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主イエスの友(7) ベタニヤのマリヤ

主との友情を育む(7)

―ベタニヤのマリヤに対するイエスの特別なまなざし―

はじめに

  • 今回は、ベタニヤのマリヤという女性を取り上げます。ベタニヤのマリヤに対して、イエスは他の女性には見せない特別なまなざしがあります。彼女のすることには一目置いているといった感じです。彼女のすることをいつも特別に弁護し囲っているといった感じです。イエスとベタニヤのマリヤとのかかわりに注目してみたいと思います。

1. イエスにとってベタニヤという村の存在

  • ベタニヤのマリヤというのは、ベタニヤの村に住むマリヤという意味です。この「ベタニヤ」という村は、イエスの地上での生涯において特別な村でした。地理的には、エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11 : 18によると15スタディオン)、オリーブ山の東麓にあった村(マコ11 : 1,ルカ19 : 29)です。特に、最後の一週間はベタニヤとエルサレムの間を往復されていました。

    地図 

  • イエスにとってベタニヤの村は特別な場所であったのはなぜか。それは、そこにマルタとマリヤ、そしてその兄弟ラザロが住んでいたからです。マルタとマリヤの姉妹に一人の兄弟ラザロがいたことを教えてくれるのはヨハネの福音書11章に記されているラザロのよみがえり(正確には、死からの生き返り)の記事があることで分かります。イエスはこの二人の姉妹とラザロを愛しておられたとヨハネは記しています。特にラザロはイエスの友と呼ばれています。彼らのいる村、つまり、ベタニヤを拠点にしてイエスは最後の一週間を過ごされたのです。
  • イエスの昇天の場所もこの近くと言われます(ルカ24 : 50,使1 : 12)。ベタニヤの村がイエスにとって特別な場所であったのは、実はより深い意味があります。結論を先に言いますと、そこにはイエスの心を喜ばしたマリヤの存在です。彼女の存在はイエスにとって特別でした。人間的にいうならば、イエスは彼女を特別なまなざしで見ていた感じがあるのです。

2. イエスの心を満足させたマリヤ

  • ルカの福音書10章38~42節にはイエスの一行を迎えたマルタとマリヤの記事があります。
  • 38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
    39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
    40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
    41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
    42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
  • 「イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。」―ここに出てくる「ある村」とは、ベタニヤの村です。そこでイエスはマルタという女性によって喜んで迎えられます。歓迎を受けたのです。イエスの宣教の働きが次第に拒絶を受けるようになっていくなかで、この「歓迎」は特筆すべきことでした。もう一人、イエスを喜んで家に迎え入れた者がおります。その人の名は「取税人のザアカイ」です。いちじく桑の木に登ってイエスを一目見ようとしていた彼にイエスは目を留めて、「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊ることにしてある」と言われて、ザアカイは急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(ルカ19:5~6)とあります。その結果はどうだったでしょうか。
  • イエスを「喜んで迎えた」者たちの上に、神は特別な祝福を与えておられます。後の時代にも語り継がれるすばらしい出来事がそこに起こっています。イエスの一行を「喜んで迎えた」マルタの家にも主とのすばらしいかかわりが生まれています。
  • ところで、マルタの家にはもう一人の姉妹マリヤがいて、そのマリヤは「イエスの足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」とあります。正確には「聞き続けていた」と訳されるべき箇所です。「聞き入っている」「聞き続けている」とは、「あることに専心する」という意味です。そのことに自分のすべての関心と注意を向け、しっかりとそこにとどまり続けているという意味です。
  • 使徒の働き1章14節に「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とありますが、その「専念する」ということばも同じ言葉が使われています。また同じく使徒の働き2章41節に、ペンテコステの出来事によって救われた多くの弟子たちにが「使徒たちの教えを堅く守り」と訳されたところにも同じ動詞が使われています。つまり、使徒たちの教えにしっかりととどまり続けていると言う意味です。このことばはさらに使徒の働き6章4節の「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」の「もっぱら・・励む」ということばにも使われています。牧会的な様々な働きよりも、使徒たちは祈りとみことばに専心することを優先すべきこととしたのです。
  • さて、マルタはもてなしのために気をもみながら、じっと聞き入っているマリヤの態度に腹を立て、イエスに「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と言います。ところが、イエスは「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています(自分でできる分を越えたことをしようとしています)。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と言って、マリヤのしていることを弁護されました。
  • なぜイエスはマリヤのしていることを弁護されたのでしょうか。それは、マリヤの姿勢こそイエスの心を満足させたからです。これぞ真の「わたしの求めている歓迎」なのだと言わんばかりです。ベタニヤの村がイエスにとってなぜ特別なものであったか、これでお分かりだと思います。そこには常に「聞き続ける人」がいたからです。イエスの心をなによりも喜ばす歓迎のあるところ、それがベタニヤであり、そこにはマリヤがいたのです。イエスの喜び、イエスの満足は、姉のマルタの歓迎をはるかに凌いでいました。マリヤは一言も発言していませんが、主がマリヤを完全に囲って弁護しています。
  • このマリヤの歓迎が彼女のこれからの人生にどのような影響をもたらしたのでしょうか。

3. マリヤのイエスへの香油注ぎ

  • そのことをヨハネの福音書12章にあるもうひとつの記事を通してみてみたいと思います。そこには、「過越の祭りの六日前」の出来事として、ベタニヤのマリヤの家において、イエスとその一行をもてなすための食事―夕食―の場面が記されています。そこでなにが起きたのでしょうか。1~3節を見てみましょう。
  • 1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
    2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
    3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
  • この記事では、マルタは相変わらずもてなしのための食事の給仕をしています。死んで生き返ったラザロはイエスとのその弟子たちの間に混じり込んで、食事の席についています。一方、マリヤは何をしたかと言えば、「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」とあります。これもイエスの心をひとしお満足させるものでした。「非常に高価な」とは、とてつもなく高価なという意味で、今でいうならば、約一年分の給料に当る額です。なぜマリヤはそんな高価な香油を惜しげもなく注いだのでしょうか。
  • その理由として考えられる第一のことは、 弟ラザロのよみがえりの感謝のゆえです。
    自分の弟であるかけがえのないラザロのよみがえりの感謝としてということが当然あったと思います。人間の力ではどうすることもできない。たとえどんなお金を積んでも死んだ者を、しかも死んで四日もたっている死人を生き返らせることは不可能です。それをイエスは生き返らせたのですから、踊り上がって喜ぶことは当然でしょう。
  • もうひとつ考えらる理由は、彼女が「きわめて重要な事柄」を悟っていたことのゆえです。これは友情のひとつのしるしであることを、これまでにも学んできました。
  • マリヤという女性はいつもイエスの語る言葉に耳をじっと傾けていた女性です。弟子たちもイエスの語ることを聞いてはいましたが、悟ることにおいては、今一、鈍かった感じがあります。特に、イエスのエルサレムにおいての受難の予告は理解できないでいました。
    イエスの心を満たし、喜ばせたマリヤは弟子たち以上にそのことを悟っていたとみなしても考えすぎではないと思うのです。
  • 面白いと思うのは、イエスと親しくしていた彼女がなぜイエスの墓に行かなかったかという点です。他の女性たちが墓に正式な埋葬を遺体に施すために行っているのに、マルタとマリヤは行っていません。イエスから愛され姉妹たちであればなおのことです。おそらく彼女たちはイエスがよみがえることをラザロの奇蹟を通して、またイエスの話しを聞いているうちに、悟っていたのではないかと私は思います。弟子たちは「死んだのち、よみがえる」という話をイエスからなんども繰り返し聞かされていたにもかかわらず、耳に入っていませんでした。しかし、とりわけマリヤはそのことを受留め、悟っていたのではないか思います。
  • それを見ていた弟子のひとりが(ヨハネははっきりとイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダと名ざしていますが、他の福音書では「弟子たち」となっています)、マリヤのしたことを見て、なんともったいない、納得しがたい無駄な愚かな浪費として映ったようです。しかし、イエスはこの時にも彼女を弁護しています。「そのままにしておきなさい。」と。
  • マリヤの姉マルタは、ここではマリヤのすることになにも言わずにもてなしをしています。おそらく以前に、「マリヤは良い方を選んだのです」とイエスから言われて、自分を顧み、自分を調整することができていたのだと思います。
  • 新改訳で「そのままにしておきなさい」というイエスの弁護を他の聖書でも見てみましょう。
    ①新共同訳ー「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」
    ②岩波訳 ー「彼女のしたいようにさせてあげなさい。私の葬りの日のためにそれをとっておいたことになるためである。」
    ③柳生訳ー「この女の邪魔をしてはいけない。この香油はわたしの埋葬の日のために取って置かれたものなのだ。」
    ④塚本訳ー「構わずに、わたしの埋葬の日のためにそうさせておきなさい。」
  • ここに見るイエスの弁護のことばに、マリヤに対する友情の新たな一面をみるような気がします。それは最も大切なものを選び取っている彼女のすることに全幅の信頼を置いているという点です。また、そこには弟子たちがまだ悟っていない事柄、つまりイエスが死んで葬られるということについて、気づいている、悟っていることに対する内なる喜びがみられるということです。それは、他のだれにも分かりあえないこと、長年連れ添った弟子たちにも分かってもらえていない事柄を、このマリヤは弟子たちに勝って受け留めているという喜び、共有していることの喜びです。
  • マリヤはそのことをなにも語らず黙ってしているのですが、イエスにはそのことがひしひしと伝わっているというかかわり、それががここに見られるのではないでしょうか。
  • 「私の埋葬の日のために」、身体に香油を塗る、悲しいことなのですが、マリヤはイエスが葬られた後によみがえるというエスのことばを、そのままに受け入れた唯一の一人だったと言えます。それゆえに葬りの準備をしたと言えます。彼女にとっても最も高価な香油をこのときこそ役立ってもらえる方に注いだのです。人の目にはなかなか見えませんが、イエスとこのマリヤの友情は実に深いところでしっかりと結びあっているのです。
  • マタイやマルコの福音書の並行記事では、「マリヤ」という名前はなく、「あるひとりの女」と記されています。しかもこの女のしたことは、「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられるところなら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と記しています。ところがなぜか、ヨハネにはその部分がありません。そのかわりに、マタイとマルコにはなくて、ヨハネにだけある部分があります。それは「家は香油のかおりでいっぱいになった」という表現です。なんと美しいことばでしょう。この一文を書いたヨハネの意図は何だったのでしょうか。私が思うに、「この人のしたこと-非常に高価な香油を注ぐという最高の奉仕、麗しい献身(奉仕)―が語られこと」よりも、香油のかおりに譬えられる「イエスとマリヤの秘めたかぐわしいかかわり」、このかかわりこそ最も大切な「永遠のいのち」だということをヨハネは言わんとしたからではないかと思います。

むすび

  • ヨハネの福音書が強調している事は、「きわめて重要な事柄」を共有する友情です。
  • イエスは言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」―すでに「知らされている」のです。しかし、それをしっかりと受け止めることができたのは、なんと弟子たちよりもこのベタニヤのマリヤでした。
  • 彼女はイエスの足もとでイエスが語ることを、じっと耳を傾け続けることのできた人でした。主の語られる真意を悟ることに専心しようとした人でした。このことが、今日に生きるキリスト者が聞くべき大切なメッセージなのではないでしょうか。このマリヤのライフスタイルを取り戻すこと、回復すること、このことこそ今日の教会が専心して取り組むべき急務なのだと信じます。


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