****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

不当な尋問を受けるイェシュア


115. 不当な尋問を受けるイェシュア

【聖書箇所】マタイの福音書26章57~68節

ベレーシート

●かつてイェシュアは、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められ」ました。まさに「多くの苦しみを受け」(受難)ということが今回の箇所から始まります。ゲツセマネで捕らえられたイェシュアは、ユダヤの最高法院において尋問されます。しかし死刑はすでに確定しており、その尋問はその死刑に見合う理由(口実、証拠)を見つけるためのものであり、全く不当なものでした。しかも夜中に行われたところに異常性があります。ところがこの異常性は預言されていたことであったのです。今日のテキストを読んで行きましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書26章57~68節
57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた。
58 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の中庭まで行った。そして中に入り、成り行きを見ようと下役たちと一緒に座った。
59 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。
60 多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、
61 こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」
62 そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。
「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」
63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」
64 イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
65 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。
66 どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。
67 それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、
68 「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。


1. 大祭司カヤパ邸での非公式の会合

●57節には「人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた」とあります。この非公式の会合は大祭司カヤパの私邸であったことが分かります。正規の会合ならば神殿の境内で開かれているはずでした。しかしなぜ夜中にイェシュアを逮捕し、早急に会合が開かれたのかと言えば、過越祭が始まる前にすべてを片付けてしまいたいと考えていたからです。ですから早急に会合を持つ必要があったのです。ヨハネの福音書では、捕らえたイェシュアを連れて行ったのはすでに引退していた大祭司アンナスのところでした。そのあとに大祭司カヤパの私邸に連れて行ったとあります(18:24)。おそらく当時の大祭司は職を退いても、その職名と権威が残っていたことを物語っています。アンナスはカヤパの義父です。このことを記しているのはヨハネだけです。イェシュアの一行が最後にエルサレムに来る過越の祭りの年に、イェシュアはペレア伝道をしていました。その時に、イェシュアは死んだラザロを生き返らせました。そのことを聞いた大祭司カヤパは議会を招集し、その日からイェシュアを殺すための計画が立てられたのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章45~53節
45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
46 しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。
47 祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。
「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。
48 あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」
49 しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」
51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
53 その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。

●イェシュアに対する殺害計画には上記のような経緯があったのです。ユダヤの指導者である大祭司カヤパや祭司長たち、そしてパリサイ人たちが恐れていたことは何でしょうか。それは「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」ということでした。つまり、イェシュアに扇動された民衆によって、神殿ユダヤ教のシステムが崩壊してしまうことを恐れたのです。それは真理が何かということよりも、自分たちの身の安全のことしか考えていなかった証拠です。そうした恐れから、大祭司のカヤパが一つの提案をしたのです。その提案とは、「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策」だということです。イェシュア一人が死ぬならば、すべてはうまく行き、自分たちは安泰であると考えたのです。

●大祭司カヤパの提案はこうです。「イェシュアが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」とあります。ここで「国民」と「散らされている神の子らを一つに集める」とは何を意味しているでしょうか。一義的には、ここは「イスラエルに対する預言」です。すでにイェシュアは最後のエルサレムに入られた時に、実の無いいちじくの木を枯らしています。「実の無いいちじくの木」とはユダヤの宗教指導者たちに対するさばきの予告です。また「いちじくの木」だけでなく、「山に向かって、『動いて海に入れ』」ということが起こることも預言されました。「山」とは「エルサレム」のことで、「海」とは「異邦の諸国」を意味します。つまり、エルサレムが異邦の国(ローマ)によって崩壊し、ユダヤ人たちは異邦の諸国に離散するという預言です。この預言はA.D.70年に実現することになります。それからイスラエルの民の運命はどうなるのかといえば、イェシュアによって世の終わりに救われ、世界の四隅から一つに集められるという解釈です。他の解釈としては、「散らされている神の子らを一つに集める」とは「教会」のことを指しているというものですが、教会は「(迫害によって異邦に)散らされることはあっても、一つに集める」ということは預言されていません。したがって、ここが「教会」を表すという解釈は疑問です。いずれにしても、大祭司カヤパの提案が神のご計画のために神によって実現されてしまうということを言っています。

2. 偽証を得ようとする

【新改訳2017】マタイの福音書26章59~61節
59さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。
60 多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、
61 こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」

●「最高法院」(七十人からなる議会=サンヘドリン)としては、すでに最初からイェシュアの死刑が決まっていたのです。イェシュアの逮捕後からの審問はすべて茶番劇でした。十字架にかかるまで何と半日(12時間)しか経っていません。彼らが最初にしたことは、「イェシュアに不利な偽証を得ようとした」ことです。「得ようとした」は「捜し求めていた」とも訳され、「ゼーテオー」(ζητέω)の未完了形です。それはずっと継続的に偽証を探し求めていたことを意味します。ところが、その偽証する者たちの証言が一致しなかったのです。

●「偽証する」ことは十戒の中で明確に禁じられています。出エジプト記 20章16節には「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と明記されています。この罪を平気で犯そうとするのですから尋常ではありません。彼らにとって、律法は神の聖なる教えではなく、自分たちを守り、人を裁くための道具と化していたのです(例:ヨハネ8章の「姦淫の女」)。イェシュアの律法の解釈は聖なるものを秘めていました。律法学者たちの解釈よりもより深いものでした。山上の説教を読むと分かるように、「昔の人々に、『・・・・』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と言って語った戒めの真の解釈はより厳しいものでした。「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽ってはならない」・・・。

●にもかかわらず、偽り (שֶׁקֶד)、偽証、嘘の証言によってイェシュアを訴えようとしたのです。一つや二つではありません。「多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった」のです。ユダヤ当局は神をも畏れぬ恐ろしいことをやろうとしたのです。「偽り」の背後には必ずサタンがいます。なぜなら、サタンは「偽りの神」(ヨハネ8:44)だからです。これはサタンが宗教の中に住み込み、その中で働くことを如実に示しています。この世の宗教とそのシステムはサタンの支配の領域です。そのことをパウロは「ストイケイア」(στοιχεῖα)と言っています。すなわち、それは「もろもろの霊、幼稚な教え、世を支配する諸霊」であり、「空しいだましごとの哲学、人の言い伝えによるもの」です。その本質は偶像礼拝です。すなわち、自分のための神なのです。初代教会の最初の殉教者となったステパノは「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはない」(使徒7:53)と言い放ったことばは真実だったのです。

●61節の告発は真実でした。しかしそれは神殿ユダヤ教に対する批判です。すでにこの神殿は真の神殿ではありませんでした。サドカイ人たちは神殿によって膨大な利益を得る体制を築いていましたし、パリサイ人や律法学者たちは「姦淫の女」を捕らえて、宮の中にいるイェシュアのところに連れて来て、その女を律法で裁こうとしていました。神のトーラーが人を裁くものとなっていたのです。しかもそこは神殿の境内でした。これこそが「善と悪の知識の木」を食べた者たちの姿です。その反対に、「いのちの木」そのものであるイェシュアは彼らの問いに関して何と答えられたでしょうか。「あなたがたのうち、罪のない者が最初に石を投げなさい。」というものでした。律法は神の完全さをあかしするものです。しかし人々はそれを用いて人をさばく道具にしていたのです。神殿と律法、これらはユダヤ教指導者が大切にしていたものです。ところが、彼らはそれらを宗教としてしまっていたのです。ですから、イェシュアは『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言ったのです。この神殿と律法について、初代教会の執事であったステパノは、イェシュアのことばを理解してそのことを発言したために殉教しました。

3. イェシュアの沈黙

【新改訳2017】マタイの福音書26章62~63節
62 そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」
63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。

●数々の偽りの証言の中でイェシュアは沈黙し続けました。このことも預言されていたことです。

【新改訳2017】イザヤ書53章7節
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。
屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない

●「口を開かない」ということは、一切の自己弁護をしないということです。イェシュアが沈黙することで、イェシュアを取り巻く人々との違いがより明確にされます。あぶり出されるのです。

4. 神への冒涜罪

●イェシュアの沈黙にしびれを切らしたカヤパはこう言います。

【新改訳2017】マタイの福音書26章63後半~65節
63後半「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」
64 イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
65 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。
66 どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。

●「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と言ったことに対して、イェシュアははじめて口を開き、大祭司カヤパに「あなたが言ったとおり」と答えました。それと同時に、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と付け加えました。大祭司カヤパが「おまえは神の子なのか」と聞いたのに対して、イェシュアは「人の子」と言っています。逮捕される直前にも、「時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。」 (マタイ26:46)と言っています。イェシュアが公生涯に入る前に、悪魔はイェシュアに対して「あなたが神の子なら」と誘惑してきました。同様に、大祭司も「あなたは神の子なのか」と聞いています。大祭司カヤパは悪魔の「型」です。悪魔が最も恐れていることは、イェシュアが「人の子」として神のみこころを完全に全うすることなのです。イェシュアが「最後のアダム」として、「最初のアダム」の失敗を踏み直すことを極度に恐れているのです。しかも、イェシュアが「今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き」とは、イェシュア自身が死んだ後に、復活・昇天して、神の右の座に着くことを意味し、人間の贖いがなされることを意味しています。そしてその後に地をさばくために、「天の雲とともに来ることを見る」とは、イェシュアが神の全権を与えられた者として地を支配する王と来ることを意味しているのです。すなわち、イェシュアの再臨は彼が神の子であることをあかしすることなのです。このことが大祭司カヤパをして恐れさせました。これは「神殿を三日のうちによみがえらせる」という言葉以上に、神を冒涜することばと思わせたに違いありません。

●イェシュアの発言がいかに大祭司カヤパにとって衝撃的であったか、そのことを示す行為が「自分の衣を引き裂く」行為に表されています。それは強い憤りや怒りを表す行為であり、もしくは嘆きや悲しみを表わす行為です。ここでは前者の意味です。周りで聞いていた者たちも、「彼は死に値する」と答えています。

●以前にも、イェシュアが神を冒涜しているということで、ユダヤ人から石打ちにされようとしたことがありました。しかしそれはまだ時が来ていなかったので、イェシュアは彼らの手から逃れることができたのです。そのきっかけとなったのは、イェシュアが「わたしと父とは一つである」と言った後です。ちなみに、その時の様子を見てみましょう。

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章31~39節
31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。
32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」
34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。
35 神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、
36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。
37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。
38 しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」
39 そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。

●詩篇82篇6節に、「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。』」とあります。これは神が天の会議において、権威を与えた者たちを召集して、彼らに正しく裁くべきことを示唆している設定となっています(1節)。つまり、「地の基」である神の律法が地の支配者たちによって「ことごとく揺らいでいる」ために、社会的弱者たちがないがしろにされてしまっていることで天の会議が開かれているのです。そして6節で、彼らのことを「神々」(אֱלֹהִים)と呼んでいるのです。イェシュアはこの部分を引用して「わたしはと父とは一つです」と語っていたのです(ヨハネ10:34~36)。ところが、ユダヤの指導者たちはそれにふさわしい者となってはいませんでした。神のみこころを知らずに神を冒涜しているのはあなたがたの方である、という痛烈なイェシュアの皮肉が語られています。

5. 嘲笑されるイェシュア

【新改訳2017】マタイの福音書26章67~68節
67 それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、
68 「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。

●67節の「それから」とはイェシュアに対する「冒涜罪」が下された後という意味です。「顔に唾をかけ」「拳で殴り」「平手で打つ」という侮辱的・屈辱的な取り扱いがなされました。ここでの「彼ら」とはサンへドリンの者たちではなく、イェシュアを逮捕して連れて来た者たちだと思われます。彼らが「拳で殴り」「平手で打つ」とは、イェシュアが目隠しをされていたと考えられます。

【新改訳2017】イザヤ書50章5~7節
5 【神】である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
6 打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。
7 しかし、【神】である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。

●イザヤ書50章には「第三のしもべ」の歌が記されています。そのしもべの特徴は、5節に「【神】である主は私の耳を開いてくださった」とあるように「耳が開かれた従順なしもべ」です。ここでの「耳を開いてくださった」という語彙は「パータハ」(פָּתַח)で、文字どおりに「開く」ことを意味するだけでなく、「なぞを解き明かす」、「神のみこころ悟る」という意味があります。「耳を開く」とは、神のみこころを知りそれに喜んで(躊躇することなく)従う心が与えられることを言います。イェシュアのゲツセマネの祈りはそのためでした。イェシュアが恥辱と侮辱の限りを受けるままにされることで、サタンの支配する闇の力がより鮮明に現わされるのです。

①「私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(5~6節)
●神のしもべは、大胆に神のことばを伝えることで苦難と恥辱を受けることが定められています。しかし主のしもべがそれらに躊躇することなく従って行く姿が預言されています。このような仕打ちはいかなる人間といえども甘受することは出来ません。メシアだからこそ、この恥辱的な苦難を受けることができるのです。

②「【神】である主は私を助ける。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。」(7節)
●「私は侮辱されることがない」とあります。侮辱されるのに侮辱されることがないとはどういうことでしょう。それは主の助けがあるので、その中にあっても耐えられることを意味します。また「火打石」は最も堅い石ですが、それはどんなことがあってもひるまない確固さを意味します。こうして神のしもべイェシュアは、「最初のアダム」の失敗を踏み直すことができ、終結させることができるのです。

ベアハリート

●イェシュアが復活された後に、失望しているエマオへの途上にある二人の弟子たちに、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、栄光に入るはずだったのではありませんか。」と言って、それからイェシュアは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた、とあります(ルカ24:25~27)。残念ながらその語られた内容は記されていません。それは、私たちが聖霊に導かれながら、聖書全体(=旧約聖書)をつまびらかに調べて知る必要があることを示唆しているように思います。

●イザヤ書50章を取り上げましたが、その9節に、「見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。」とあります。これは神への従順による勝利を宣言していることばです。イェシュアは大祭司カヤパ邸での不当な裁判(審問)によって冒涜罪に定められます。しかし神の勝利を予め知っていたイェシュアは、自分について一切の自己弁明をしようとはせず、神にゆだねられたのです。イェシュアの上に起こるすべてのことが、神のご計画通りに進んで行くことを聖書は告げています。神のご計画を知り、その中に生かされることが、イェシュアをメシアと信じる私たちにとって力の源泉となることを信じたいと思います。

2021.10.17
a:1464 t:1 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional