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主の日(地上再臨)は夜中の盗人のように来る

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6. 主の日(地上再臨)は夜中の盗人のように来る

【聖書箇所】Ⅰテサロニケの手紙 5章1~28節

ベレーシート

  • 4章13~18節でパウロは、キリストの空中再臨についての希望について語った後に、5章では「主の日」について語っています。ここで重要なことは、テサロニケの教会の人々はみな「光の子ども」であるゆえに、「主の日が、あなたがたを襲うことはありません。」と断言していることです。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(5:9)と説明しています。
  • 今日、福音派の教会の中でも、キリストの空中再臨が地上再臨の直前にあるとする教えが広まっています。この考え方だと教会は大患難の中を通過することになります。「主の日」は神の怒りの日です。なにゆえの怒りなのかと言えば、イスラエルの民(ユダヤ人)が反キリストをメシアと信じて七年間の契約を結ぶようになるからです。特に、反キリストの七年間の支配の後半である三年半とキリストの地上再臨までを「主の日」と呼びます。それは未曾有の大患難が襲う時であり「暗やみ」の日なのです。教会がこの主の怒りを経験し、「暗やみ」の中にいる必然性がどこにあるというのでしょうか。むしろ教会(花嫁)が携挙されたことによって、反キリストがこの地上に登場できるようになるのです。テサロニケ人への手紙第二の2章3節にも「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」とあります。使徒パウロが5章において「主の日」について触れたのは、教会がその中にいないことを教えて、再度、確認させるためです。

1. 「主の日」について

  • 使徒パウロが「主の日」について語ったのは、4章の最後にある「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい」と勧めを補強するためです。その証拠に、5章11節で再び「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」と記しています。
  • 「主の日」とは旧約の預言者たちがしばしば使ったフレーズです。「主の日」のことを「終わりの日」とも、「滅び」とも言います。その日にはまず「背教」(神に逆らうこと)が起こり、「不法の人」(ヨハネは「反キリスト」、あるいは「獣」と表現します)が現われます。この「不法の人」は自分こそ神だとして礼拝することを人々に要求します。それゆえ、「不法の人」に逆らう人々はこの世で生きて行けなくなります。まさに「暗やみ」がこの世を覆うのです。しかも、それはパウロが記しているように、「盗人のように来る」のです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰテサロニケ5章2~3節
2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません


「・・・ということは、あなたがた自身がよく承知している」とあります。なぜなら、「主の日」がどのようにして来るかを、パウロはかつてテサロニケの人々に教えていたからです。それゆえに「よく承知している」はずだと言えるのです。「よく承知している」と訳された原文は、「あなたがたは主の日について、すでにより正確に知っている」となっています。

「突如として滅びが彼らに襲いかかる」とありますが、このことが起こることはすでに繰り返し繰り返し語られてきたのですが、人々がそのことを信じなかったがゆえに、「突如として」襲ったように見えるのです。まさに、ノアの洪水の時もそうでした。神の警告のことばに耳を貸さなかった者たちにとっては、その警告が意味する「滅び」が襲いかかるときは、「突如として」なのです。これが「暗やみの中にいる」という意味です。


2. 「あなたがたはみな光の子ども」とはどういう意味か

【新改訳改訂第3版】Ⅰテサロニケ5章4~8節

4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう
7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう

  • 使徒パウロは、「光の子ども」(昼の子ども)と「夜や暗やみの者」とを対比しています。主にある者たちはみな「光の子ども」なのです。この「光」とは創世記1章3節の「光」(ヘブル語の「オール」אוֹר)と同義であり、「やみの中から輝き出た光」なのです。

画像の説明

  • 「光」を意味するヘブル語「オール」(אוֹר)は、神ご自身を表す文字「アーレフ」(א)と、釘を象った文字「ヴァーヴ」(ו)、そして頭を象った文字で、考え、思考を意味する「レーシュ」(ר)が組み合わさった言葉です。つまり「オール」とは「初めに、神様が釘を刺した、釘を打ちこんで固定した、つまり決定した考え、思い」、すなわち決して変わることのない、揺るがない神様の永遠のご計画を表すもの、それが聖書が意味する「光」なのです。これについては神田満師の⇒こちらを参照のこと。
  • したがって、「光の子ども」(昼の子ども)とは「明るく、元気で、のびのびとした子どもたち」という意味ではありません。そうではなく、「決して変わることのない、揺るがない神の永遠のご計画、すなわち御国の福音にを悟り、それを伝える使命を与えられた者たち」のことを言うのです。逆に、「暗やみの者」とはそのことを知らない者たち、悟ろうとしない者たちのことを言うのです。使徒パウロは「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」(5:8)と勧めています。
  • 「終わりの日」「主の日」の主要な出来事となるキリストの地上再臨は、敵であるサタンが最も嫌う教えであるために、サタンによる霊的混乱がもたらされることは避けられません。しかしそうした中にあっても「慎み深くしている」ことができるのは、神の永遠のご計画を悟った「世(界)の光」(マタイ5:14)、「光の子ども」(ヨハネ12:36、エペソ5:8)だけなのです。御霊の助けによって、このことの重大さを悟れるようになりたいものです。

2015.10.3


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