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主が敵のようになるとき

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3. 主が敵のようになるとき

【聖書箇所】 2章1節~22節

ベレーシート

  • 哀歌2章には、主の御怒りがいかに凄まじいかをいろいろな表現を用いながら描いています。主を敵に回すと一体どうなるのか、神の民も実際に知る必要があったのです。直接的にはバビロンがエルサレムを陥落したことになっていますが、間接的には主がバビロンを用いてご自身の民をさばき、そしてエルサレムの町を容赦なく滅ぼされました。このとき主なる神はまさに「敵のように」なられたのです。その原因は、神の民が預言者(特に、エレミヤ)の言うことばに耳を傾けなかったことによってもたらされたのですが、それを受け留めるにはやみの中を歩む多くの時間が必要でした。
  • エレミヤはユダの人々とエルサレムに対して次のように語っていたのです。

まことに主は、ユダの人々とエルサレムとに、こう仰せられる。
「耕地を開拓せよ。・・・主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため。わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。・・・わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる破滅をもたらすから。・・・あなたの町々は滅び、住む者もいなくなろう。」(エレミヤ書4:3~7)


1. 主の「破壊用語」

  • 哀歌の2章には、主の「破壊用語」が目立ちます。以下、四つの「破壊用語」を取り上げてみたいと思います。どれも同じような意味をもっていますが、異なることばを用いることでその徹底さを表わそうとしているのかもしれません。
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(1) 「バーラァ」  旧約43回。 哀歌では、2章2, 5, 5, 8, 16節の5回。強意形のピエル態で、「滅ぼす」「呑み尽くす」「呑みこむ」「破壊し尽くす」「根絶する」「打ち砕く」を意味します。

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(2) 「ハーラス」 旧約43回。 哀歌では、2章2, 17節の2回。基本形のパウル態で、「打ち倒す」「打ちこわす」「破壊する」「根絶する」を意味します。

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(3) 「シャーハト」 旧約146回。哀歌では、2章5, 6, 8節の3回。強意形のピエル態で「滅ぼす」「破壊する」という意味。創世記6章での洪水によるさばきの「滅ぼす」は「シャーハト」が使われています。この動詞は「堕落する」という意味もあります。「堕落する」ことと「滅びる」こととは直結しているのです。申命記4章では、偶像を拝んで「堕落する」とすれば、「その土地から、たちまちにして滅び失せ・・・すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。」(4:25~27)。その目的は「主を慕い求め、主に会い、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになる」ためです(4:29)。

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(4) 「カーラー」 旧約204回。哀歌は、2:11, 22/3:22/4:11, 17の5回。パアル態では「終わる」「尽きる」「つぶれる」「かすむ」曇る」「消え去る」。ピエル態では「滅ぼした」「絶ち滅ぼした」「絶滅する」という意味です。特に、3:22では「あわれみは決して尽きない」とあり、この「カーラー」が否定されて使われています。


2. 主のさばきの徹底さ

  • 預言者(エレミヤ)の主のさばきの警告をいい加減に聞いていたユダとエルサレムの住民に、未f曾有の破滅が襲いました。それは想像を絶するほどのものであったのです。哀歌はまさに主のさばきの徹底さを描いています。かつては「美の極み」といわれた町、「全地の喜び」と称されたエルサレムの町は完全に崩壊しました。それは容赦のないものでした。
  • 哀歌では主のさばきの徹底性を表わす表現として、「容赦なく」ということばが4回使われています(2:2, 17, 21/3:43)。これは「あわれに思う」という動詞「ハーマル」חָמַלにそれを強く否定する「ロー」לֹאがついています。聖書で最初にこの動詞が登場するのは、出エジプト記2章
  • ユダとエルサレムに対する主の怒りは「容赦せず」降り注ぎ、完全な滅びをもたらしたのです。その悲惨さは「女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を食べてよいでしょうか」(21節)とあるように、本来ならば決してあり得ないことが、エルサレムの町で起こってしまったことを示しています。これが主の「容赦しない、滅び」の悲惨な現実でした。

3. ところが・・・

  • 哀歌の2章では「容赦しない」滅びが強調されています。ところが、3章22節では、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」とあります。しかもそれは「朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。主こそ私の分です」と告白されているのです。
  • 一方では、「あわれに思う」(חָמַל)ということが否定されて「容赦なく」滅ぼされるかと思えば、もう一方では、あわれみが「尽きる」(כָּלָה)ことが否定されて、滅び失せることを免れているのです。一見、矛盾とも思えるこの論理を正しく理解しなければなりません。神はその義と恵み(愛)、真実と恵みの相克の中に存在しておられます。神の義と神の愛が出会う場所、神の真実と恵みが出会う場所こそ、やがて明らかにされるキリストの十字架の出来事です。イエス・キリストの十字架の死の中にその相克が啓示されているのです。そして私たちはその十字架の上で死なれたイエスによって、唯一の救われる道を見出すことができるのです。

2012.12.19


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