****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主イエスの友(4) ニコデモ

主イエスの友(4) ニコデモ

―イエスを弁護し、埋葬したニコデモ―

はじめに

(1) 瞑想の視座

  • ヨハネの福音書の瞑想的説教の視座は「主との友情」です。主との友情への招き、しかもその友情を豊かに育むこと、これこそがヨハネの福音書が伝えている重要なメッセージだと信じて、その視点から学んでいます。その主要テキストとなるべき聖書箇所は15:15です。

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」

  • ここで重要なことは、イエス・キリストは自分が父から聞いたことを「すべて知らせた」という点です。なぜ、父から聞いたことー秘密も含めてーを知らせたかと言えば、あなたがたは私の友だからという一点です。前回、あなたはまことのイスラエル人だとほめられたナタナエルに対して、イエスは「あなたはさらに大いなることを見ることになります」と言われました。「さらに大いなることを見る」とは神のシークレット、神の秘密を知る者とされるということです。そのために、あなたは友の特権として、神のふところ―secret place―に入ることが許されているということを意味します。そして、そのことの象徴的なヴィジョンとして、「まことに、まことに、あなたがた(複数になっていることに注意!!) に告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを見ます。」と言われました。ナタナエルはイスラエル人ですから、ヤコブが見たヴィジョンの話を当然知っていました。イエスは「天が開けて」、もっと深い事柄をあなたは知る(経験する)ようになると言われたのです。
  • 「あなたがた」と複数形に変わっているのは、ナタナエル個人だけでなく、キリストとかかわりを持って生きる今日の私たちにも等しく約束されていることを意味しています。つまり、「天が開かれて、さらに大いなることを見る」ことが出来るようになるという約束です。

(2) 「しもべ」と「友」の違い

  • 「しもべ」と「友」の違いについてもに確認しておきたいと思います。「しもべ」の特徴、それは、①働きが重視されること。 ②主人に対して「忠実さ」が要求されることです。それに対して、「友」の特徴は、①かかわりが重視されること。 相手に対して「親しさ」が要求されることです。
  • いずれも主との関係において大切なのですが、ヨハネの福音書では、「働き」よりも「かかわり」が重視されています。「忠実さ」よりも「親しさ」が重視されています。この「親しさ」から「生きる喜び」がわき出てきます。この喜びは愛されているという存在論的な喜びです。私たちの主に対する健全なかかわりには、義務とか、強制ということがなく、自由で、自発的な生き方が呼び覚まされます。そして、折れることのない、ぶれる事のない信仰を建て上げることができます。

(3) 友情の定義

  • ここで、友情の定義をまとめておきましょう。
    「友」という関係は、自分は自分であり、友は友であるという互いの独自の存在を大切にする関係であり、決して互いを支配しない関係です。それでありながら、互いが愛と信頼によって深く結びついている関係であり、その中で互いが成長し、いよいよそれぞれの独自性が豊かにされていく関係です。」
  • この友情の定義で大切な点は、「互いが愛と信頼によって深く結びつく」ということです。このことが成立しない関係は友情とは言えません。神の愛はアガペーです。アガペーの愛は「互いに」ということがなくても成立します。一歩通行の愛です。それは神にしかもっていない愛です。しかし「友情」の愛は「フィレオー」と言って相互通行の愛と信頼です。
  • 果たして、今日取り上げる人物は、イエスとの友情を結ぶことができたのでしょうか。結べたとすればどのような友情なのかを見たいと思います。

1. イエスに対するさまざまな反応

  • これから、まずイエスという人物に対する様々な反応をみてみたいと思います。ここでヨハネの福音書7章に登場する人々を、四つのグループに分けましょう。そのグループとは、群衆、パリサイ人、役人、ある人物・・です。

(1) 群衆の反応
①「良い人だ」という者あり、
②「違う。群衆を惑わしているのだ」という者もいた。
③「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」(イエスへの驚き)
④「キリストが来られても、この方がしているよりも多くしるしを行われるだろうか。」
⑤「あの方は、確かにあの預言者なのだ」
⑥「この方はキリストだー(つまり、メシアだ)」
⑦「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデがいたベツレヘムの村から出ると聖書が言っているではないか。」―イエスがベツレヘムで生まれたことを知っていません。

このように「群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」と聖書は記しています。

(2) パリサイ人たちからイエスを捕えるよう遣わされた役人たちの反応
「あの人が話すように話した人は、まだかつていません。」―結局、イエスを連行することなく、すごすごと帰って来ました。

(3) パリサイ人たちの反応
①役人たちと群衆に対して
「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
②イエスを弁護したニコデモに対して
「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。がリラヤから預言者は起こらない。」と。(実際は、預言者ヨナはガリラヤ地方の預言者でした。)―これによって、ニコデモがせっかく提案したことはつぶされてしまいますー

(4) ニコデモの反応
「私たちの律法では、まずその人から直接(話を)聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
―ここでニコデモはパリサイ人の中でただ一人、イエスを弁護する側に回っています。これは勇気あることでした。この提案によって、彼はパリサイ人から白い目で見られたことは間違いありません。そんなことは承知の上で彼は勇気を持ってイエスを弁護しようとしたのです。以前の彼はそうではなかったのです。そんな以前の彼を見てみたいと思います。

2. 夜の訪問者ニコデモとイエスとの出会い

  • 以前のニコデモは、実は、人目をはばかる気の弱い人でした。その彼が人々の前で、しかもイエスを殺そうとはかっている仲間の前で、堂々とイエスを弁護しようとしているのです。これは彼の中にイエスとの友情がすでに芽生えていたことを示すものです。
  • どうして彼の中にそのような友情が生まれたのでしょう。このニコデモにフォーカスしてみましょう。

(1) ニコデモのプロフィール
3章1節を読んでみましょう。
「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」

  • 彼は先ず、第一に、パリサイ人でした。バリサイ人というのは、ユダヤ教の中でも最も厳格なグループで、神の戒め(トーラー)に対して一生涯守り抜くと神に誓約を立てた、いわば宗教的エリートたちでした。当時のユダヤで六千人ほどしかいなかったようです。しかも、このニコデモは「ユダヤ人の指導者」であったとありますから、それなりの学識と教養、地位と名声と権威を持っていた人であったと推測できます。さらに、4節から言えることは、彼が人生の老年期に達していて、人生経験の豊かな老人であったことが分かります。そうした人物がなぜ、イエスのもとを訪ねたのでしょうか。しかも、「夜」にです。

(2) 「夜」の訪問が意味すること
「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』」

  • 彼はなぜ「夜」を選んでイエスを訪れたのでしょうか。かなり重要な地位にいるので、昼間は大変忙しくて、夜でないと時間が取れなかったということは考えられません。むしろ彼が人を恐れたからだと思います。彼は人の目を気にして昼間堂々とやってくるほどの勇気はなかったのではないかと思われます。
  • この対話の舞台が「夜」に設定されたのは、光であるイエスと対照して、ニコデモが背負っているユダヤ教とその世界の暗闇を象徴しているという考え方もあります。そのような解釈をした場合、この対話の中にある種の神秘性を感じさせます。暗闇が光のもとに来るとき、その暗闇の本質が照らされ、あばかれてしまうということです。しかし、暗闇の中にいるニコデモはそのことにまったく気がついていないという神秘です。。

(3) ニコデモの訪問の理由・目的
ところで、ニコデモをしてイエスの許に来させた理由と目的とはいったい何だったのでしょう。彼がわざわざイエスのもとを訪れたのには、それなりの理由と目的があったはずです。その手掛かりとなるのが、2節のニコデモ自身のことばです。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

①イエスを神のもとから来た教師であると認めたから
まず、ニコデモはイエスのことを「先生」と呼んでいます。しかも「私たちは」となっています。「私は」ではなく、「私たち」とはどういうことでしよう。ニコデモは自分だけでなく、他の人たちもそう思っているということなのでしょうか(とすれば、サンヘドリンの仲間のアリマタヤのヨセフや律法学者のガリマエルといった人が想起されます)。「先生」と訳された正しい言葉は「ラビ」です。「ラビ」とは神の律法を人々に教える人たちのことです。ニコデモも指導的なラビの一人でした。その彼が、イエスをラビ、すなわち神の律法の真意を説き明かし、教えることのできる教師として認めたということです。自分も教師、イエスも教師、しかも神のもとから来られた教師であると認めて、教えを請いにやって来たというわけです。

②イエスのしるしを見たから
なぜニコデモがイエスを「神のもとから来た教師」として認めることができたかといえば、イエスが行なったしるし、すなわち奇蹟のわざを見たからでした。そのような先生にもっと教えを請いたいと願って、ニコデモはイエスのもとを訪れたと考えられます。自分よりも若く、その上、自分よりもすぐれた教えを説くと思われたイエスのところに、ユダヤ人の指導者ニコデモが訪れたということは、ニコデモが非常に謙遜な人物であったように思うのです。熱心な求道心をもってイエスのもとを訪れたニコデモ、その彼がイエスによって肩透かしをくらいます。どんな肩透かしかというと、3節のイエスのことばがそれです。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

  • ユダヤ人の指導者であり、しかも謙遜な教師であるニコデモに対して、あなたが「新しく生まれなければ」、どんなにあなたが一生懸命に求道したとしても、神の教えを聞き、一生懸命に学んだとしても、神の国を見ることはできない、ということをはっきりと突き付けたことばでした。これはニコデモだけでなく、私たちをも含む、すべての人たちに対する神の「真理」なのです。
  • 2章23節をみるとこうあります。「イエスが・・エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。」とあります。ところで、24節では、「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。」とあります。23節の「信じた」ということばも、24節の「お任せにならなかった」の「お任せ」も同じく「信じる」ということです。つまり、イエスの行なわれたしるしを見て、多くの人々がイエスを信じたのですが、イエスもその人々を信じなかったということです。なぜなら、その理由が24節後半と25節に記されています。
  • それによれば、イエスが彼らに「ご自身をお任せにならなかった」理由、彼らを「信じなかった」理由は、「イエスはすべての人を知っておられたから」です。25節では「人のうちにあるものを知っておられた」というふうに言い換えられています。「人のうちにあるものを知っておられた」とは、イエスという方は、人間の本性というものをよく理解しておられたということです。ですから、イエスは、しるしを見て信じる人々にご自身をお任せにならなかった、つまりそのような人々の信仰を信じなかったということです。「しるし(奇蹟)を見て信じる」ということは否定しないけれども、それだけでは、イエスの弟子として、イエスとのいのちのかよった信頼関係に入ることはできないのだということなのです。
  • 「イエスの行なったしるしを見て」イエスのもとを訪れたニコデモは、イエスが神のもとから来られた教師であることを知り、認めたのですが、それだけではダメなのだとイエスから突き放されたのが、3章3節のことば「人は、新しく生まれなければ・・」ということばなのです。

(4) イエスとニコデモの「すれ違い問答」
ここから完全に二人の会話はイエスが主導権を握ります。そして、ニコデモは神の国を見る、つまり神の国に入るという永遠の問題についての神の奥義を教えられることになりますが、そこで繰り広げられる問答は、まったく「すれ違いの問答」です。

  • イエスの言う「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とはどういうことでしょうか。「神の国を見る」とは、神の国の支配、神の恵み、神の愛を真に経験できる世界です。これを別なことばで表現すると、「永遠のいのちを持つ」とか、「救われる」ということばになります。
  • 「神の国を見る、「永遠のいのちを持つ」「救われる」「神の国に入る」、―すべてが同義であり、霊的な現実の経験なのです。それは、神との生きたかかわり、親密な関係、親しい交わりです。そのためにはだれでも「新しく生まれなければならない」のです。「新しく生まれること」、「神の子どもとして生まれること」―これが条件なのです。
  • よく、「新しく生まれ変わった気持ちで」という言い方をすることがあります。一大決心をする場合、心を入れ替えて、新しくやり直そうという場合に、「新しく生まれ変わったつもりで」という表現が使われますが、ここでイエスが言っている「新しく生まれる」とは、「つもり」とか、「気持ち」とかという心の構え方の問題ではなく、まさに、現実の経験として「新しく生まれる」ことを意味します。頭で理解しようとすると、おそらく混乱するでしょう。なぜなら、霊的な出来事だからです。
  • ニコデモも混乱しました。4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 まるで小学生のような質問です。夜の訪問者ニコデモとイエスの問答には、「すれ違い現象」が起こっています。この「すれ違い現象」は、ヨハネの福音書特有のものです。実は、ここに闇が光と接触しているのです。光と闇の接点が「すれ違い」として表されているのです。そしてそこに、とても重要な真理の光が投げかけられているのですが、闇の中にいるニコデモはそれがよくわかりません。とんちんかんな問答がくりひろげられます。
  • イエスはこの「新しく生まれる」ということについて、どういうふうにしてそれが起こるのか、だれにもわからないことを教えていきます。そして、天から下った人の子、つまり自分のことが、かつて旧約の荒野の時代にモーセが荒野で蛇の像を上に掲げてそれを見た者が救われたように、人の子も上に上げられること、そしてその人の子を信じる者こそ、新しく生まれ変わって永遠のいのちを持つことができること、つまり神の国を見る、神の国に入ることができることを話されたのです。
  • 神のふところにある事柄について、イエスの側からいうならば、ニコデモにそれを伝えようとしています。自分のところに訪れて来たこのニコデモに対して、一期一会かもしれないこの出会いの中で、イエスは友として彼に神のシークレットを知らせようとします。ニコデモの側からいうならば、それについてはほとんど理解できないにもかかわらず、最も大切な神の教えをはじめて聞く機会が与えられたわけです。彼がともかくイエスのもとを訪ね、自分の目で見、自分の耳でその教えを聞いたことが、あとでフック・パンチのように、漢方薬のように、じわじわ効いてくることになります。
  • ここでの時点ではまだ友情は成立していません。なぜなら、ニコデモがその教えをどのように受け止めたのか記されていないからです。しかし、ヨハネの福音書にはニコデモがイエスとの友情を結んだことがはっきりとわかる証が二つ記されています。ひとつはイエスを弁護したこと(7章)、もうひとつはイエスが十字架で死なれた後に墓に埋葬したことです(19章)。

3. イエスの弟子としてあかしを立てたニコデモ

  • まずはその聖書の箇所を見てみましょう。19章38~39節

38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。ピラトは許可を与えた。そこで彼は来てイエスのからだを取り降ろした。
39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られた ことのない新しい墓があった。
42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。

  • アリマタヤのヨセフとニコデモのことが書かれています。公には自分がイエスの弟子であることを公然というような人ではありませんでした。不思議なことですが、イエスの亡骸を十字架から降ろして、丁重に埋葬の準備をして、墓の中にそれを収めた人物は、イエスのなんとそれまでイエスの弟子として従ってきた者ではありませんでした。むしろ、隠れクリスチャンならぬ、隠れ弟子でした。アリマタヤのヨセフとニコデモがしたことは、二人がイエスの弟子だということを大胆に証している行為です。
  • ここに友情が成立します。一方通行的なイエスのアガペーの愛ではなく、相互通行の友情が成立しているではありませんか。まさにニコデモにも霊の風が吹いたのです。どこからどのようにしてこうなったのか説明がつきませんが、確かに聖霊の風が彼のうちに吹き、彼は新しく生まれたのです。
  • 「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持ってやって来た。」それが聖霊の風が彼のうちに吹いた動かぬ証拠です。葬儀や埋葬において、そのようなものを自ら持って来て、丁重に亡骸を葬ることなど、余程、親しい関係でなければできないことです。しかも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものは、当時としては莫大な値段のする品でした。それをイエスのために惜しげもなくささげたのです。
  • このような友情のあり方も素敵なものだと思います。初めは人目を恐れたニコデモが、イエスとすれ違いのやりとりしかできなかったニコデモが、少しずつ、知らぬ間に、人目を気にしない、大胆なイエスの友と変えられていく、そのような友情。しかも30代そこそこのイエスと比べるならば、ニコデモは年の離れた高齢者です。ここに神との友情は年齢の差などなんら関係ないのだということを教えられます。
  • 福音書の著者ヨハネは、パリサイ人たちの闇、そしてその束縛の中にあったニコデモが、イエスの友情を通して神の大いなることを見ることができ得ることを私たちに教えようとしています。たとえ、今、闇の中にある者たちも、自分で気づかずに様々な束縛の中にいる者にも、イエスのもとに訪れる事によって、神の奥にある最も重要な事柄(神の栄光)にふれて、ゆっくりかもしれませんが、やがてはそこから解放され、自由の身となり、大胆さが与えられるということです。

むすび

  • イエスのもとを訪れたニコデモとイエスの会話が「すれ違った」ように、私たちの思いや考えもイエスとすれ違いをおこしているかもしれません。しかしイエスはそれを責めることなく、忍耐を持って、また真実と愛をもってかかわろうとして下さっています。私たちの霊の目が開かれ、霊の風が思いのままに吹いて、「さらにより大いなること」に気づかされますように。また、人を恐れることなく、闇の束縛から解放されて、真の自由と大胆さが与えられますように。


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