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五旬節(シャヴオット)に語ったペテロの説教

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4. 五旬節(シャヴオット)に語ったペテロの説教

【聖書箇所】 2章14節~47節

ベレーシート

  • 祈っていたイェシュアの弟子たちの上に約束の御霊が注がれ、その御霊に満たされた彼らは御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。これを聞いたある人々が「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」とあざけったことから、使徒ペテロがこの出来事がヨエルの語った預言の成就であることを説明し、イェシュアの十字架の死と復活の出来事を語って人々に悔い改めを迫りました

1. 聖霊の降臨の出来事はヨエルの預言の成就

【新改訳2017】

使徒の働き2章16~21節

17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

【新改訳2017】

ヨエル書 2章28~32節

28 その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。

29 その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。

30 わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。

31 【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。

32 しかし、【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。【主】が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、【主】が呼び出す者がいる。」

  • 「すべての人」とは、ここではヨエルが語っているユダの人々です。このことが実は重要です。異邦人である私たちも彼らに約束された「わたしの霊」のおこぼれにあずかりますが、第一義的には、ユダの人々に対してなのです。このことをしっかりと理解しないと神のマスタープランにおけるヴィジョンは見えてきません。
  • ここでのペテロの説教は五旬節のためにエルサレムに集まってきていたユダヤ人(改宗者)に対して語られたものです。使徒ペテロはこの出来事が預言者ヨエルによって語られた事だと説明しましたが、そのすべてが成就したわけではありません。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と神はヨエルを通して約束しましたが、この時、「すべての人に」注がれたわけではありません。一部の人々に注がれたに過ぎません。
  • 民数記11章29節にモーセの願いが記されています。彼は「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と自分の後継者となるヌンの子ヨシュアに言いましたが、「終わりの日」(最終段階)には文字どおりそうなるのです。まさにヨエルが預言したように「息子や娘が預言をし、青年は幻を見、老人は夢を見る」ようになるのです。神のことを黙想したり、熟考したりして夢見るのは常に年配者でした。しかし聖霊が注がれると、若者たちもそのようなことができるようになるのです。しかもまた、しもべにもはしためにも主の霊が注がれて、霊的な力と祝福にあずかるようになるのです。それはヨエルの時代には信じがたいことであったに違いありません。まさに「すべての人」に主の霊が注がれる時が来るのです。それはすでに来ています。しかし未だ完全には来ていません。
  • ゼカリヤ書には、ユダヤ人が反キリストの大患難を免れて隠れているボツラで、「恵みと嘆願の霊」が注がれて民族的な救いを経験することが預言されています(ゼカリヤ12:10、エゼキエル39:29も参照)。引用されたヨエル書の預言の多くの部分は、キリストが再臨される前に完全に成就する出来事なのです。反キリストによるハルマゲドンという真っ暗闇の状況の中で、恵みと嘆願の霊を注がれたイスラエルの残りの者たちが、すなわち、「息子や娘が預言をし、青年は幻を見、老人は夢を見る」のです。イェシュアをメシアであることに全く盲目だった者たちが、神のご計画を悟り、それを語り出すのです。これはまさにサウロ(後のパウロ)がダマスコ途上で三日間盲目にされた後に、目から鱗のようなものが落ちて、自分が迫害してきたイェシュアこそメシアであることに目が開かれて、それをただちに伝えたという驚くべき展開が、「イスラエルの残りの者たち」にも起こるのです。

(1) 神のみわざにおける「すでに」と「いまだ」(Already, but not yet)

  • 英国の新約学者であったC.H.ドットという人は「実現された終末論」を強調した人で有名です。「実現された終末論」の教えは、「神の国はすでに私たちのうちにある」という事実です。確かにそれは正しいのですが、それを強調することで、神の国の到来における「しかし、いまだ」(but not yet)という部分が希薄になってしまいました。その証拠に、使徒の働きの2章で引用されているヨエル書の内容のほとんどは未だ実現していないにもかかわらず、今日のキリスト者はヨエルの預言を正しく理解することができずにいるのです。この私も長い間そうでした。聖霊降臨は二度あるのです。そしてその二度目はメシアが再臨される前です。
  • イスラエルにおいては、穀物の収穫に必要な雨として「初めの雨」(秋の雨)と「後の雨」(春の雨)があるように、聖霊の注ぎも二度あるのです。イェシュアの来臨も初臨と再臨があるように、再臨も「空中携挙」と「地上再臨」とがあるのです。神のご計画における最終ステージも「メシア王国」(千年王国)と新しい天と新しい地における「神の都エルサレム」(神の幕屋)があるのです。すべて二段階です。
  • 最初の聖霊降臨の時の出来事は、使徒の働きを読めば、そのときどのようなことが起ったのかを知ることができますが、メシアが再臨される直前に起こる「聖霊の注ぎ」の時にどのようなことがあるのかと言えば、多くの預言者がその出来事のピース(一部分)を語っているのです。ヨエル書もその時に起こるピースを語っています。それによれば、神の民イスラエルが民族的に神の霊を受けることによって、神を知るようになるということです。その結果、息子や娘が預言し、青年が幻を、老人は夢を見るようになるのです。それは、文字通り「すべての人」が聖霊の注ぎを受けて、神ご自身を知ると同時に、神のご計画の全貌を知るようになるだけでなく、神のみこころを行う力さえも与えられるのです。神のみこころを知る力が与えられるということはヨエル書にはありませんが、エレミヤ書の「新しい契約」にはそうした力が与えられることが預言されています。やがて必ずそうなるのです。しかしそうした「その日」が来る前には、以下のような事が起こります。

(2) 「わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす」

  • 「終わりの日」には、「いなごの来襲」に象徴される反キリストによる大患難が起こることがすでに語られていますが、それに加えて自然界での天変地異も起こるのです。終わりの日に、神である主はかたくななユダヤ⼈たちの⼼をなんとか開かせるために大患難という試練の中で、主を求めさせ、聖霊を注いで、再臨のメシアを受け⼊れさせる準備をされるのです。そのために起こる出来事は、かたくなな者にとっては「主の大いなる恐るべき日」となり、救いを求める者にとっては「神の大いなる輝かしい日」ともなるのです。「さばき」と「救い」、それが必ず実現するしるしこそ、ここでいうところの「不思議なしるし」であり、そのしるしは「血と火と煙の柱」によるものなのです。

① 地における不思議なしるし

  • 地においての不思議なしるしである「血と火と煙の柱」とは何でしょうか。「血と火と煙の柱」を流血と戦争の象徴であるとする解釈が多い中で、創世記15章に主がアブラハムと一方的な契約を結んだ出来事があります。その契約の内容はアブラハムの子孫に「エジプトの川からユーフラテス川まで」の土地を与えるというものです。当時の契約方法は、真っ二つに切り裂かれた動物の半分を互いに向かい合わせにして、その裂かれたものの間を双方が通り過ぎるというものでした。ところが深い眠りがアブラハムを襲います。そして結局、その間を通り過ぎたのは主ご自身だけでした。そのときのことを次のように聖書は記しています。

【新改訳2017】創世記15章17節
日が沈んで暗くなったとき、見よ、、暗やみになったとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

  • 上記の「切り裂かれた物」は「血」、「燃えているたいまつ」は「火」、「煙の立つかまど」は「煙の柱」と解するならば、終わりの日の「血と火と煙の柱」のしるしは、神がアブラハムに対して約束したことを決して忘れてはいないというサインとなります。つまり「血と火と煙の柱」とは、アブラハムの子孫であるイスラエルの民たちに対する神の約束を思い起こさせるサインだとも解釈できるのです。

② 天における不思議なしるし

  • 天において現われる不思議なしるしは、「太陽はやみとなり、月は血に変わる」という異変です。地の不思議なしるしが神の約束の確証を与えるものだとすれば、天変地異という言葉があるように、天における異変のしるしは地のしるしを支えていると考えることができます。イェシュアが十字架にかかった日の午後、太陽が暗黒に変わったことは、終末(終わりの日)におこる六つの奇蹟のうちのひとつです。

六つとは以下の出来事を指します。
(1) 一人の強盗が神に立ち返って救われたこと
(2) 真昼に太陽が暗くなり、三時間の暗やみが全地を襲ったこと
(3) 神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が上から下へ、二つに裂かれたこと
(4) 地震が起きたこと
(5) 岩が裂けたこと
(6) 墓が開いて多くの聖徒たちが生き返ったこと)の出来事の予表です。

  • イェシュアとヨハネは(2)の異変について、以下のように語っています。

【新改訳2017】マタイ 24章29節、マルコ13章24~25節
そうした苦難の日々の後(=反キリストによる大患難のこと)、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録6章12~13節(神の怒りの日の叙述)
12 また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を振り落とすようであった。

  • キリストの花嫁である教会はすでに空中携挙によって天に携え挙げられていますので、上記の光景を見ることはありません。しかし、神のマスタープランを知るためには学んでおく必要があるのです。神を愛する者とは、神のヴィジョンを共有する者だからです。

2. ペテロの説教の核心は「神は、この方をよみがえらせた」という事実

【新改訳2017】使徒の働き2章22~24節
22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。

  • ペテロはヨエル書を通して「終わりの日に」起こることを語りました。それは今や「終わりの日」がキリストの初臨と共に始まり、キリストの再臨によって終わりを告げることを確信したからに他なりません。ペテロはイェシュアこそメシアであることを宣言しています。使徒的宣教は原則として以下の四つの部分からなっています。

① 預言の成就の時が到来したこと。
② イェシュアの宣教、死、復活の物語。
③ イェシュアがメシアであることの旧約の引用。
④ 悔い改めへの招き

(1) イェシュアの宣教と死と復活

  • イェシュアの宣教は「力あるわざ」と「不思議な技」と「あかしの奇蹟」でした。それは人々の間に働く神の力の証であり、神の国のしるしです。イェシュアが「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているなら、神の国はすでにあなだがたのところに来たのです」(ルカ11:20)と言われたようにそれらは神の国の到来のデモストレーションでした。しかしこのイェシュアは十字架によって殺されましたが、これも知らずして、「神の定めたご計画」を成就していたのです。なぜなら、預言者を通してあらわされた神のご計画とは、「メシアは必ず苦難を受けてから栄光に入るということ「が定まっていたからです。メシアの受難と栄光も、神の定めたご計画によって決定されていたのです。

(2) イェシュアがメシアであることを裏付ける旧約の証言

  • ペテロはナザレのイェシュアこそ、約束されたメシアであることを旧約聖書の詩篇16篇から論証しています。

① 詩篇16篇8~11節は、イェシュアの復活の論証

  • この詩篇はダヒデに関するものではなく、メシアを預言しています。なぜなら、「あなたは私のたましいをハデスに捨て置かず、あなたの聖者は朽ち果てるのをお許しにならないからである」とあるからです。「あなた」とは神で、「私」とはイェシュアのことです。ダビデは死んで、墓に葬られ、その墓は今なお残っているからこのことばは当てはまりません。ダビデは預言の霊によって預言してメシアのことを語ったのです。それゆえ、ペテロは「神はこのイェシュアをよみがえらされました」と論証し、「私たちはそのことの証人です」と主張しています。

② 詩篇110篇1節は、イェシュアの高挙の論証

  • 詩篇110篇もメシア詩篇と言わていますが、人称の理解が重要です。

【新改訳2017】詩篇110篇1節
【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」

  • 【主】とは神のこと。「私の主」とはダビデの主、すなわちイェシュアのこと。括弧の中の「あなた」は御子イェシュアのこと。「わたし」とは神ご自身です。つまり、この詩篇では復活されたイェシュアが高く上げられたメシアであり、今神の右の座について大祭司としての務めをしていることを論証しています。ダビデは天に上り、神の右に座したりはしていないからです。イェシュアは「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」(ルカ22:69)と言われましたが、まさにこの詩篇110篇1節と符合しています。イェシュアの高挙は、死と復活と共に、初代教会の使信の重要な一つです。

3. 悔い改めの招き

【新改訳2017】使徒の働き2章37~41節
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。


  • ペテロの説教は聞く者の良心に罪を悟らせましたが、人々の罪がぬぐい去られるは、悔い改めて神に立ち返った者に対してです。聖霊を受けるのは、この悔い改めの結果なのです。「この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられている」と語っています。
  • なぜ救われた人が「三千人」なのか、これには旧約的背景があります。かつてモーセがシナイの山でいただいた石の契約の板をもって降りて来た時、民はすでに堕落して偶像を造って戯れていました。そのとき、「あなたの民は、堕落してしまった」という主のことばを聞いたモーセが自分の目で見た時、彼は怒り、神から与えられた契約の石を投げ捨て、砕いてしまいました(出32:19)。さらには、民に呼びかけ、「だれでも、主に着く者は、私のところに」言うとレビ族が彼のもとに集まります。そして彼らがモーセのことばに従って三千人を粛清したのです(出32:28)。この逆のことがペテロの説教の後に起こりました。三千人の救いはイスラエルの民を失敗から踏み直させる神の計らいだと考えられます。


2019.6.3


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