****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主イエスの友(8) トマス①

主イエスの友(8) トマス①

―トマスの問いかけ①―「問いかけシリーズ」(2)

「わたしが道です」

はじめに

  • 「問いかける」ことの重要性はどんな強調しても強調しきれません。「良い問いは、良い答えを引き出す」と言われます。「問いかけだけで終わってはなりません。」。良い答えを得られることを期待しなければなりません。弟子のひとりがイエスに「問いかける」ことを通して、それまで語られなかった新しい教えがイエスの口から引き出されるという場面があります。そこを取り上げて、そこで語られた主の含蓄に満ちたみことばを味わいたいと思います。
  • イエスの言われる「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」ということばに対して、トマスは「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう。」とわかったふりをしないで、率直に質問しました。その質問に対して答えられたイエスのことばがこれです。
    「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはできません。」(ヨハネ14:6)
  • イエスの語られた「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ということばは深い意味をもっています。一度にこれらのことばを消化しようとするとおそらく消化不良を起こします。それで今回は、最初の事柄である「わたしは道です」というところにのみ焦点を当てます。これだけを答えてもトマスの問いかけに十分答えることができるからです。「わたしは道です」という「道」とはどういうことでしょうか。

1. 父のみもとへ行く唯一の道

  • イエスの言われる「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」ということばは当然、すでに知っているはずという前提があります。これまでイエスはで弟子たちに対して、7章では「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。」とか、12章では、「わたしが地上からあげられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き上げます。」(32)―これは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたーということが書かれています。それゆえ、イエスは当然、弟子たちに「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」あるいは、「知っているはず」ですと言ったのです。正確には、「わたしが行くところ(場所)も、そしてその道もあなたがたは知っているはず」という意味です。
  • しかし、その言葉に対してトマスが「どこへいかれるのか、またその道も、私たちにはわかりません」と言ったのです。イエスは決して叱らず、それに対して丁寧に「わたしが道です。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われたのでした。
  • イエスの言われた「わたしが道です」という第一の意味は、「わたしこそ、父へ至る唯一の道、救いの道であるということです。
  • はじめて神様から「イスラエル」と呼ばれたヤコブは、ある時、不思議な夢を見ました。その夢は「ヤコブの梯子」と呼ばれています。その夢とは、「一つのはしごが天から地に向けて立てられていました。」―普通は、はしごは地から天に向けて立てられるものです。反対です。そしてヤコブの見た夢では、神の御使たちがそのひとつのはしごを上り下りしているのを見ました。そしてその梯子の傍らに主が立っていて、こう語ったのです。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、・・・地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」と語られたのです。
    不思議な夢でした。眠りから目を覚ましたヤコブはそこを天に通じる門のある神の家と名づけて、その場所を「ベテル」と呼びました。―やがてヤコブは二人の妻(レアとラケル)とそれぞれの女奴隷ふたり(レアの女奴隷はジルパ、ラケルの女奴隷はビルハ)―それらから生まれた総計13人の子どもを連れてこのところ(ベテル)にもどってくることができました。そしてそこに神の祭壇を築いたのでした。そこで神は再びヤコブにあらわれてこう言ったのです。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もうヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」と。イスラエルとは、神の皇太子という意味です。ここからヤコブとその子どもたちは、「イスラエルの民」と呼ばれるようになるのです。
  • ヤコブが夢の中で見せられた「一つの梯子」はきわめて暗示的です。なぜなら、それは天に通ずるただ一つの「道」だからです。天に通ずると言っても、それは地から天に向けられた道ではなく、天から地に向けられた道、それは神が備えられた限定された道という意味で、The Wayだからです。このThe Way がイエス・キリストを指し示していることは言うまでもありません。
  • 昔から、人間は自分の道で天まで届こうと努力してきました。そのひとつの例が「バベルの塔」です。それは人間の力を示そうとした象徴的な出来事でしたが、神がことばを混乱させられたので、その塔を築くことはできませんでした。それに引き換え、ヤコブが夢の中で見せられた「一つの梯子」は暗示的です。キリストは神から遣わされましたが、いわば、天より地に向けて下ろされた「一つの梯子」というわけです。ですから、キリストは「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と断定的に言われたのです。「わたしが道です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」―しかし 父のみもとに行く唯一の道はこの地上で人々に踏みつけられなければなりませんでした。
  • ヘブル語で「道」のことをデレフと言いますが、その動詞ダーラフは「踏みつける」という意味です。「道」とは踏みつけられてできるものです。ケモノ道もそうです。キリストがご自分のことを「わたしは道である」と言われたのは、「人々に踏みつけられて道となる」という意味も含まれています。事実、キリストは私たち一人ひとりの罪のために「踏みつけられました」。それがあの十字架です。天の父の家に行くための唯一の道となるために、私たちの身代わりとなって踏みつけられたことにより、はじめて「天への道」を作られた方と言えます。
  • また、「道」があったとしても、その道がどこに向かっている道であるのかはとても重要です。道があればいいということはありません。箴言の中にこうあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。しかしその道の終わりは死の道である。心の堕落している者は自分の道(My way)に甘んじる。」(14:12)。
  • 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13, 14)とイエスは言われました。なぜそれを見出す者はまれなのでしょうか。だれでも見出せる道ではないということを語っています。私たちはこの不思議な事実の前に、ある意味、恐れをもたなければなりません。

2. ライフスタイルとしての「道」

  • 高村光太郎―その代名詞といっても過言ではない『道程』という詩、わずか9行の詩ですが、多くの人々に影響を与えている詩のひとつです。高校生の国語の教材として私も習いました。

    道 程

    僕の前に道はない

    僕の後ろに道は出来る

    ああ、自然よ

    父よ

    僕を一人立ちにさせた広大な父よ

    僕から目を離さないで守ることをせよ

    常に父の気迫を僕に充たせよ

    この遠い道程のため

    この遠い道程のため

  • この有名な詩には、高村光太郎自身がそれまで歩んできた人生の「道のり」があり、これから歩んでいく「道のり」があります。作者は彫刻家でもあり、自らの芸術の完成を目指したのです。人にほめられるものでもなく、自分の満足できる作品を仕上げたいと願っている芸術家です。自分の理想の境地を持ち、それに向かって進もうとしている人です。
  • 光太郎は「父」に願います。この父は、光太郎の本当の父親ではなく、もっと大きな人間を超えたところの存在の意味でしょう。どうか、自分の情熱が冷まさぬように。常に父の気迫をわたしに充たしてほしい、と、未来への期待を込めて祈っています。自分のこれから「道程」のために、人間を超えたところの存在に対して、その気迫を私に満たして欲しい、と祈っているのです。
  • この詩で取り上げられている「道」は、「道程」つまり、道のりです。ある目的に向かっていくその過程としての道です。つまり、自分の目指す目的に向かって、自分はこれからどう生きるべきかという強烈な問いを持って生きるという、換言するなら、「自分のライフスタイル」に対する鋭い問いかけこそ、この高村光太郎の「道程」が放っている光です。自分がこれからどう生きるべきか、何をし、どのようにして生きていくべきかという意味での「道」です。そんな「道のり意識」を私たちはどれほどしっかりともってそれにそって生きていることでしょうか。
  • この「道のり意識」を強烈にもって生きていた人物は、使徒パウロです。彼は時期的には、自分の死の最も近い時期に書いたテモテへの手紙の中でこう述べています。
    「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。加の日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
  • パウロは自分の走るべき「道のり」を知っていて、それを走り終えることに喜びを感じています。その「道のり」は、決して平坦な道ではなく、苦難の連続でした。彼の苦難は特別なものでしたが、自分の走るべき「道のり」を神の意思と目的に合致させて生きようとしました。主の道と自分の道が決して別々のものではなく、むしろそれらが重なりあうような生き方を目指したと言えます。
  • 車にカーナビでもあれば、目的地を入力しておけば安心して、その道のりについて何の情報がなくても、目的地にしっかりと導いてくれて便利ですが、私たちの信仰の目的地である天を目指すたびにおいて、そんなカーナビの役割を担ってくれるものがあるとすれば、それはなんでしょうか。
  • イエスが「わたしが道です」という意味は、わたしこそ天を目指す旅人の唯一のナビゲーターであるということです。その方の指示に従うことがなければ、その道のりを走りぬくことはできません。主の言葉、主の導き、主の生き方―特に御父を信頼するその生き方―にいつも私たちが注視する必要があります。多くの時間を、主とともに過ごし、主のすばらしさを味わい、これを見つめていく必要があります。そのためにこう祈りましょう。
    「主よ。あなたの道を、私に教えてください。」  ―いつもー
    「主よ。あなたの道を、私に教えてください。
    私の走るべき道のりを走ることができるために」。「走る」とはその求道性の情熱を表わすことばですから、別に、走らなくても「歩く」でもいいのです。「私の歩くべき道のりを歩くことができるために」と祈りましょう。
  • そして、この世では、一度しかない人生を、悔いの残らないような歩みを、自分なりの歩みを、一歩ずつ、一歩ずつ、積み重ねていきたいものです。


powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional