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主イエスの友(9) ピリポ

主イエスの友(9) ピリポ

―ピリポの問いかけ―「問いかけシリーズ」(5)

「わたしを見た者は、父を見たのです。」

はじめに

  • 「良い問いかけは偉大な真理を引き出します」―「問いかけ」シリーズ第五回目は弟子ピリポの問いかけです。その問いかけとは、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足です。」(14:8)というものです。柳生訳では「主よ。私どもに御父を見させてください。それ以上のことは求めませんから。」という切実な問いかけとなっています。
  • これまでの問いかけーコンテキストーを見ておきましょう。

    ①ペテロの問いかけ「主よ。どこにおいでになるのですか。」

    • その答えは、「父の家」です。やがてイエスの弟子たちを迎える場所を備えに行くと言われました。備えたら、また来て、あなたがたを迎えますと言われた。―ここで終わればいいのですが、イエスは少しつけ加えます。それはさらなる真理を弟子たちに引き出させるためです。「わたしの行く道はあなたがたも知っているはずです。」と。

    ②トマスの問いかけ「主よ。どこへいくのか。私にはわかりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう。」

    • それに対してイエスは、「わたしが道です。真理です。いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と。同義的並行法(パラレリズム)の良い例です。ここでもこれで終わってしかるべきであったのに、イエスはさらに少しつけ加えます。何と? 「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはず。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」と付け加えたものですから、弟子のピリポが問いかけました。
  • ③弟子ピリポの問いかけ「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」―それに対してイエスは、9節で「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」と少し驚いた様子でイエスは答えられました。
  • 「わたしを見た者は、父を見たのです。」このイエスのことばを心の中に刻みたいと思います。このことばは、イエスが御父から遣わされた者―つまり、〔イエスの神性〕が明確に宣言されているのです。

1. イエスの人性(人間性)と神性

  • 「すでに父を見た」と言われても、ピリポのこの素朴な質問、父を実際にこの目で見てみたいと願うのは、神を信じる者に共通したものではないか。どうしたら、父である神を見ることができるのか。とても重要な事です。神を信じない者の場合には、「この世に神がいるなら、神を見せてみろ。」ということになりますが、神を信じている者の場合には、御父をこの目で見てみたい」ということになります。私たちは、見ないで信じるよりは、見て信じたい、確信したいと考えてしまうのです。イエスが、御父がいかなる方であるかをいつも語っておられるのを知って、弟子たちが、「先生、あなたの言う御父を私たちにも見せてください。それがかなうのなら、満足しますから。それ以上のことは望みません。」と弟子のピリポは願ったのです。それに対するイエスのことばは、今や、あなたがたはすでに父を見たのです。どこに? わたしを見た者は、父を見たのです。」―これがイエスの答えでした。
  • 神がいるなら見たい、神を知りたいと願う私たちに対して、実は、神のほうが私たちにご自分を知らせたいと切望しておられるのです。私たちが願う前に、です。そのために御子イエスを神、すなわち御父は御子をこの世に遣わされました。
  • ヨハネの福音書はこの「御子と御父とのかかわり」について、きわめて多くの分量を使って語っています。今日の説教の準備のために、私はヨハネの福音書にある、イエスと神、御子と御父のかかわりを示すすべての聖句をノートしてみました。A4の用紙で、しかも結構小さな文字で、なんと9頁にも及んでいるのです。私が礼拝でメッセージする原稿は6枚程度です。それで約50分~1時間ほどかかります。しかし、読めばそれ以上かかる分量の聖書のことばがが、「御子と御父とのかかわり」―御父と御子の関係ーについて記されているのです。驚きではありませんか。なぜ、それほどの分量を使って、この関係についてヨハネは記さなければならなかったのでしょうか。
  • 『ヨハネ福音書』は福音書の中で最後に書かれたものです。ヨハネの福音書が書かれた背景には、グノーシス主義という宗教思想がはびこりつつありました。このグノーシス主義の宗教思想は「二元論的志向」です。二元論志向というのは、霊と物質のことで、霊は善で、物質は悪という考え方です。物質が悪であるならば、神が人となられたという思想は良いことではないことになります。ですから、神が人となられたのがイエスであるという考え方を否定します。そこから、キリストの仮現説が生まれます。仮現節とは、「イエスの人間性を否定する教説」です。つまり、「イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目にそのように見えただけであった」という見解なのです。そのためにヨハネはこうした考え方に対抗して、イエスは人となられた神であるということを主張しなければならなかったのです。神でありながら、人間であるという存在―きわめて不思議なユニークな存在です。
  • マタイは、この神でありつつ、人であるという存在を「インマヌエル」(「神がともにおられると普通言われているが、本当は、イエスは私たちと共におられるという意味ではなく、「神と人とが一つのなっている存在」を意味しています)と言っています。特に、ヨハネの場合は、目に見えるイエスは、人間そのものであると同時に、神そのものであることを明確に主張する必要がありました。ヨハネの福音書が書かれた目的が20章の終わりに記されていますが、それらよればこうです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あながたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」と記されております。ヨハネの書くイエスは神、すなわち御父の愛するひとり子(特別な存在という意味)であり、神の子、いや神そのものなのです。
  • その極めつけは、「わたしと父とは一つです。」(10:30)です。ものみの塔のエホバの証人たちの言うイエスーつまり彼らはイエスは神の被造物であって、御使の最高格にいる存在としていますーとは真っ向から異なります。「わたしを見た者は父を見たのです。」(14:9)、「わたしが父におり、父がわたしのうちにおられる」(14:20)といったことばは、イエスの神性を明確に宣言しています。

2. ヨハネの福音書に見る「御父と御子のかかわり」を示すことば

  • 今回は、ヨハネの福音書に記されている「御父と御子のかかわり」を示す重要なみことばをいくつか取り上げてお話したいと思います。これから示していくみことばはその中のごくわずかです。そのことを念頭に入れておいてください。6つほどのみことばを取り上げていきたいと思います。

(1) 1章18節
最初に取り上げる箇所は、1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられた方が、父を説き明かされた」です。神が如何なる方であるを見て知った者は未だかつて一人もいない。ただ、父のふところ(そば)におられる(御父のふところに向いておられる)ひとりの子としての神だけ(only one)が、神を解き明かす(説明して聞かせる、あるいは、示す)ことができる。

  • 「ふところ」とは、御父と御子が常に永遠の全き,親密な愛の交わりの中におられることを意味します。ルカ16:22で、貧乏人ラザロは死んで、御使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」とあります。これは信仰の父としてのアブラハムとの親密な交わりを意味しています。「アブラハムのふところ」とは、(パラダイス)のことです。他に、「ふところ」(the bosom) Lk16:23, 6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は秤をよくして、ふところに入れてくれるでしょう。」ここでの「ふところに入れる」とは、親密な間柄となり、気前よくしてくれるという意味です。
  • 復活者イエス・キリストが神であるとは、神の身分にある方として、天地の創造者なる父なる神に向かい合い、共に寄り添っておられる方であることを意味しています。そのことがここでは「父の懐にいる」と表現されています。万物に先立って父から生まれた唯一の子として、永遠に父と親密な交わりの中におられます。それでこの福音書では、地上のイエスは常に「父のもとから来た」(受肉した)方として、そしてまた「父のもとに帰る」(復活する)方として語られることになります。「父の懐にいるひとり子なる神」である方が受肉して地上に現れたのは、神を見ることができない地上の人間に神を「解き明かす」ためです。
  • そしてすでに、説き明かされているのです。ところが私たちがイエスのことばを通して、あるいはその生涯を通して表わされた御父の姿を正しく理解しているとは限りません。それはなぜか、それはイエスに対する理解が正しくないからです。御父を説き明かされたイエスに対する理解が誤っていれば、御父を正しく理解することはできません。
  • イエスの神性を正しく理解できず、イエスの人性だけを偏って見ている人々も多いのです。イエスの人間性だけが偏って強調されるとどうなるのか、それは「道徳的感化を与える存在」でしかなくなります。―愛を説き、愛に生き、愛の模範を示してくれた存在、すぐれた愛の実践者、貧しいものや虐げられた人々たちの側に身を置いて、体制に立ち向かった社会活動家というイメージになります。イエスの神性が希薄になると、ヒューマニズム的なイエス像が作られていきます。18~19世紀にかけて、人間の理性が花開いた時代では、人間のすばらしさが強調され、イエスもその人間性の面が強調されるようになり、ひとりの宗教家としての人間イエスが描かれました。
  • しかし、この立場では、すべての人のための罪の身代わりとして十字架にかかって死ぬことによって、私たちのすべての罪が赦されるという贖罪の面がーつまり救いの面が希薄になります。ヒューマニズムのイエス像は、愛というものが強調されたとしても、―たとえば、ある人のために自分を身代わりとして死ぬということがあったとしても、それはある人のためにはできたとしても、すべての全人類のための身代りの死ということにはならないのです。そこでイエスの神性が強調されなければなりません。神である方が、私たちに代わって、身代わりとして私たちの罪の完全ないけにえとしてご自身を神の前にささげることを通して、そのいけにえとしての身体とそこから流れた血潮によって、私たちの永遠の贖いが完成するためには、イエスが神であるという面が重要なのです。罪ある、不完全な人間の「いけにえ」では誰ひとりとして救われることは出来ないからです。
  • ポーランド生まれのコルベ神父の話
  • 1894年生まれ。ローマに留学して、仲間とともに「無原罪の聖母の騎士会」を設立して宣教活動をする。1930年(昭和5年)に日本の長崎に来日して、そこでも「聖母の騎士修道院」を設立した。6年後、ポーランドへ戻って、そこで本やラジオを通して宣教活動しましたが、その内容がナチに対して批判的であるとして、逮捕され、アウシュビッツの強制収容所に送られた。
  • 1941年7月末、アウシュビッツの強制収容所で脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。その中に、ポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったヘスという人物(極めて非情な人物)はこの申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。時折牢内の様子を見に来た看守は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、フェノールという毒性のある消毒液を注射されて殺害されたと伝えられています。
  • コルベ神父の話はとても感動的です。しかし、彼がどんな愛をもってある人の身代わりとして死を引き受けたとしても、その身代わりとなった人やそれから続く子孫にとっては救いであったでしょうが、それだけのことです。すべての人間のための身代わりとなれるわけではありません。私たちが神の前にしでかした罪のためが赦され、再び、神との親しい愛の交わりを回復するためには、神であるイエスの完全な罪なき身体が必要だったのです。
  • ですから、ヨハネは人間イエスが神から遣わされた者、イエスの神性、すなわちイエスが神であられることを、多くの問答という形で繰り返し、繰り返し、書き記さなければなりませんでした。

(2) 3章34節
「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」

  • 御子は人を喜ばすような、ご機嫌を取るようなことは一切お語りになりませんでした。御父の栄光が現されることを求め、御父を喜ばせることのみ求められました。それゆえ、御父は御子に無制限に聖霊による助けをお与えになったのです。後に,イエスは、聖霊について「もうひとりの助け主」と呼ばれます。御父が御子に御霊を無制限に与えられたというのは、量的なという意味ではなく、聖霊の助けをお与になったということです。御子はご自分の神としての力をいつでも行使することができたのですが、ご自分を全く無にして、御父にすべての栄光が期せられるように、ご自分の力を用いること無く、すべてを聖霊の力によってなさったのです。語ることも、そしてわざも。ここに、御父と御子の実に麗しい愛のかかわりが表現されています。
  • 神がお遣わしになった者が神のことばを語るというのは、旧約の預言者たちがそうでした。しかし、御子イエスの場合は、御父の最後の切り札として遣わされてきた方ですから、その方が御父のことばを語るというのは特別な重みがあります。ですから、この御子の語ることばに耳をしっかりと傾け、それを理解する必要があるのです。

(3) 3章35節 & 3章16節, 17節 & 5章24節
「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」

  • ここにも、御父の御子に対する信頼が現されています。「万物」と訳された「パーンタ」は、通常、中性の複数は「物」を意味していますが、ヨハネの福音書では、多くの箇所で人間を指すために使っています。したがって、ここでは「万物」ではなく、「すべての者」です。
  • 「父は御子を愛して、すべての人を御子の手にお渡しに(お与えに)なったという愛のかかわり、信頼のかかわりが表現されています。つまり、御父は世にあるすべての人」の永遠の運命を御子に託したということです。その「お渡し」「お与え」の目的は有名なみことば3:16によればこうです。
    「神は、実に、そのひとり子をお与になったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が。ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
    これを同義的並行法によって17節でこう記されています。
    「神(御父)が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
  • 重要なことは、神が世に遣われた最後の切り札である方、すなわち御子イエスに対して、私たちがどのような態度を取るか問題なのです。3:36には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。「いのちを見ることがない」というのは「永遠の死」を意味します。死は消滅してしまうのではありません。神の怒りがその者の上に永遠に留まるということです。神から切り離され、神なき暗闇の世界で永遠の苦しみを味わうという意味です。そうならないように、御父は御子イエスをこの世に遣わし、自分の腸を痛める十字架の出来事を通して、ご自分の最もかけがえのない御子を十字架につけて身代わりの死を引受されるという形で、私たちを愛して下さったのです。それは、御子イエスが私たちの唯一の救い主であることを信じて、永遠のいのちを持つためなのです。永遠のいのちとは、単に、永遠に生きるという意味ではありません。御父と御子とのかかわりに現された愛のかかわり、信頼の中に、招かれ、そこに永遠に住むことが許されるということなのです。
  • 5:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」とイエスは言われました。―ここの「移っている」とは、「移ってしまっている」という完了形です。移動が完了して、その結果が決して変わらないことを意味します。つまり、イエスを信じた者は、信じた瞬間に、死が支配する世界からいのちが支配する世界に瞬間的に、不可逆的に(もう戻ることが不可能なかたちで)いのちの世界に移されてしまうのです。なんとすばらしいことではありませんか。これは御子が御父に信任された者であるがゆえになせるわざなのです。

おわりに

  • 「わたしを見た者は、御父を見たのである」とイエスは言われました。イエスは人間であると同時に、神そのものであるという「インマヌエル」という不思議な方です。イエスが神であることを、聖書では「主」と言います。「主」ときギリシャ語でキュリオスです。これき当時のローマが支配する時代では、ローマ皇帝にのみ使われた呼称でした。ローマ皇帝が「主」であると告白すれば、安全な時代でしたが、そんな時代の中で、イエスこそ「主」であると告白することは、首が飛んでしまうこと、つまり「死」を覚悟する告白だったのです。
  • 「イエスは主なり」、「主イエス・キリスト」とは、イエスは神であること、神であるイエスは、キリストーつまり、本当の王であり、真の預言者であり、そして私たちと神とをつなぐことのできる真の大祭司であるという宣言です。「主イエス・キリスト」ということばを使うことはとても簡単ですが、その意味するところは、永遠のいのちをかけた告白であることを今朝、心に留めたいと思います。
  • 御子イエスのことばを聞くことは、御父のことばを聞くことです。御父と御子の間には永遠の愛が存在します。そのいのちの中に私たちを招くために、御子は、いや御父は、今も私たちに語りかけてかかわろうとしておられるのです。


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