****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の語ったさばきの預言は必ず成就する

文字サイズ:

12. 主の語ったさばきの預言は必ず成就する

【聖書箇所】 12章1節~28節

ベレーシート 

  • 12章でもエゼキエルの預言的象徴行動が見られます。それはやがて訪れるエルサレムの陥落を預言するものでした。エゼキエルは第一回の捕囚となった人々ー「反逆の民、反逆の家」ーに対して預言しています。「反逆の家」とは、「見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない」というイスラエルの民の態度を意味しています。イエスが弟子たちに対して「まだわからないのですか。悟らないのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。・・」(マルコ8:17~18)と言われたように、神の語ることばを理解し、悟ろうとしないことに対して叱責しています。神のなさろうとしていることに関心を持たずに、ただ自分の願いや思いに関してしか見ようとしなければ、神の心を悟ることができません。神はエゼキエルに命じて、エルサレムの滅びを示す預言的象徴的行動を通してそのことを悟らせようとしました。

1. エゼキエルの預言的象徴的行為 

  • 「彼らの見ている前で」(4, 5, 6, 7節)というフレーズが繰り返されます。あたかもエゼキエル自身が捕囚の身となって連れて行かれるかのように、日中に荷物をまとめ、夕方自分の家の壁に穴を開け、荷物を肩に負い、地が見えないように顔を覆い、そこを通って暗いうちに別の場所に移動するというこれらの行為は、ユダの王ゼデキヤ個人に起こることが預言されていたのです。そして実際にそのことは五年後に実現します。彼はエルサレムを逃げ出しましたが、捕らえられて、両眼は残酷にもえぐり出され、鎖につながれてバビロンへと連れて行かれました。そしてその地で死んだのです。
  • 16節には「残りの者の思想」があります。「わずかな者」が剣やききんや疫病から免れる者がいるということです。ただし、ここではそうした彼らの目的は彼らが散らされる諸国において、なぜエルサレムが陥落したのかをあかしするためです。
  • 18~20節での象徴的行為は、エルサレムの包囲時に起こる飢餓状態を指し示すものでした。

2. さばきに関する預言は必ず成就する 

  • 当時、「日は伸ばされ、すべての幻は消え失せる」(22節)という諺があったたようです。この諺の意味は、神のさばきの預言は決して実現しない。たとえあったとしても、26節にあるように「預言者が見ている幻(さばきの幻)はずっと後のことであり、はるかに遠い将来について預言している」と多くの人々は考えていました。

しかし使徒ペテロはこう書いています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱペテロ3章3~4節
3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

  • しかし主は、明確に、預言者が語った「すべての幻は実現する」としています。
    わたしが言ったことは、必ず、成就する」というフレーズが繰り返されて強調されています。いつの時代でも神のさばきの預言は、往々にして流されたり、あるいは割引されて聞かれます。今日、私たちが見聞きするメディアの情報をどんなに多く得たとしても、そこから神のさばきのメッセージは聞こえてきません。しかし、神のさばきの預言は、人々が一人でも悔い改め主に立ち返るために遅れることがあったとしても、さばき自体がなくなることは決してありません。このことを聖書を通して、正しく悟る必要があります。

3. 付記―ヘブル人の歴史感覚 

  • 最後に、ヘブル人の歴史感覚、あるいは時間感覚は私たちとは異なます。27節にそのことが記されています。
    「彼が見ている幻はずっとのことについてであり、はるかに遠い将来について預言しているのだ。」
    ここでは「将来」と「後」は同義語です。私たちは未来に起こること、将来に起こることは「先」ということばで表現しますが、ヘブル人たちは「後」なのです。なぜなら、彼らは過去に起こった出来事の方向をみながら、後ろ(将来)に進んでいるからです。過去に起こった神の出来事に目を向けることによって、はじめて将来起こることが見えてくるからです。神がこれからなそうとしていることは、すでに起こった出来事の中に隠されているのです。
  • 神の歴史を見るならば、神のさばきの事実とその理由を知ることができます。さばきの前に必ずそのことが警告されていたことが分かります。何の警告もなしに神がさばかれることは決してないことが、歴史を知るならば悟ることができます。私たちがこうした聖書的な歴史の見方を身に着けることによって、やがて神がなさろうとされるさばきを正しく理解し、神のみこころを悟り、それに対する心の備えをすることができるのです。
  • 申命記32章でモーセは以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】申命記32章7節
昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。


●この節にある三つの命令はきわめて重要です。
(1) 「昔の日々を思い出せ」
「ゼホール・イェモート・オーセーム」(זְכֹר יְמות עוֹלָם)
エデンの園で起こったことから始まり、人類最初の殺人、ノアの時代、バベルの塔を建てた人間の傲慢、アブラハムと交わされた「松明の契約」、エジプトでの430年間の奴隷生活、そこからの解放、そして40年間の荒野の生活など、すべて「昔の日々」です。これらを絶えず思い出すように、忘れてはならないとモーセは命じています。

(2) 「代々の年を思え」
「ビーヌー・シェノーット・ドール・ヴァードール」
(בִּינוּ שְׁנוֹת דּוֹר־וָדור)
「昔の日々」と「代々の年」はそれぞれ過去を指という点で一致していますが、「代々の年」は「昔の日々」に比べるとより具体的で特定の期間、あるいは特別な重要な意味を持つ歴史的時点を意味しています。例えば、系図です。そこには神のご計画における驚くべき事柄が啓示されています。そのことを「思う」(「ビーン」בִּין)とは、よく考察して、悟れという意味です。つまり、単純に「過去を回想しなさい」ということではなく、「熱心に研究し、観察して悟るということなのです。

【新改訳改訂第3版】
詩 119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。
〔※太文字の部分が「ビーン」(בִּין)です。「わきまえる、見分ける」という意味でも訳されています。その同義語として「思いを潜める」(「シーアッハ」שִׁיחַ)も重要です。いずれも瞑想用語なのです。〕

(3) 「あなたの父に問え」
「シェアル・アーヴィーハー」(שְׁאַל אָבִיךָ)
「問え」とは「尋ね求める、懇願する」という「シャーアル」(שָׁאַל)の命令形です。つまり、切実な思いを込めて尋ね求めることを意味しています。積極的に最善を尽くして求める姿勢です。自分で解決できない問題や困難に直面したときに、直接、神に問うことも大切ですが、神の人と言われる預言者に問いました。ユダの王ヨシャパテがそうでした(Ⅰ列王記22:7)。彼は「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいいのですか。」とイスラエルの王に尋ねています。今日の私たちにとって「神の人」とは、「信仰の先輩たち」とも言えます。


●このように、モーセはイスラエルの次世代の民に対して、常に「先」(過去)に思いを集中させることを通して、「後」(将来)に向かって歩むことを教えようとしています。今日の教会に対しては、もっともっと旧約聖書から多くを学べということなのです。換言するなら、「果てなき探求を続けよ」ということなのです。


2013.5.17


a:2414 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional