・恐れはわたしたちの内面深くまでしみこんでいるので、気づいているにせよ、いないにせよ、わたしたちの選択や決心の大部分はそれによって左右されてしまう」と述べている。ひとたび恐れが私たちの生活を支配するようになるやいなや、私たちは愛の家から語られることばを非現実的なものとして信じられなくなってしまう。恐れをかき立てる現実的な世界のただ中で、果たして私たちが「全き愛は恐れを締め出します」という真理を知り、それによって恐れから自由になることが出来るのだろうか。
  • ヨハネの福音書15章から、<いのちのしるし>としてイエスが弟子たちに語っておられる三つのことばを選び、いのちのしるしについて考えてみよう。(注1 )
    ①「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたのうちにとどまります。」(4節)
    ②「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(5節)
    ③「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(11節)
  • これらのことばは、私たちが「恐れの家」から逃れ出て、「愛の家」に住むようにとの御父からの招きの声である。

(1) とどまること

  • 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたのうちにとどまります。」(ヨハネ15章4節) (注2) 「とどまりなさい」という招きは、「わたしの家に住みなさい」との招きであり、「一体となる」ことである。
  • 親密さは共に住むことから生まれる。家族が共に住む家は愛を育てる苗床である。聖書において、家に住むことは、神と私たちとの交わりについて明確なかたちをイメージさせるものとして表現されている。神が家を持っておられて、その家に私たちも住む。これは神と私たちとの交わりが最も親密であり、最も穏やかであることを詳しく説明するイメージである。
  • 「わたしがあなたがたのうちに住むように、あなたがたもわたしのうちに住みなさい」とイエスが言われるとき、私たちは本当に「自分の家」と呼ぶことのできるような、親しみに満ちた、フレンドリーな場所が提供されているのである。家とは私たちが恐れを抱く必要のないような場所である。そこでは私たちは心の防御を捨てて、心配事からも、緊張からも、自由になることができる。私たちが笑ったり、泣いたり、抱き合ったり、踊ったり、ぐっすり眠ったり、食べたり、飲んだり、遊んだり、一緒に語らいをすることのできる場所。私たちが休息し、くつろぎ、心が癒され、そこにいることの心地良さを感じるような家。それこそが愛のホームである。しかし、私たちの世界にはそうした家を持たないホームレスの人々が大勢いる。ホームレス、これこそ現代の悩みを最もよく表すことばかも知れない。ハウスはあってもホームがないのである。
  • キリスト教は宗教ではない。神の家で共に住むという現実(リアリティ)である。そこには親しい関係があり、理解があり、受容があり、愛と信頼がある。そうした親しい人格的な交わりこそいのちなのである。イエス・キリストはそうしたいのちの絆の中に私たちを招いておられるのである。
  • ①放蕩息子の帰郷(ルカ福音書15章のたとえ話)
    放蕩息子が父の家に帰ったたとえ話があるが、聖書は「父の家に帰ること」、これが救いであり、いのちなのだと教えている。しかもその家は、失われることのない、永遠の親しい家庭、愛の交わりのある家である。父の家とは、御父、御子、御霊なる三位一体の神の愛の交わりの親しさが満ち溢れているところである。 
  • ②詩篇23篇の結論
    「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23篇6節b)これがこの詩篇の結論である。ダビデはその生涯にわたって「主の家に住むこと」を優先すべき事柄として求めた。(詩篇27篇4節)
  • 神の備えておられる家は、私たちがアットホームに感じる親しさにあふれた愛の家である。しかし、「恐れ」はそうした親しさにあふれた家を作り出す事はできない。生存の不安、存在の不安は、しばしば私たちの思いと行動をうながし、さらなる恐れの家に住むことを余儀なくさせる。ただ、主イエスの語られることばを信頼することを通して、はじめて主の家に、愛の家に住むことができる。イエスは「わたしから離れてあなたがたは何もできない」と言われたように、イエスにとどまり、イエスのことばと愛に信頼するというフレンドリーな関係を築くこと、これがすべての基盤である。

(2) 神の友となること

  • いのちのしるしとしての「親密さ」について、ヨハネの福音書15章には、もうひとつの大切なことばを用いている。それは「神の友」ということばである。「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(15節)  私たちは神の友として生きるように招かれている。
    ハンス・ビュルキ師 (注3) はこう述べている。「私たちの根本的な召命とは、何になるとか、何をするとかではなく、私たちが神の友となることです」と。
  • 「友」という関係は、自分は自分であり、友は友であるという互いの独自の存在を大切にする関係であり、決して互いを支配しない関係である。それでありながら、互いが愛と信頼によって深く結びついている関係であり、その関係の中で互いが成長し、いよいよそれぞれの独自性が豊かにされている関係である。さらに、この友としての関係に新しい友が加わってくる。この開かれた関係こそ<とりなしの働き>といえる。主は私たちを信頼し、ご自身の重荷を友として私たちに担なわせ(「共働」)、主のご計画を共に実行することを期待してくださっている。

(注1)
ヘンリー・ナウエンは、「いのちのしるし」という本の中で、いのちのしるしとして三つのものをあげている。

ジャン・バニエ
  • その一つは<親しさ>、二つ目は<豊かさ>、そして三つ目は<喜悦>である。これらの三つのことばは、ナウエンが、ラルシュ共同体の創始者ジャン・バニエの招きで、ある黙想の会に参加し、その黙想の間にバニエが口にしたことばであった。後に、ナウエンがイエスの弟子たちに向けた決別説教を読んでいたとき、バニエが語っていたことばを思い出し、ヨハネ福音書において、これらの三つのことばの重要性に目が開かれ、これらのことばがヨハネ福音書全体に織り込まれた金の糸であることに気づかされたと述べている。そのインスピレーションによってこの本が著わされた。その本から教えられるところは多い。

(注2)
7節では「わたしのことばにとどまる」というふうに、9節では「わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言い換えられている。

(注3)
ハンス・ビュルキ師(1925年スイス生まれ)は福音主義の立場に立ちつつ「福音主義の霊性」を探求している一人である。『主の弟子となるための交わりー日々の生活の中で霊性を培うー』(多井一雄訳、いのちのことば社、1999)という本を書いている。ビュルキ師は、その著書の中で、日常生活に根ざした信仰生活を確立する道として<交わり>という視点から、聖書の教えを深く掘り下げようとしている。その中で、神に対する信仰は人間関係の中で吟味されて、真実なるもの、純粋なものになると教えている。



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