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主は人の鼻にいのちの息を吹き込まれた

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124. 主は人の鼻にいのちの息を吹き込まれた

【聖書箇所】 創世記 2章7節

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【読み】
ヴァッーツェル アドイ エローーム エット ハーアーーム アーファール ミン ハーアダーー ヴァッイハ ニシュット ハッーム ヴァイェー ハーアーーム レフェシュ ハッ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
【口語訳】
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
【新共同訳】
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
【NKJV】
Gen 2:7 And the Lord God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living being.
【NIV】
Gen 2:7 the LORD God formed the man {[7] The Hebrew for <man (adam)> sounds like and may be related to the Hebrew for <ground (adamah)>; it is also the name <Adam> (see Gen. 2:20).} from the dust of the ground and breathed into his nostrils the breath of life, and the man became a living being.

【瞑想】

人間の創造―つまり、土地のちりで形作られた人が生きものとなったそのプロセスにおいて特異なのは、神である主がその鼻にいのちの息を吹き込まれたという点です。新改訳は「生きもの」という表記 新共同訳は「生きる者」、KJVは a living soul、NIVは a living being
と訳されています。原語は「ネフェシュ・ハッヤー」(נֶפֶשׁ חַיָּה) 七十人訳では「プシュケー・ゾーエー」(ψυχη ζωη)と訳されています。直訳は「生きている魂」です。「ネフェシュ」の旧約聖書での使用頻度は754回です。

ネフェシュ・ハッヤー」は人間特有のものではなく、いのちある者、生けるものすべて「ネフェシュ・ハッヤー」です。創世記1章20, 24節、2章19節の「生き物」も同じく「ネフェシュ・ハッヤー」です。ただし、1章21節の「生き物」だけは形容詞の「ハッヤー」に冠詞がついた形で「ネフェシュ・ハハッヤー」(נֶפֶשׁ הַחַיָּה)です。新改訳も新共同訳も同じく「うごめく生き物」と訳しています。

「ネフェシュ」は、創世記2章21節にはじめて登場する「肉」(バーサール、בָשָׂר) と共に、人間を構成する重要な要素で、「息、たましい、いのち、自身、願望、望み、喉」という意味をもつ非物質の部分です。「ネフェシュ」は「魂(たましい)」という訳以上に、「願望」「喉」という意味を持っているということが注目点です。なぜなら、そこに「ネフェシュ」本来の意味があるからです。単なる身体的機能としての「喉」を表わすだけでなく、飢え渇く存在、必要の塊、切望、欲望、旺盛な食欲、外から何かを得ることなしには生きられない存在、満たされることを常に求める存在を表わしているように思われるからです。こうしたニュアンスは、「魂」、あるいは「生ける魂」という訳では到底表わし切れません。私的には、赤子と同様に、必要の塊的存在、それが「ネフェシュ」の本体だと考えています。つまり、すべての「ネフェシュ・ハッヤー」は、神のように自存できない存在、常に依存しなければ生きられない存在として造られているということです。

特に人間の場合は、すべての必要が神によって与えられて生きる者として造られたということが、他の被造物と決定的に異なる点です。そのことを指し示しているのが、神が人の鼻に「いのちの息を吹き込まれた」という事実です。

この箇所にある「いのちの息」の「いのち」が複数形の「ハッイーム」(חַיִּים)であるにもかかわらず、ほとんどの訳が単数形のような訳となっています。ちなみに、その後の「息」(breath)と訳される「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)は単数です。これは、ヘブル語の「神」を表わすことばが複数形の「エローヒーム」(אֱלֹהִים)で使われているにもかかわらず、その動詞の「造られた」という動詞が単数であるのと似ています。複数形で現わされる神は、神の三位一体的啓示と理解しますが、2章7節の「ハッイーム」(חַיִּים)も同様に考えることができるように思います。つまり、複数形で表わされる「いのち」は、同じく複数形であらわされる「神」と同義だということです。むしろ、重要なのは「息」の方です。というのも、人間以外のすべての「生き物」は、いのちの本源である神によって「生き物」ものとされていますが、人間の創造だけは神の「いのちの息」が吹き込まれて、はじめて「生きもの」とされているからです。

「神のいのち」と「人間のいのち」は、語彙的な面からも共通しています。それは神と人とがいのちにあって呼応する関係であることを意味しています。
⇒「神のいのち」と「人のいのち」の語彙的な面からの呼応性

神の「息」は、七十人訳では「プノエー」(πνοη)というギリシア語が当てられています。新約聖書での「プノエー」は、「息」(使徒17:25)と「風」(使徒2:2)として2回しか使われていませんが、「風、息、霊」という意味が込められた「プニューマ」(πνεύμα)と同義であると見なしてもよいと思います。なぜなら、両者はいずれも「呼吸する、吹く」を意味する共通の動詞「プネオー」(πνεω)」を有しているからです。

「息を吹き込まれた」の「吹き込む」と訳された「ナーファハ」(נָפַח)は、炭火を吹き起こして煮え立たせるという意味です。火は息(風)を吹きつけることで勢いよく燃えます。水の中に溺れて仮死状態になっている者に、息を吹き入れて生き返らせることがありますが、人間の場合も、神の「いのちの息」が吹き込まれることで、はじめて他の被造物とは異なる「ネフェシュ・ハッヤー」となったのです。ですから、死とは、神の「いのちの息」を喪失したか、あるいは機能不全、破損したことが考えられます。いずれにしても、それによって死が支配します。その死からから回復するためには、神の息を再び吹き入れていただくしかありません。エゼキエル書37章9節では、主はエゼキエルに、死んだ者を生き返らせるために、「息よ。四方から吹いて来い。」と預言せよ、と命じています。エゼキエルがそのようにすると、「息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り。自分の足で立ち上った。」とあります(39:10)。

また、「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」(ヨハネ3章34節)とあるように、神の「いのちの息」は、神と人とをつないでいるいのちの「ことば」と同義です。

神の「いのちの息」が人に吹きこまれたことによって、人は他の被造物とは異なる存在、つまり、神と親しく向き合うかかわりを持つ存在となりました。もし、この神の「いのちの息」を喪失したならば、「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる(ほふられる)獣に等しい」(詩篇49:20)とあるように、他の生き物となんら変わらない「ネフェシュ・ハッヤー」となってしまいます。神の与えてくださる賜物としての「いのちの息」(主の御霊、聖霊)と神のことばこそが、神と人とのかかわりを回復させ、人を本来のトーヴ・メオッドな存在として回復させてくださるのだと信じます。


2013.12.2


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