****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主は熱心に語ってこられた

文字サイズ:

6. 主は熱心に語ってこられた

【聖書箇所】 5章1節~17節

ベレーシート 

  • 4章に引き続いて、もう一つの象徴的行動が主から示されました。それはどのようにエルサレムが滅亡するかの予告でした。と同時に、なぜ滅亡の運命を招くことになったのか、その根拠も語られています。特に、13節の後半「わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。」という部分に焦点を当ててみたいと思います。

1. エゼキエルに命じられた「剃り落された髪と髭」の象徴的行為 

  • 1~4節で、主はエゼキエルに対して、鋭い剣で頭髪と髭を剃り落とし、それを三等分にするよう命じました。「鋭い剣」(1節)とはエルサレムに対する神のさばきの破壊性を示しており、「悪い獣」(17節)とは神のさばきの道具として用いられるバビロンを意味しています。
    三つの区分が意味することは、以下のとおりです。

    【第一区分】・・町(エルサレム)の中で、燃える火で焼き尽くされること
    【第二区分】・・町の外で、剣によって殺されること
    【第三区分】・・風で吹き去られるように、バビロンの捕囚の民となること

  • 単なる興味ですが、1節に、「床屋」「理髪師」ということばがあります。原語は「ガッラーヴ」גַּלָּבの冠詞付の複数形(גַּלָבִים)で、この箇所にしか使われていない語彙ですが、古くからそのような働きをする仕事があったということが分かります。

2. 神が熱心に語り続けてきた事実 

  • 神の都エルサレムが滅ぼされ、廃墟となることは、神の民が神の声を聞こうとしなかったことです。偶像の神は「語る神」ではありません。偶像は人間の欲望を無限に肯定する想像の産物ですから、口があっても語ることをしません。しかし聖書の神は最初から「語られる神」です。口から言葉を発することによって創造のみわざをなされました。「語る」ことを意味するヘブル語の「アーマル」(אָמַר)は、動詞の使用頻度としてはトップにランクします(5,308回)。また「ダーヴァル」(דָּבַר)は第九位です(1,137回)。そして、人がその神の言葉を「聞く」という「シャーマ―」(שָׁמַע)は第八位となっています(1,159回)。ちなみに、神に従って「歩む」という「ハーラフ」(הָלַךְ)は第六位(1,549回)です。
  • 聖書における神と人とのかかわりの基本が、「語る」-「聞く」という関係にあることを物語っています。そのかかわりが壊されることが罪であり、それによって死がもたらされました。死とは神と人とのかかわりの断絶を意味します。
  • 神によって造られた人間が、神の声を聞こうとせずに背反し、神の道から離反していく現実の中から、神は救いの担い手としてアブラハムを選び、やがてはアブラハムの子孫である神の民イスラエルがその担い手となっていきます。その担い手としての最も重要な務めは神の言葉を「聞く(シャーマשָׁמַע)」ことでした。ところが神の民は、次第に神に逆らい、神のことばに従って歩むことをせず、それをないがしろにして行いませんでした。そして神の民は偶像を神としたのです。それが神にとっては、最も「忌み嫌うべきこと」でした。
  • さて、13節にはこう記されています。

    わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、【主】であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。


    特に、後半の部分の黄色の部分です。
    【新改訳】
    わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、【主】であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。

  • 主はご自身の選ばれた民に対して、「熱心に語った」とあります。ここでの「熱心」と訳されたヘブル語は「キネアー」(קִנְאָה)で、「熱心、熱愛、熱意、熱情、ねたみ)を意味する名詞で、「ねたむ」を意味する動詞の「カーナー」(קָנָא)から由来しています。
  • 名詞の「キネアー」は旧約で43回使われていますが、エゼキエル書の特愛用語です。10回使われています。その最初の例が今回の5章13節です。ちなみに、民数記は9回、イザヤ書は7回です。詩篇では3回と少ないのですが、中でも詩篇69篇9節、119篇139節はイエスの行動を表わす重要な聖句となつています。イエスがエルサレムの神殿において、憤りをもって宮きよめをされましたが(ヨハネ2:17)、それが詩篇69篇9節の成就でした。「わたしの家を思う熱心(キネアー)が、私を食い尽くし」とあります。この神への熱心が人々からの迫害を招く結果となりました。
  • イエスの宮きよめに表わされた「憤り」と「熱心」さの出処は同じです。旧約における神の「憤り、激怒、憤怒」(「ヘーマー」חֵמָה)は、神の「熱心、熱意、熱情、ねたみ」(「キネアー」קִנְאָה)とは、表裏一体なのです。神の統治理念にしたがって、神はご自身の民をさばき、彼らの信仰の拠り所としていたエルサレムの町を徹底的に破壊しました。それは、神の民が神のことばを聞かなかったことに対する懲罰的さばきであり、同時に、捕囚として散らされた者たち(残りの者)に対して神が一縷の望みを託した行為でした。

最後に

  • イスラエルが神の民として歩むためにどうしても欠かすことのできない要件は、ひとえに神のことばを聞くことです。それゆえ、礼拝における「シェマ」はきわめて重要です。空知太栄光キリスト教会の礼拝は、「シェマ」という呼びかけから始まるのはそのためです。しかしそれは、単にこの歌を歌うことではなく、神のことばを注意深く聞くために、「目を覚ます」呼びかけとしての歌であり、神の最終的な救いに向けて心を備える「みことばの回復」を目指す告白的行為なのです。
  • 神から遣わされた御子イエスは神の国について繰り返し語られましたが、その都度、「耳のある者は聞きなさい」、「聞くことに注意しなさい」と語られました。それは今日的課題としての「みことばの回復」とも深く関係するところです。


2013.5.7


a:3209 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional