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主の日は近い。・・その日が来る。(続)

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2. 主の日は近い。・・その日が来る。(続)

【聖書箇所】 ヨエル書2章1~17節

ベレーシート

  • ヨエル書2章1~11節には、いなごの来襲のことが再び取り上げられています。それゆえ、「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ」(1節)とあります。これは、「主の日が来る」ことの警告のためです。その日が「やみと、暗黒の日」「雲と、暗やみの日」となるからです。
    (1) このようなことは昔から起こったことがない。ー昔の規模を越えた神のさばき
    (2) これから後の代々の時代にも再び起こらない。ー終末に起こる未曾有のさばき

1. いなごの大軍の来襲の預言

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  • 聖書には、いなごの大軍の来襲に関する三つの記事があります。第一の記事は、出エジプト記10章12~15節にあります。エジプトのパロがイスラエル人のエジプトからの退却を拒絶したことで、ものすごいいなごの大軍がエジプトに襲来しました。「それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。」(出10:15)とあります。主なる神はエジプト人たちが労して得たすべての作物をいなごに与えました。これはイスラエルの民に対しても同様で、主の命令に従わなければ、「畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。」と警告しています(申命記28:38)。ここでは実際の「いなごの来襲」を意味しています。
  • 第二の記事はヨエル書にあります。ヨエル書はそのいなごの災厄をありありと描写していますが、それはヨハネの黙示録にあることを預言しています。ヨエル書2章11節では「主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」としています。ヨエル書で預言されているいなごの大軍は、神のさばきの道具として用いられる神の敵の軍勢を意味しています。
  • 第三の記事は、ヨエル書で預言されたいなごの恐ろしさをさらにいっそう強めるかたちで預言されています(黙示録9:3~11)。御使いによる第五のラッパが吹き鳴らされることで、おそらく、ここから本格的な反キリストによる大患難がはじまると考えられます。なぜなら、第五のラッパによって始まるさばきが「第一のわざわい」と呼ばれているからです(黙示録9:12)。
  • 第一の記事(出エジプト記)は実際の「いなご」によるものでしたが、第二の記事(ヨエル書)では実際の「いなご」と「神に敵対する軍勢」とが二重写しで語られています。しかし第三の記事(黙示録)では、「いなご」は、明確に、神に敵対する軍勢(悪霊たち)を意味しています。箴言30章27節に「いなごには王はいないが、みな隊を組んで出て行く」とあるように、本来、いなごの大軍にはリーダー的存在はいないものですが、第三の記事(ヨハネの黙示録)では、「アバドン」(ギリシア語ではアポリュオン)という底知れぬ所の御使いを王としています(黙示録9:11)。この王こそ「サタン」です。この「サタン」は「天から地上に落ちた一つの星」そのものです。しかもその星には「底知れぬ穴を開くかぎ」が与えられます。そして与えられたかぎで「底知れぬ穴」を開いたとき、そこから大きな炉の煙が立ち上り、その煙の中から、いなごが地上に出て来たとあります(同9:2~3)。そのいなごには地のさそりの持つような力が与えられ、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えることなく、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるようにサタンから言い渡されてます。「底知れぬ穴」とは悪魔と悪霊の住処です。そこからやがて上ってくる獣こそ「反キリスト」なのです(同11:7)。
  • ヨエル書が「主の日が来る。その日が来る。」としているのは、ヨハネの黙示録が語っている「第一のわざわい」のことなのです。しかも重要なことは、たとえそれがサタンによって引き起こされているように見えても、実は主の主権のもとで神の目的のために用いられているに過ぎないということです。

2. 悔い改めの呼びかけ

  • 神の民に対する神のさばきの預言と同時に、ヨエル書2章12節から「悔い改めへの招き」が記されています。

    【新改訳改訂第3版】ヨエル書2章12~14節

    12 「しかし、今、──【主】の御告げ──心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ(שֻׁבוּ)。」
    13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ(שׁוּבוּ)。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる(脚注)からだ。
    14 主が思い直して(שׁוּב)、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、【主】への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。

(1) しかし今もなお

画像の説明
  • しかし、今」と訳された箇所には、二つの接続詞と副詞の「今」が使われています。二つの接続詞の一つは「ヴェ」(וְ)で、もう一つは「ガム」(גַּם)です。つまり、悔い改めの機会が今もなお与えられていることを強調する表現です。新改訳では原文どおり、「主の御告げ」というフレーズの前に置いて訳しています。
  • ちなみに、新共同訳は「今こそ」、口語訳は「今からでも」、岩波訳は「しかし今でも〔遅くはない〕」と訳しています。岩波訳がここの強調表現をうまく訳しているように思います。「しかし今でもなお」と神に立ち返るチャンスがあることを強調しているのです。

(2) 強調される「シューヴ」(שׁוּב)

  • ヨエル書2章12~13節には、三つの「シューヴ」が登場します。
    ①「わたしに返れ」(12節)・・主ご自身の呼びかけ
    ②「主に立ち返れ」(13節)・・預言者の呼びかけ
    ③もしこの呼びかけに応えるならば、主ご自身も「思い直してくださる」かもしれない(14節)。
  • 主に立ち返る「シューヴ」は、心を尽くし、「着物ではなく、心を引き裂け」とあるように、外面的なことではなく、内面的でなければなりません。さらに重要なことは、「罪を悔い改めて」ではなく「わたしに立ち返れ」と呼びかけられているということです。明確な方向性を指示しています。これが真の「シューヴ」が意味するところです。⇒「悔い改め」という訳語の脆弱性についても参照のこと。
  • 「わたしに立ち返れ」という場合、「わたしに」は、通常「エーライ」(אֵלַי)という語彙を使用するのですが、ここ12節では「アーダイ」(עָדַי)という語彙が使われ、「シュヴー・アーダイ」(שֻׁווּ עָדַי)となっています。それは、通常用いられる「シューヴー・エーライー」(שׁוּבוּ אֵלַי)よりも強い表現です。つまり、単に、神に立ち返るだけでなく、神という目標に到達して、そこにとどまることをも要求している表現だからです。ちなみに、13節の預言者ヨエルの呼びかけでは「シューヴー・エル・アドナイ」(שׁוּבוּ אֶל־יהוה)となっており、これが普通の表現です。
  • ところで、「主に立ち返る」ことは決して容易なことではありません。「立ち返る」にも、主の助けが必要なのです。2章の後半では、神の民が神に立ち返るために、神が「わたしの霊」(「ルーヒー」רוּחִי)を注ぐと約束しています。実は、その「霊」の注ぎなしには神に立ち返ることができないことを知らされるのです。神は単に「立ち返る」ことを要求されるだけでなく、それができるようにしてくださるあわれみに満ちた方なのです。ここに、モアブ契約(申命記30:6)の成就とエレミヤの「新しい契約」(31:33)の必然性があるのです。と同時に、これこそが、「夕があり、朝があった」(創世記1章)とする神の創造のわざなのです。



脚注
●ここの「思い直して」は「シューヴ」という語は使われていません。原文では「ナーハム」(נָחַם)の受動態が使われています。意味としては「思い直す」「思い返す」「悔いる」という意味です。

2015.1.16


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