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主に背いた私の呻きと痛みを見よ

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2. 主に背いた私の呻きと痛みを見よ

【聖書箇所】1章12節~22節

ベレーシート

  • 「哀歌」の前半と後半は、語っている人称が異なります。11節の後半の部分に「主よ。私が、卑しい女になり果てたのをよく見てください」とありますが、ここに起点に語り手がそれまでの3人称から1人称に変化しています。ここでの1人称とは陥落したエルサレム自身です。彼女(エルサレム、シオンの娘)は、自分がはなはだしく罪を犯したことによって悲惨な呻きと痛みの中に置かれていることを十分に自覚しているのです。また、「主は正義を行なわれる」(1:18)方であることを認めているのです。
  • 後半の最初の部分(12節)では、彼女が「道行く人々」に「よく見よ」と命じています。道行くすべての者に「よく見なさい」と呼びかけているのはなぜしょうか。それは、神によってもたらされた「痛み」がいかに悲惨なものであったかに注目させるためです。

1. 生存のためのサバイバル的現実

11節と19節に似たような表現があります。まずそこに注目してみたいと思います。

(1) 11節【新改訳改訂第3版】
彼女の民はみなうめき、食べ物を捜しています気力を取り戻そうとして、自分の宝としているものを食物に代えています。

(2) 19節【新改訳改訂第3版】
私は愛する者たちを呼んだのに、彼らは私を欺いた。私の祭司も長老たちも、町の中で息絶えた。気力を取り戻そうとして、自分の食物を捜していたときに。

  • 11節と19節に共通しているのは「気力を取り戻そうとして」という表現です。これは新改訳の訳ですが、新共同訳では「いのちをつなごうとする」と訳しています。関根訳では「なお生きながらえようと」と訳しています。新共同訳と関根訳は「生きるために必死でなにかをしようとする」というニュアンスが伝わってきますが、新改訳の「気力を取り戻す」という訳は精神的に大切な何かを取り戻そうというニュアンスがあります。しかし残念ながら、その訳では生存に対する切迫性、あるいは醜悪性(サバイバル)が伝わってきません。原文では
    「レハーシーヴ、ナーフェシュ(לְהָשִׁיב נָפֶשׁ)」(直訳は「魂を帰すため」ですが、これで「生きるために」の意)とあるので、精神的に生きる「気力を取り戻そうとして」と訳されたのだと思いますが、それが「パン」「食べ物」の飢饉と結びつくとき、むしろその魂(נֶפֶשׁ)は「貪り」と結びついて、より醜悪性を帯びてくるように思います。
  • 11節には、「彼女(エルサレム)の民はみなうめき、食べ物を捜しています。そして「自分の宝としているものを食物に代えています」とあります。エルサレムは包囲されているため、飢饉が深刻になってきており、そのために民はみな「うめいて」いるのです。「うめく、呻く」と訳された動詞は「アーナハ」אָנַחで、ニファル(受動態)でのみ用いられますが、その意味は「ため息をつく」「嘆く」「呻く」「呻吟(しんぎん)する」という意味です。かつてエジプトではイスラエル人がひどい労苦のためにうめき、その叫びが神に届いて出エジプトされましたが、ここでは飢饉のために呻き、苦しみの叫び(ため息)を上げているのです。そこでは、生きるためにはそれまで自分の宝としていているものを、あるいは、愛しむ者、慕わしいものを手離して、食べ物に変えなければならないという価値転倒の現実になっているのです。その姿はまさに惨めな有様なのです。
  • 19節では、「愛する者」に助けを求めて欺かれ(裏切られ)、指導者たちである祭司や長老たちまでもが、自分のいのちをつなごうと、命の糧のために(食べ物を乞いながら)、息絶えている現実を記しています。そしてこのような「痛み」(「マフオーヴ」哀歌1:12, 12, 18、מַכְאוֹב)を直視するように呼びかけているのです。

2. 神に選ばれることの厳しさ

  • 神に選ばれるということは、私たちが考える以上に必ずしも特権的なことではありません。それはすべての民の見本とされるということですが、時にはより厳しいことも経験するのです。ユダヤ人は選民意識が強すぎるとよく批判されますが、それは他の民以上に厳しさをも要求されることを意味します。神に「選ばれる」ということは、特別な祝福と同時に、大きな責任と厳しさが要求されるのです。
  • イスラエルの民は、まさに神のすべての民を祝福する器であるゆえに、その責任と厳しさが要求されている民です。それゆえに神の懲罰的な痛みにも耐えなければならないという宿命を負わされている民でもあるのです。とすれば、ここでの彼女の痛みに対して、対岸の火事というわけにはいかないのです。
  • 選民の宿命は、やがて「苦難のしもべ」という思想に発展していきます。神の使命を成し遂げるための神の「しもべ」は、苦難なしには神のご計画は遂行できないのです。しかし、苦難の後には、必ず栄光が約束されています。「今の苦難、後の栄光」、これがメシアの宿命です。
  • 神に選ばれ、神によって召されるということはこの覚悟がいるのです。イエスは弟子たちに言われました。
    「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)



AD70.ローマ軍によって崩壊したエルサレム神殿の残された西側の「嘆きの壁」

画像の説明

2012.12.15


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