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主との親しい交わりを実現するLife-style<1>

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A-09 主との親しい交わりを実現するLife Style <1>

はじめに

  • 推薦図書としてあげた、チャールズ・スウンドル師の『全能の主との親しい交わり』(太田和功一訳、いのちのことば社、2001年)の中で、30年にわたる牧師としての忙しい働きから解き放たれた期間(2年間)について次のように述べている。「この期間は、私にとって今までにない特別な時です。日々の忙しさは相変わらずあるものの、仕事に追い立てられることは少なくなり、物事をじっくり考え、こころの思いを書き留める時間が増えた。音楽にたとえれば間奏曲のような時で、こころから必要としていた静まりの時・思い巡らしの時を持つ事ができた」と。著者にとってこの2年間は「計り知れないほどの価値」があったという。
  • 今日の霊性における問題点を一言で言うならば、それは主との親密な交わりの欠如である。いろいろな活動やプログラムがあっても親密さが喪失している。それゆえに<浅薄さ>が教会を覆っているという現実である。いつも主の家に住まうことを誓ったダビデ(詩篇27篇4節)、キリストを知ることを追い求めたパウロ(ピリピ3章8節、12~14節)。チャールズ・スゥィンドル師は、その上記の著書の中で、全能の主と深く親しい交わりを持つためには四つの決断が不可欠であること、そして、その一つ一つのために、それぞれ必要な訓練があるとしている。
  • その四つの決断と訓練とは以下のことである。

    ①生活を整理し直すという決断・・シンプルであること(Simplicity)の訓練
    ②静まるという決断・・沈黙すること(Silence)の訓練
    ③静謐(せいひつ)さを培うという決断・・ひとりになること(Solitude)の訓練
    ④主に信頼し尽くすという決断・・明け渡すこと(Surrender)の訓練

  • これらの四つのことを実践することは、私たちの住む社会、生活の場においては決して容易なことではない。むしろ今の時代に逆行することと言える。教会においても、これらの訓練を実行することはとても難しいという現実にある。キリストのいのちにあふれるために、何を捨て、何を求めるがという今日的課題に対するチャレンジとして、スウィンドル師の挙げたポイントを援用し参考にしながら、主との親しい交わりを実現するライフ・スタイルとして以下のことを提案したい。

(1)シンプル・ライフの勧め (注1)

  • シンプル・ライフとは何か。以下のように、いろいろな意味合いがある。
    ①質素で、贅沢をしない生活をすること
    ②無駄のない生活をすること
    ③一本しっかりとした筋の通った生活をおくること
    ④何が最も大切なのかを知って、そのことに集中して生きること
    ⑤満ち足りた心をもっていること
  • キリストから与えられた「いのち」と私たちのライフ・スタイルとは密接な関係をもっている。私たちの生活に多くの浪費がないかを点検し、金銭のみならず、時間、食事、衣服、住居、家具、旅行、余暇等・において、それはどこまで必要なものかを考えなければならない。パウロは愛弟子のテモテに「満ち足りる心を伴う敬虔(信仰)こそ、大きな利益を受ける道」(テモテ第一、6章6節)であると教えた。私たちは目で見るものをほしがる。それがなくても生きていけるものばかりに・・。知らず知らずのうちに私たちを蝕んでいる現代の物質文明の毒。その毒に犯されて、しなくても良い苦労をし、やらなくてもいいことをやり、心をわずらわせてはいないだろうか。「人はパンのみにて生くるにあらず」とは、「パンよりも大切なものがある」ということである。しかし実際、心が飢えてくると余計なモノをたくさん買ってしまうという傾向がある。
  • 倹約した生活、簡素なライフ・スタイルの目的は私たちが必要な時のために蓄えておくためのものではなく、むしろ「多く与える」ためである。しかもそれは自発的でなければならない。
  • 五つのパンと二匹の魚による給食の奇蹟(しるし)の真意は何か。乏しいものでも神に感謝して受け取る時に、神は私たちに<満ち足りる心>を与えてくださるということである。そしてイエスは言われた。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい(働く=追い求めること)。それこそ人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6章27節)と。
  • イエスは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」」(マタイ16章24~26節)とも言われた。全世界を手に入れても人は決して満足しない。今、私たちに必要なものはもっと多くのモノではなく、神とともに生きることを通して<満ち足りる心>をもって生きるシンプル・ライフである。イエスはマルタに「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだ」と言っている(ルカ10章42節)。(注2)
  • 自分の生活の中において、もう一度本当に必要なものが何かを確認してみる必要がある。食生活、金銭、時間、人間関係、関心・・・など。

(注1)
チャールズ・スウィンドル師は、全能者と親しい交わりを深めるために、生活を整理し直すことが不可欠だと述べている。その提案の中身の第一は、忙しさから解放され、生活の歩調をゆっくりとしたものにすることだとしている。競争社会の中でストレスは増大するため、その緊張感からの解放は必須となり、その解放のためにさらに多くのものを求めるようになる。そして、そのような生活の中で誘惑の餌食となると警告している。第二の提案は、ねたみをやめることであるとしている。ねたみは神のことよりも自分や他人のことに一番の関心がいってしまい、その行き着くところは行き止まりだから、としている。

(注2)
シンプルライフという点から考えるならば、ひとつのモデルとして修道院の聖務日課がある。初期における聖ベネディクト派の修道士たちの生活は、毎日3時間を信仰に関する読書、5時間の共同礼拝、そして6時間の労働によって修道院での生活を成り立たせている。このようにして、彼らはいつもキリストにとどまる生活をしようとしたのである。聖ベネディクトが定めた聖書日課のスケジュールは、季節によって多少変動はあるが、午前2時が起床時間であった。その流れにある北海道の函館にあるトラピスト修道院の生活では、修道女(士)たちは午前3時半起床である。



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