主が選ばれた場所での礼拝
【補完6】主が選ばれた場所での礼拝
【聖書箇所】申命記 12章1~14節
ベレーシート
- 11章で、主はモーセの口を通して「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。」と言われました(26節)。「祝福とのろい」の基準は以下の通りです。
【新改訳改訂第3版】申命記11章27~28節
27 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従うなら、祝福を、
28 もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。
- 「祝福とのろい」の基準となる主の命令(=神の民が守り行わなければならないおきてと定め)が、12章から具体的に語られていきます。その第一は、主を礼拝する場所(「マーコーム」מָקוֹם)の問題です。1~14節で繰り返されていることは、礼拝(祭り)は主が選ばれる場所で行わなければならないということです。
1. 異邦の民が礼拝した場所は必ず破壊すること
【新改訳改訂第3版】申命記12章2~3節
2 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。
3 彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。
- 神が賦与される地において、偶像はことごとく破壊しなければならないことが強調されています。ちなみに、12章の最後の部分でもこのことが以下のように強調されています。
【新改訳改訂第3版】申命記12章30節
よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」と言わないようにしなさい。
- この主の警告を無視するならば、神の祝福は保証されません。なぜなら、偶像は神とのかかわりを破壊するものだからです。それゆえ、のろいは避けられないのです。新約聖書の愛について書かれたヨハネの手紙第一があります。その手紙の最後の節に何と書かれているでしょうか。それはこうです。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(Ⅰヨハネ5:21)。
2. 主がご自分の住まいとして御名を置く場所を尋ね求めよ
- 主の永遠のご計画は、神と人とがともに住むことです。かつてはそのためにエデンの園が設けられていました。しかし人は罪を犯したことによって、そこを追放されてしまいました。神は人を再びエデンの園に置くために、そのご計画の実現のために、アブラハムを選び、イスラエルの民を選ばれました。彼らを通して神はそのみこころを少しずつ、歴史の中で漸次的に啓示されます。
- 神がアブラハムとその子孫であるイスラエルの民に約束されたカナンの地は、神のご計画の啓示の舞台です。イスラエルの民が約束の地で安息を得た後で、彼らがなすべきことは、神が選ばれた場所で、ひとつに集まって、礼拝をし、祝福してくださった主の御手のわざを喜び楽しむことです。
(1) 神を礼拝するために一つに集まる場所は、神が選ばれる
- 主への礼拝の場所を、「かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい」(12:13)と主は命じています。イスラエルのそれぞれの部族は、主の定めた場所で、また定められた時に、一つに集まることが大切です。
【新改訳改訂第3版】申命記12章5節
ただあなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。
- 主が「ご自分の住まいとして御名を置くための場所」とは、イスラエルの全部族のうちから主が主権をもって選ばれた場所です。その場所を「尋ねて、そこへ行かなければならない」とあります。ここで「尋ねて」と訳された言葉は「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)です。この動詞が意味することは、理性をもってよく考えることを意味しています。ということは、なぜ、主が「一つの場所」を選び、そこに民を集められるのかを良く考えよという意味です。
- 各自がそれぞれ自分勝手に礼拝の場所を定めるならば、一つに集まることの意味が失われます。他の箇所で、主の例祭が規定され、イスラエルの民が「一つ所に集まる」ことが命じられています。そのことが意味することを悟らなければなりません。主が選ばれる場所は、カナン侵入後、ギルガル、次にベテル、そしてシロというように、歴史の中で変遷していきます(※脚注)。ダビデの時代からは主が選ばれる地はエルサレム(シオン)になります。ところがソロモン王の死後、国は二つに分断され、北10部族はベテルを礼拝の場と人間的に決めてしまいます。しかし「終わりの日」には、つまりメシア王国においては、民は再びエルサレムに集まってきます。それは諸国の民が主のみおしえを、直接、メシアから聞くためです。
(2) 主の前で喜び楽しむ
- 主の民が主の前に集められるのは礼拝のためですが、その礼拝はある意味において「祭り」(例祭)なのです。主の祭りとは、食べたり飲んだりして、主の御手のわざを喜び楽しむことです。申命記12章7節にそのことが記されています。
【新改訳改訂第3版】申命記12章7節
その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、【主】の前で祝宴を張り、あなたの神、【主】が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。
●「祝宴を張る」と訳されたヘブル動詞は「食べる」ことを意味する「アーハル」(אָכַל)。
●「喜び楽しむ」と訳されたヘブル動詞は「喜び祝う」ことを意味する「サーマハ」(שָׂמַח)。
- 聖書は主のみおしえを聞くことを「食べる」とも表現します。主の民が主の前に一つ所に集まる目的は、主のことばをより深く、美味しいものとして味わうことを意味します。そしてそれだけでなく、そこに集まる者たちが最上のささげものを主にささげ、そのおこぼれにあずかります。手ぶらで集まる者はなく、それぞれが最上のものをささげあいます。ですから、その祭りの期間は、みことばの豊かさだけでなく、口から入る美味しい食べ物を思いのまま食べる時です。そのようにして、主の前で祝宴を張り、喜び楽しむのです。
- ルカの福音書において、イェシュアがさまざまな人たちと食卓を共にしている光景が描かれていますが、それらは終末論的な祝宴の型です。「喜び楽しむ」と訳されたヘブル語の「サーマハ」(שָׂמַח)も、メシア王国の祝宴の重要な鍵語であり、詩篇の中では終末論的祝宴を表わす喜びの語彙として使われています。
※脚注
●ヨシュアはカナンの地をほぼ占領した後、「契約の箱」をシロに安置しました(ヨシュア18:1)。シロは占領地のほぼ中央に位置します。一時、ベテルにも運ばれたことがありましたが(士師記20:27)、サムエルの時代までシロに安置されていました。サムエルの父エルカナは毎年礼拝のためにシロにある「主の宮」に上った(Ⅰサムエル1:3)と記されています。
2017.9.20
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