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ヨブの最後の弁論(4)「潔白さの誓い」

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23. ヨブの最後の弁論(4) 「潔白さの誓い」

【聖書箇所】31章1節~40節

ベレーシート

  • 31章の最後の40節に「ヨブのことばは終わった」とあるように、ヨブの主張は言い尽くされたのです。三人の友人たちもヨブに反論することをやめました。なぜなら、ヨブの主張はなんら変わることがなかったからです(32:1)。ヨブの言い尽くされた主張を見てみたいと思います。

1. 自分の目と契約を結んだヨブ

  • 自分の目と契約を結ぶ」とは珍しい表現です。「目」(「アイン」עַיִן)について、イェシュアが山上の説教の中で語っていることばがあります。

    【新改訳改訂第3版】
    ①マタイの福音書5章27~29節
    27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

    イェシュアは姦淫の罪は目から入って来ることを語っています。目と心の思いは密接な関係にあります。


    ②マタイの福音書6章22~29節
    22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。・・

    「目」は単なる体の一部の器官ではなく、全身を支配する器官であることを述べています。目が健全であることは全身、すなわちその人自身が健全であることを意味します。

  • ヨブが「私は自分の目と契約を結んだ」とは、目が罪を犯すことがないように誓ったという意味です。それゆえ「どうしておとめに目を留めよう」と言っています。ここでの「目を留める」とは、「ビーン」の強意形ヒットパエル態で「色目を使う」という意味です。こんなことはしない。もしそのようなことをしたとすれば神からの分け前はどんなことになるか。「不正をする者にはわざわいが、不法を行なう者には災難が来る」のは当然のことだと語っています。「目の罪」に勝利することが、5節以降で語られるヨブ自身の潔白さの序文(1~4節)となっているのです。
  • 5節以降の行ないを見るまでもなく、この最初の「自分の目と契約を結んでいる」義人はどれほどいることでしょう。「義人はいない。ひとりもいない」と聖書が宣言しているとおりでしょう。それほどにヨブの義は飛び抜けているのです。

2. 自分の潔白さを主張するヨブ

  • 原文には、「もし」(英語ではif)という副詞「イム」という語彙が頭にあります。それを辿って行くと罪状の項目がすぐにわかります。新改訳の場合は「もし」と訳されている場合もあれば、「あるいは」とか「いったい」とも訳されています。
画像の説明
  • 「イム」(אִם)は、旧約聖書では1070回も使われていますが、使用頻度の最も多いのがヨブ記で109回です。そのヨブ記の中でも31章が最も多く17回(5, 7, 9, 13, 16, 19, 20, 21, 24, 25, 26, 29, 31, 33, 35, 38, 39)です。ちなみに、9章では10回(新改訳は「たとい」「もし」という訳語を当てています)。
  • 31章で取り上げられている罪状は以下の12項目です。

    ①5~6節  虚偽の罪
    ②7~8節  隣人のものを欲しがる罪
    ③9~12節 姦淫の罪
    ④13~15節 奴隷を軽視し、その権利を無視する罪
    ⑤16~20節 貧しい者に同情しない罪
    ⑥21~23節  助けを求めるみなしごややもめを援助しない罪
    ⑦24~25節  富に拠り頼む罪
    ⑧26~28節  迷信の罪
    ⑨29~30節  敵を憎む罪
    ⑩31~32節  客人に対す非情の罪
    ⑪33~34節  罪を隠ぺいする罪
    ⑫38~39節  土地を休ませない強奪の罪

  • ヨブの潔白の誓いは、まさに、山上の説教の倫理的水準の高さほどです。聖書に登場する人物において、これほどの倫理的水準にある人物は他にいるでしょうか。

3. 私を確認してくださる方

  • 31章で最後に確認しておかなければならない箇所は、35節です。この箇所はヨブが神に訴えているような、いないような訳になっています。翻訳は以下に見られるように実にさまざまです。つまり、翻訳の難しい箇所だということです。

    【新改訳改訂第3版】
    だれか私に聞いてくれる者はないものか。
    見よ。私を確認してくださる方、
    全能者が私に答えてくださる。
    【口語訳】
    ああ、わたしに聞いてくれる者があればよいのだが、/
    (わたしのかきはんがここにある。
    どうか、全能者がわたしに答えられるように。)/
    【新共同訳】
    どうか、わたしの言うことを聞いてください。
    見よ、わたしはここに署名する。
    全能者よ、答えてください。

    【関根訳】
    ああ、わたしに聞いてくれる人もがな。
    見よ、ここにわたしの判こがある、
    全能者よ、わたしに答えよ。

  • 神に向かって「答えよ」と命じている訳があるかと思えば、「答えてください」という嘆願あり、「答えてくださる」という確信ありという具合です。しかし、ここで重要なのは、「私の確認」「署名」「判こ」ということばです。原文では「ターヴィ」(תָּוִי)となっています。つまり、「私のターヴ」です。「ターヴ」(תָּו)はヘブル語の最後の文字(ת)です。
  • ターヴ」(תָּו)は「しるし」「符号」を意味します。旧約聖書では3回しか使われていません。ここヨブ記の31章35節と、エゼキエル書9章4節と6節です。エゼキエル書では、亜麻布の衣を着、腰に書記の筆入れをつけた御使いが登場しますが、その務めは偶像礼拝を悲しみ、正しく生きることを求めた人々の額に「しるし」をつけることでした。この「しるし」をつけられた者はさばきを免れることができました。この「しるし」が額についている者だけが、さばかれる多くの者から区別され、かつ、守られたのです。額につけられた「しるし」はおそらく古代ヘブル文字の「×」、あるいは「+」という符号であったと思われます。古代ヘブル文字の「×」は、ヘブル文字の「ターヴ」(ת)に当たります。なぜ「ターヴ」だったのかということについてはいくつかの説があるようですが、以下の二つの理由が自然と思えます。

    ① 「ターヴ」はヘブル文字の最後の文字であることから、最後まで神に対して献身的な信仰生活を送っている者であること。
    ② 「ターヴ」は「トーラー」(תוֹרָה)の頭文字であることから、律法に従って歩む者であること。

  • 「わたしの判こ」「わたしの署名」「私の確認」と訳されている「ターヴィ」(תָּוִי)は、ヨブ自身が潔白であることを証しする「しるし」です。それがヨブにはあるので、たとえだれかがヨブには罪があると書いた告訴状があったとしても、それはむしろヨブ自身の潔白さを証明することになるので、それを誇りとして、王者の風格をもって全能者の前に近づくことができるということなのです。
  • ヨブは13章18節でも「今、私は訴えを並べ立てる。私が義とされることを私は知っている」と述べていますが、最後に至っても、自分を義と主張して、ヨブの主張は言い尽くされたのです。

2014.7.2


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