****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主を愛する者が日の出の勢いを得るように

士師記の目次

4. 主を愛する者が日の出の勢いを得るように

【聖所箇所】 4章1節~5章31節

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戦いの舞台となったイズレエルの平原とダボル山

はじめに

  • 士師記4章と5章は、カナンの王ヤビンの将軍シセラとイスラエルの女預言者デボラ、ナフタリの軍人バラクが戦い、そのとどめをかつてはイスラエルの仲間であったヘベルの妻ヤエルによって勝利がもたらされた物語です。イスラエルの戦いにおいて女性が活躍したのはこれがはじめてのことだと言えます。
  • イスラエルの民の世代が代わると神の道から背反してしまう現実に対して、神はご自身の民を聖なる民とするために、それを保持するために、信仰の教育的観点から彼らを敵の手に「売り渡しました」。その結果、苦しみがもたらされ、その中から主に叫び求めさせ、救助者を起こしてその手に敵を渡されます。このサイクルが士師記の特徴です。世代が代わるたびに、同じ問題を通して、神はこせ自身の民をお取り扱われるのです。出エジプトを出たイスラエルの民の第一世代はヨシュアとカレブを除いて約束の地を得ることなく、荒野で死にました。第二世代も約束の地に入り、それぞれ部族事に神かせの相続地を与えられました。しかし、完全な占領ではなく、継続的な戦いを通して、自分に与えられた地を所有するという課題が残されていました。それは彼らが神を信頼して歩むかどうかを試すためでした。しかし、神を信頼することから逸脱したとき、神は彼らを敵の手に渡して、苦しみを与えのです。
  • やがてこの世界における最終戦争となる場、すなわち「メギド」の付近は広大な平地が広がっています。士師記4章では、北に「タボル山」があり、そこにイスラエルが集結します。そして西南のメギド付近にカナン軍が集結しての戦いとなりました。

1. きわめて不思議な神の勝利への介入

  • 女預言者デボラによって北のナフタリからバラクが呼び寄せ、シセラの率いる戦車九百両の戦車と大軍を戦うことになります。デボラはバラクに「わたしは、彼をあなたの手に渡す」という託宣を告げました。
  • 敵はきわめて殺傷力のある戦車部隊を持っていました。イスラエルはそのような武器はありません。もし平地でまともに戦うならば敗北することは目に見えます。しかし主はデボラを通して勝利を約束されました。人間的に考えるならばとても勝ち目のない戦いでしたが、結果はイスラエルの完全な勝利でした。どのようにして勝利が与えられたのか、それは5章にある「歌」の中に記されています。
  • なぜ戦車九百両という進歩的な装備を誇るカナンのシセラが完敗したのか。その理由は、雨が降ることで「キション川」が氾濫し、地はぬかるみとなって戦車が使えなくなったからでした。だれがこんな戦いを前もって想像し得たでしょうか。いつもこのような戦いで勝つことができるという保障はありません。しかしデボラは神の勝利を確信し、たとえ具体的にどのようにしてして勝利するのかが予め分かっていなくとも、「あなたの手に渡した」との神のことばを信じて戦ったのでした。いいえ、バラクの手によってではなく、「ひとりの女の手にシセラを売り渡される」というのが、デボラに与えられていた託宣でした。そして事実、逃げ延びたシセラを打ちとったのはヤエルという女性でした。そして、そのようになりました。天が(いや、神が)味方したのです。しかし神の助けはいつも同じような方法とは限りません。ですから、戦いにおいてはその都度、その都度、神を信頼することが求められるのです。

2. デボラとバラクの歌

「聞け、王たちよ。耳を傾けよ。君主たちよ。私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。・・キション川は彼らを押し流した。」(士師記 5章3節、21節)

  • 神の不思議な介入による勝利の歌としては、すでに出エジプト時の紅海渡渉の後にその前例があります。デボラとバラクの歌では戦いの詳しい情報を伝えていますが、ここで特にフォーカスしたいことばは、この歌の最後の節である31節です。

(新改訳)
主よ。あなたの敵はみな滅び、
主を愛する者は、力強く日がさし出るようにしてください。

(新共同訳)
このように、主よ、あなたの敵がことごとく滅び、
主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。

  • 神に背いた結果としての苦しみから解放された喜びだけでなく、新しい世代が、神を愛する者として、勢いを得るようにしてくださいという願いで終わっています。信仰の訓練は世代ごとに繰り返し、世代ごとに取り扱われます。一つの問題が解決したことを喜ぶだけでなく、「主を愛する者」となった者たちが「日の出の勢いを得ること」が重要です。「勢い」と訳されたヘブル語は「ゲブラー」גְבֻרָהです。英語では、mighty, strength, force, power と訳されます。新しい世代が主との親しい交わりの中で霊的な力を賦与されることを願っているのです。このことこそ真剣に取り組むべき課題なのです。
  • 「こうして、この国は40年間の間、穏やかであった」とあります。「穏やかであった」と訳された言葉は「シャーカト」שָׁקַטで、神とのかかわりにおける信頼用語でもあります。イザヤ30:15では「落ち着き」と訳されています。「穏やかであった」とは、士師記4:31の祈りが聞かれたことで、新しい世代は上からの力を得ていたことを示しています。

3. ヘブル語によるいくつかの留意点

(1) 神の深い教育的配慮による「売り渡し」

士師記には5回、神の民を敵の手に「売り渡した」ことを記しています。2:14/3:8/4:2, 9/10:7を参照。「売り渡した」と訳されたヘブル語は「マーハル」מָכַרです。旧約では79(80)回。ヤコブが兄エサウに長子の権利を「売りなさい」と迫り、兄は「売った」という所で使われています。またヨセフが自分の兄弟たちによってエジプトに売られたのもこの「マーハル」です。神がイスラエルを「売り渡した」のには教育的訓練(懲らしめ)としての「苦しみ」を与えるこで、再び、神を求めさせる目的がありました。

敵を神の民に「渡す」場合には、「与える」という意味の「ナータン」が使われています。士師記では69回。4章だけに限れば、7節と14節がそうです。


(2) 主に「叫び求めた」と訳される動詞も、二つあることを前回に取り上げました。一つは「ザーアク」זָעקで、声も出せないほどの「呻き」の叫び。もう一つは「ツァーアク」で大きな声で助けを求める叫び求めです。4章3節では後者の「ツァーアク」צָעַקが使われています。20年間のイスラエルは苦しみの中に置かれたのです。カナン軍は平地を占領していたため、当然道路は封鎖されます。そうするならばさまざまな物資の流通ができなくなります。そうなれば次第に物資的な貧困状態が引き起こされます。そうした中での苦しみだと推測されます。


(3) 訳語の表記が同じでも原語の綴りは異なるということ

士師記4章、5章に登場するナフタリの戦士は「バラク」です。民数記23章に登場する「バラム」をたぶらかしてイスラエルを呪わせようとしたモアブの王の名前も「バラク」でした。いずれも訳語では全く同じ表記です。しかし原語を見ると、前者はבָרָקで、後者はבָּלָקです。一見、同じ表記と思ってしまいますが、実際には異なる綴りです。ちなみに、動詞の「バーラフ」(しばしば訳語では「バーラク」と表記されることが多いですが)の綴りはבָּרַךְです。ひざまずきながら主をほめたたえることを意味する動詞です。

デボラと戦ったバラクבָרָק(varaq)の原意は「いなずまを放つ」で、モアブの王のバラクבָּלָק(balaq)の原意は「すり減らす、すたらせる」という意味です。このように日本語表記を実際のヘブル語表記で確かめる時、いろいろと面白いことが分かります。

ちなみに、イエスが「律法の中の一点一画でも決してすたれることがありません・・」と言われたことがありましたが、「一点一画」という具体的な意味はこういうことです。

一点とはヘブル語の「ヨッド」יのことでアルファベット22文字の中で最も小さな文字です。「一画」とは字の形が似ている文字、「ヘイ」הと「ヘット」ח、「ダレット」דと「レーシュ」רを言います。もし書き間違えると、意味そのものが変わってしまうのです。たとえば、律法に「聖なる名を汚してはならない」(レビ22:32)がありますが、「汚す」の「ヒレル」חִלֶלの頭文字חを誤ってהにして、「ヒレル」הִלֶלにすると、「賛美する」という意味になってしまいます。つまり、「聖なる名を汚してはならない」ということが、「聖なる名を賛美するな」と逆の意味になっしまうのです。他の例としては、「主は一つ」(申命記6:4)の「一つ」אחדאחרと書き誤ると、「ほかにも」という意味になります。「主は一つ」ではなく、「主はほかにも」という意味になります。この間違いはきわめて重大です。


2012.4.17


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