****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

七週の祭りとその預言的な意味

5. 七週の祭りとその預言的な意味

ハグ・シャーヴオーット

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ベレーシート

  • 主の例祭には、神の不変のご計画(マスタープラン)が啓示されています。 週ごとの「安息日」、そして毎年行う聖なる祭り(例祭)として、これまで「過越の祭り」(「ペサハ」פֶּסַח)、「種の入らない祭り」(「ハグ・ハンマッツォート」חַג הַמַצּוֹת)を取り上げましたが、今回は「七週の祭り」を取り上げます。この祭りは、「初穂の祭り」「刈り入れの祭り」「五旬節の日」「初穂の日」、また新約では「ペンテコステ」とも言われます。ユダヤの三大祭の一つであり、壮年の男子は神殿に巡礼することが律法によって義務づけられました。毎年、5~6月頃にやって来る春の主の例祭です。まずは聖書のテキストを読んでみましょう(説明文の青色も加えて)。

【新改訳改訂第3版】レビ記23章15~21節
15 あなたがたは、安息日(過越祭の後に来る安息日)の翌日から、すなわち奉献物の束(大麦の初穂の束)を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。
16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物(小麦の初穂によるパン)を【主】にささげなければならない。
17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。
18 そのパンといっしょに、【主】への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。

21 その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。

  • ユダヤ教では「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」が三大祭ですが、キリスト教の三大祭は「クリスマス(聖誕祭)」「イースター(復活祭)」「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」です。「ペンテコステ」は「クリスマス」や「イースター」に比べるとなぜか最も祭(まつり)性を感じない祝祭日です。「ペンテコステ」は約束の聖霊が注がれて教会が誕生した日にもかかわらず、他の二つの祝祭のように特別に祝われるということはありません。なぜなのでしょう。不思議です。
  • もうひとつ不思議なことがあります。それは、ユダヤ教では「クリスマス」も「イースター」も共に祝うことはありませんが、「五旬節」の日だけは、キリスト教と同じ日に祝うのです。祝っている内容は異なっているのですが、いつの時代であっても祝う日(曜日)が同じなのです。しかも一日限りの祭りです。いったい「七週の祭り」とは何なのでしょう。そもそも「七週の祭り」に秘められた預言的意味があるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。

1. 七週の祭りにささげられた「パン種を入れて焼かれた二つのパン」

  • 「七週の祭り」において重要なことは、小麦の初穂で焼いたパン、しかも「パン種を入れて焼いたもの」を二個、神へのささげものとして祭司のところに持ってくることが定められていました。ちなみに、過越の祭りの時にも「大麦の初穂の束」を持ってくること、さらには、一週間の祭りの間は「種を入れないパン」を食べることが定められていました。「主の祭り」には神のご計画における預言的な啓示が隠されているという前提のもとに、今回の礼拝説教シリーズとして、その一つひとつを取り上げています。
  • これまでの復習です。「過越の祭り」は贖いのために血を流された小羊イェシュアの生涯が罪のないもの(傷なき完全な生涯)であることを預言していました。イェシュアは「過越の祭り」の朝に十字架につけられました。次の日は「安息日」で、その翌日の朝、イェシュアは死から復活されました。安息日の次の日から「種の入らないパンの祭り」が始まりますが、その祭りは「大麦による初穂の祭り」とも言われます。「初穂」とはそのあとに多くの収穫があることを予表する意味のことばです。イェシュアは「よみがえりの初穂」として主を信じるものがやがて死から復活されて、朽ちないからだになるという初穂なのです。また、「種の入らないパンの祭り」は、主が完全な傷のない犠牲を表わすと同時に、主の民とされた者たちが、七日間、罪の象徴としての「パン種」の入らないパン(マッツォ)を食しながら、聖会を持つことによって、へりくだられた主の歩みを覚えながら、主の民としてふさわしく生きることを予表する預言的な祭りでした。

(1) 七週の数え方

過越からペンテコステの数え方.JPG
  • ところで、安息日が終わった次の日から「種の入らないパンの祭り」が始まりますが、その時から祭司たちは、レビ記23章15節にあるように、「あなたがたは、安息日(過越祭の後に来る安息日)の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える」ことをしなければなりませんでした。どのように数えたのかといえば、右にある2015年のカレンダーを見ながら、説明をしたいと思います。旧約聖書にある「安息日」とは週の第七日目に当たる土曜日です。その「安息日の翌日から、満七週が終わるまでを数える」ということですから、今年のカレンダーの「安息日の翌日」とは、4月5日(日)に当たります。それから数えて、「満七週が終わる日(7×7=49)」とは、5月23日(土)になります。しかし、レビ記23章16節には、「七回目の安息日の翌日まで五十日を数え」とありますので、その「五十日目」は5月24日(日)ということになります。「七、一週間」のことをヘブル語で「シャーヴーア」(שָׁבוּעַ)と言い、その複数形の「シャーヴオーット」(שָׁבֻעוֹת)で「七週間」を意味するのです。

(2) 二つのパン

  • さて、「七週の祭り」で重要なことは「パン種の入ったパン(大麦ではなく、小麦で造られたパン)」を主を礼拝する者たちがそれぞれ「二個」を祭司のもとに持って来なければならないことでした。「二個」です。「一個」ではだめなのです。「二個」。このことが何を意味しているのか、長い間、隠されたままでした。しかし、約束の聖霊が注がれたことによってこの例祭の奥義が明らかにされたのです。ところが、ある人々にとっては依然として隠されたままです。私も長い間、使徒の働きの2章にある「五旬節の日」が意味することについて無知でした。また無関心でした。単に、聖霊が注がれて教会が誕生した日ぐらいとしか理解していなかったのです。しかし聖書をユダヤ的・ヘブル的視点から読むならば、この「七週の祭り」(五旬節の日)にはきわめて重要な預言が啓示されていたことが分かるのです。その意味ではユダヤ的ルーツを切ってしまった「置換神学」の弊害は大きいと言わなければなりません。
  • 「小麦の初穂で焼かれた、しかも、種の入ったパンを二つ、祭司の所に持ってきて神にささげる」というところに、「七週の祭り」(五旬節)における重要な意味があります。「二つのパン」とは、「ユダヤ人と異邦人」のことです。「パン種の入った焼かれたパン」とは、「パン種」が罪を意味しますから、罪のあるままのユダヤ人と異邦人を意味したものと言えます。このことが決してこじつけでないことは聖書的に検証できるのです。「覆いがかけられる」というのは、見えていても見えないという状態を意味します。しかし今や、私たちはひとりひとりキリストから受けた「注ぎの油」がとどまっているので、みことばが本来語ろうとしていたものを検証することができるのです(Ⅰヨハネ2:27)。神の救いのご計画においては新しい時代ーつまり「聖霊の時代」が到来しています。「七週の祭り」にささげられる「パン種の入った焼かれた二つのパン」は大祭司キリストをかしらとする「教会」のことです。「パン種」が入っていますから、この地上において一致することは容易ではありません。今日、キリスト教会が犯してきた根強い反ユダヤ主義、ユダヤ人迫害の事実は今日多くの資料を通して知ることができます。
  • 「ユダヤ人と異邦人」は、人と人、国と国、民族と民族の分裂の根(ルーツ)です。これらの溝を人間の知恵や努力で埋めることは実は不可能なのです。やがて、この地上の歴史においてこの問題を解決する唯一の人物が登場します。それは反キリストです。反キリストはサタンの子的存在です。彼によってこの世界のあらゆる問題が解決する日が来るのですが、それは一時的なまやかしであり、多くの者たちがだまされます。そしてことが3年半後に明らかにされます。人と人、国と国、民族と民族に横たわるすべての分裂の溝に橋をかけることができるのは、再臨されるメシア以外におりません。その方が来られる前に再び聖霊が注がれます。すでにイェシュアの復活から50日目に起こった聖霊降臨という出来事はこの問題を解決する初穂としての恵みですが、先にも言ったように、「初穂」とは実現されることの保証です。「初穂」ということばの中に、御国の福音の「すでに」という面と「しかしいまだ」という面が示唆されています。Already, but not yet です。
  • すでに聖霊はこの地に来られています。私たちはその方によって神を知り、救い主を知り、神に導かれて、霊的な祝福を受けています。しかしそれは「初穂」でしかありません。その規模はやがて訪れることになる本格的な祝福に比べるならば、からし種程度にしかすぎません。もし、このことを正しく理解するならば、私たちのこれまでの教会観(教会に対する見方、考え方)は一新されるはずです。そしてメシアの再臨への待望はより増し加わるはずです。

2. 「二つのパン」を代表する二人の使徒(ペテロ&パウロ)

  • ユダヤ人たちは長い間「七週の祭り」を行ないながらも、その真の意味は隠されてきました。しかも驚くべきことに、この日にユダヤ人たちの会堂(シナゴーグ)では「ルツ記」が読まれているにもかかわらずです。「ルツ記」はユダヤ人の有力者ボアズが異邦人の女ルツを花嫁としてめとる物語です。ユダヤ人と異邦人が結婚することによって神のご計画が進められていくのです。このボアズとルツの結婚を「キリストと異邦人の教会のひな型」として考え、七週の祭り(ペンテコステ)の日に聖霊が注がれて異邦人の教会が誕生し、キリストの花嫁となったと考えるのは「置換神学」による誤った解釈です。ここは文字通り、ユダヤ人と異邦人の結婚が啓示されているのです。神のご計画によれば、今やメシアなるイェシュアと聖霊によって、この祭りの奥義が啓示されたのです。しかしながら、この「奥義」を聖霊に満たされた弟子たちがみなすぐに悟り得たかといえば、決してそうではありませんでした。この祭りの預言的啓示が「奥義」として正しく示されたのは使徒ペテロとパウロでした。この二人はいずれもユダヤ人ですが、「二つのパン」を代表しているのです。そのためにこの二人にはそれぞれ特別な神の導きが必要でした。
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  • 「七週の祭り」の中に啓示されていた「二つのパン」がユダヤ人と異邦人を含むものであることを教え示そうとしたのが、パウロの弟子のひとりルカの書いた「使徒の働き」です。教会の最初のメンバーはユダヤ人だけでした。しかし次第に、もうひとつのパンである異邦人がどのように教会の中に受け入れられていったかが「使徒の働き」の中に記録されています。二つのパンを代表する使徒はペテロとパウロです。ペテロはユダヤ人のために遣わされた使徒でした。パウロは異邦人に遣わされた使徒でした。
  • 「使徒の働き」15章には、通称「エルサレム会議」と呼ばれている会議が記されています。その会議は、ユダヤ人と異邦人との間にある軋轢をどのようにすれば解決することができるかを話し合った教会の最初の重要な会議でした。二人とも使徒として同じ権威を与えられ、同じ聖霊の油注ぎを受けていましたが、ユダヤ人に遣わされたペテロの働きは異邦人に対する宣教で終わっています。反対にパウロは自分の思いとは裏腹にユダヤ人たちから拒絶され、16章以降で異邦人に遣わされていきます。そして最後は、ローマでユダヤ人に対するメッセージで終わっているのです。まさに「パン種の入った二つのパン」の意味するところを、ルカは二人の使徒によって見事に代表させています。この対照と調和はきわめて重要な点です。

3. 五旬節(七週の祭り)と聖霊降臨の秘密

  • 「五旬節」に約束された聖霊が注がれたことは、神の救いのご計画における驚くべき戦略です。イェシュアは昇天前にこのことを明確に教えませんでした。あたかも、なぜ「五旬節」に聖霊が注がれたのか、後で弟子たちがよく悟るようにと課題を与えたかのようです。イェシュアは弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われました。弟子たちは言われたとおりに、エルサレムで、自分たちの泊まっている屋上の間に上がって、みな心を合わせて祈りに専念していたとあります。
  • ここでイェシュアが「待ちなさい」と命じた「待つ」という言葉は、実は、この箇所にしか使われていません。ここでの「待つ」は「ペリメノー」(περιμένω)というギリシア語です。「メノー」(μένω)は「とどまる」という意味で、ヨハネの福音書ではきわめて重要なキーワードです。それに接頭語としての「ペリ」(περι)がついています。「~を越えて」「必要以上に」という意味で強意を示しています。つまり、ここでの「ペリメノー」(περιμένω)は、これまでにはない特別な意味において「待つ」ことを意味しています。それは神のご計画の新しい段階を迎えるための、上からの力が賦与される特別な意味における主の命令としての「待ちなさい」だからです。完全に神の主権によってもたらされる出来事、人間の都合とはいっさいかかわりのない神のカイロス(特別な時)としての出来事を「待つ」ことでした。
  • 聖書の中には、旧約においても、新約においても、不思議と一回しか使われていない語彙があります。その一回限りにもかわらず、とても重要、かつ深淵な意味が隠されていることが多々あるのです。私が本格的に原語を調べながら聖書を読むようになってから、しばしばそのような語彙と出会うことがあります。そしてそのような語彙に、ある種の「怖れ」を感じさせられます。
  • さて、特別な神の主権による約束の聖霊を待つために、弟子たちがどのような祈りをしていたのでしょうか。おそらく「こうしてください」とか、「ああしてください」といった類の祈りではなかったと思います。そこから弟子たちは地の果てにまでキリストの証人となることがイェシュアの口から聞かされていたからです。何かこれまで経験したことのない出来事が始まっていく予感の中での緊張感のこもった待機であったと言えます。そうした待機の中で弟子たちが祈っていた祈りは、冠詞付の祈りです。つまり、「主の祈り」です。おそらくその祈りが意味することを深く瞑想していたと思われます。
  • 私たちが「御国の福音」についてその意味するところを瞑想しているようなものです。単に、「主の祈り」を呪文のように繰り返していたのではないと思います。イェシュアが復活して後、昇天され、元いたところに帰られる前に、なぜ40日間という時を必要としたのでしょうか。それは一言でいうならば、弟子たちが人格においても、新しい働きをしていくことにおいても、より十分に整えるためでした。しかし最後の仕上げとして、どうしも「神の国についての教え」を繰り返し、繰り返し、話して聞かせる必要があるほどにそのことが重要だったのです。私たちも同様です。メシアの再臨と終末について思いめぐらすためには「繰り返し」が必要です。そのようにして、神のヴィジョンとこれからなそうとしている神のご計画に思いを寄せなければなりません。私たちのヴィジョンを実現するための神ではなく、神のヴィジョンを知り、それに私たちが共有することこそ、聖書の意味する「愛」だからです。そのためには、「聖霊のバプテスマ」が必要だったのです。でなければ、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」と詩篇127篇にあるように、本当に「むなしい働き」となってしまうからです。
  • 「五旬節」に神にささげられる「二つのパン」が「ユダヤ人と異邦人」を象徴していることはすでに触れましたが、このことは、旧約において必ずしも預言者たちが明確に強調して語っていたことではありませんでした。むしろ、これは長い間隠されていたことで、使徒パウロに「奥義」として示された真理です。パウロは述べています。「福音により、イエス・キリストにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」でした(エペソ3:6)。「一つのからだ」とは教会のことです。使徒パウロはこの両者のかかわりをエペソ人への手紙2章の後半(11節以降)で詳しく論じています。それによれば、異邦人である「あなたがたは、以前は、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たち」でした。そんな異邦人も、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。・・私たち(ユダヤ人)は、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです・・・。」
  • 「置換神学」においては「ユダヤ人と異邦人」というかかわりについて教えません。それは長い間、キリスト教の歴史の中で捨てられてきた事柄だったからです。しかし真の教会は、「ユダヤ人と異邦人」が御霊において、父のみもとに近づくことによって完成するのです。したがって、神の救いのご計画には「イスラルの回復(復興)」というキーワードがどうしても必要になってくるのです。しかも、その「イスラエルの回復」についての旧約にある預言には、「新しい霊」である「聖霊の注ぎ」が付随しているのです。
  • イェシュアが復活されてからの40日間、イェシュアはただ単に自分が生きていることだけでなく、神の国のことを再度繰り返して語っています。その神の国について語る時に、おそらくイェシュアはモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあること(旧約聖書)はすべて成就するということを、繰り返して語ったと考えられます。父が約束してくださったものとは聖霊のことであり、旧約では「新しい霊」とも言われています。たとえば、エゼキエル書11章19節に「わたしは彼らに一つの心を与える。わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」とあります。しかしこの「新しい霊」が与えられる時には、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える」(同、11:17)ということも同時に預言されているのです。つまり「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」はワンセットなのです。
  • また、「霊」の原語は「ルーアッハ」(רוּחַ)」で「息」とも訳されます。それは聖霊の象徴です。エゼキエル書37章には「枯れた骨(干からびた骨)の幻」がありますが、四方から「息」が吹いてくると、その枯れた骨は生き返るのです。これはイスラエル全家の回復を預言しています。なぜなら、主が「これらの骨はイスラエルの全家である」と述べているからです(エゼ37:11)。そして「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。・・・このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」(37:14)と述べています。弟子たちはこのかかわりを確かめるために、イェシュアに熱心に尋ねていることを知らなければなりません。決して誤解しているわけではないのです。
  • つまり、神のご計画はこれまで啓示されてきた路線とは異なっているのです。旧約の預言者たちが語って来たことは先延ばしとなり、それまでとは異なる新しい路線になっているのです。旧約の預言者たちにも知らされていなかった事柄がはじめてここで示されているのです。ですから使徒の働き1章8節の冒頭には、「しかし」という強い意味の接続詞(「アッラ」άλλά )が使われています。これは神の啓示の新しい路線を意味しています。イスラエルの回復と新しい霊が与えられる約束は先延ばしとなっただけであり、それは時が来たならば必ず実現するのです。
  • ところで、約束された聖霊のバプテスマは何のために与えられるのでしょうか。それは「わたしの証人(あるいは「証言者」)」、つまり「イエス・キリストの証人」となるためだとイェシュアは言われました。5節の「聖霊のバプテスマを受ける」ということを、8節では「力を受けます(受け取ります)」と言い換えられています。この力の賦与の目的は「証人」(「マルトゥス」μάρτυς)となることです。「マルトゥス」は殉教者という意味があります。命を賭けるほどに証言する力の賦与、それが「聖霊のバプテスマ」の意味であり、弟子たちに与えられた新しい使命です。その使命とは、単にイェシュアがよみがえられていつも私たちと一緒にいてくださるというだけのことではなく、イェシュアが聖書を通して説き明かしたように、神の永遠のご計画(マスタープラン)-「御国の福音」が近づいていることの証人となることです。
  • この証人のことを、預言者イザヤは「エルサレムの城壁の見張り人」と呼んでいます。「見張り人」とはどのような者たちでしょうか。それを一言で言うならば、「見張り人とは、神のご計画のヴィジョンを悟り、それを神と共有することであり、そのことを絶えず語り続ける者たち」のことです。

べアハリート

  • 「エルサレム」という場所は、神のご計画におけるきわめて重要な場所です。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イェシュアは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられ・・・」(ルカ9:51)とあるように、イェシュアのこの地上での旅路の終わりはエルサレムでした。そしてイェシュアはエルサレムから天に帰られ、再び、そこへ戻って来られます。それまでの期間こそ「教会時代」です。イェシュアが昇天される前に、弟子たちと一緒に食事をしているとき「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われました。神のご計画において「エルサレム」はきわめて特別な場所です。なぜなら、そこから聖霊による神の新しいみわざが始まるからでした。
  • そのはじまりは突然のように見えますが、神のご計画においては「七週の祭り」の時というきわめて必然的な時だったのです。「七週の祭り」(五旬節)には、あらゆる諸国に離散している多くの敬虔なユダヤ人たちがエルサレムに集まって来ていました。そしてイェシュアの弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた(聖霊に満たされた)とき、彼らは「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだし」ました。その話の内容は「神の大きなみわざ」のことでしたが、祭りのためにエルサレムを訪れた人々は、それぞれ自分たちの国の言葉でそれを聞いたのでした。彼らは互いにあっけにとられ、驚いたのは言うまでもありませんでした。
  • この出来事はきわめて象徴的です。それはやがてあらゆる国の人々が神の福音(神の大きなみわざ)を聞くことになるからです。弟子たちが「御霊が話させてくださるとおりに語った」ことは、やがてあらゆる国々の人々、すなわち、「七週の祭り」にささげられる「二つのパン」に象徴される「ユダヤ人と異邦人」が、「御国の福音」を聞くことになるという預言的出来事だったと言えないでしょうか。

2015.2.1


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