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主の救いを黙って待つのは良い

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34. 主の救いを黙って待つのは良い

【聖書箇所】 哀歌3章25, 26節

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【読み】
トーヴ アドーイ レコーヴァー レネフェシュ ティデレシェヌー ーヴ ヴェヤーヒール ヴェドゥーーム リトシューアット アドーイ

【文法】

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【翻訳】

【新改訳改訂3】
【主】はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
【主】の救いを黙って待つのは良い。
【口語訳】
主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
【新共同訳】
主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
【NKJV】
The Lord is good to those who wait for Him, To the soul who seeks Him.
It is good that one should hope and wait quietly For the salvation of the Lord.

【瞑想】

このフレーズのメッセージは、「主はいつくしみ深い」(3:25)という一語に尽きます。ヘブル語では「トーヴ・アドナイ」(טוֹב יהוה)。英語ではThe LORD is good.

主のトーヴを信じる者は、将来、必ず幸い(トーヴ)を得ることができることを「人称なき存在」は強調しています。そのための条件は三つあります。それは、「待ち望むこと」「尋ね求めること」「静まること(沈黙)」、この三つです。

(1) 「待ち望む」
哀歌では「待ち望む」という動詞が二つ使われています。一つは先に挙げた「ヤーハル」יָחַל、そしてもう一つは「カーヴァー」קָוָהです。前者は2:21, 24, 26の3回、 後者は2:16, 3:25の2回使われています。特に、「ヤーハル」は詩篇119篇の特愛用語です。詩篇119篇はバビロンの捕囚の中で、神の民が神をなによりも愛する者となり、神の教えであるトーラーを自ら、主体的に学び、それを宝としてトーラー・ライフを築いたあかしの詩篇です。そこに「待ち望む」という「ヤーハル」が6回使われています(119:43, 49, 74, 81, 114, 147)。

(2) 「尋ね求める」
「尋ね求める」と訳された「ダーラシュ」דָּרַשׁは、哀歌では3:25の1回しか使われていませんが、詩篇119篇では特愛用語として5回使われています(119:2, 10, 45, 94, 155)。

神の民は、実に、三世代をかけて熱心に神を尋ね求めるようになり、その結果として神を見出しました。神とこそのことばをどんな宝よりも愛することを喜びとする者となりました。それは神が彼らに与えられていた「トーラー」に神の無条件の選びの愛と真実を見出したからです。

(3) 「静まる」(沈黙する、黙る)
静まって、独りになることを意味する「ダーマム」דָּמַםは、哀歌では3回(2:10, 18/3:28)使われています。神と人とがしっかりとした良いかかわりを築くためには、「独りになること」を恐れないことが重要です。

沈黙と静まりこそ、御父のみこころに従う御子イエスの内なる自由が培われた場でした。私たちも、神に愛された者として生きるためには、活動的な働きから退く「静まりの時」が必要です。なぜなら、その静まりの時こそ神との信頼の絆が深められる時だからです。換言するならば、静まりは神の臨在の意識を回復する営みと言えます。神が私に語りかけておられるという感覚が研ぎ澄まされ、敏感になりながらも、たましいは、神にゆだねる心で休息している。「【主】の救いを黙って待つのは良い」「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」―その模範はイエス・キリストです。沈黙と静まりを通して、私たち自身が神に向けられるようになります。そして、開かれた神のことばの理解がより深められる経験をするのです。


主はまことにいつくしみ深い」方であることは、詩篇においても重要な告白の一つです。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」というフレーズは定型句として使われています(詩篇106:1, 107:1など)。預言者エレミヤも「バビロン捕囚」は災いではなく、平安を与える計画であり、希望と将来を与えるものであることを語っています(29:11)。

最後に、哀歌3章の33節のみことばをいろいろな訳で見てみます。

【新改訳改訂第3版】
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
【新共同訳】
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。
【関根訳】
心から人の子らを苦しめ、打ちたもうのではないのだ。
【岩波訳】
まことに、彼は人の子らを心の底から辱め、苦しめはしない。
【バルバロ訳】
主は、人の子を苦しめても、すすんで押しひしがれるのではない。

このように、「神が良いお方であり、良いことしかなさらない方である」というのは永遠の真理であり、命題です。この真理を見失うとき、私たちは混沌としたやみの中をさまようことになります。「苦難」には必ず意味があります。しかしその意味することはすぐには掴むことができないかもしれませんが、必ず意味があることを聖書によって知ることができます。意味を見出し得なければ、その苦しみから学ぶことや大きな飛躍をすることはできません。苦しみを経験した人がその意味を見出した時、喜びが湧き上がり、生きる力さえもあふれてくるのです。


2013.3.20


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