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ヨシュアの訣別説教(2) 「主に仕える」

19. ヨシュアの訣別説教(2) 「主に仕える」

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【聖書箇所】 24章1節~33節

はじめに

  • 24章のキーワードを「主に仕える」といたします。単に「主に仕える」というだけでなく、15節にあるように、「私と私の家(家族)とは、主に仕える」という主体的・自覚的な信仰による取り組みです。この取り組みがいかに大事業であるか、しかもそれがいかに緊急的な課題であるかを自覚しなければなりません。「私と私の家(家族)とは、主に仕える」という告白はヨシュア記の結論なのです。

1. ヨシュアの歴史的回顧

  • ヨシュアは訣別説教として、アブラハムから始まる神の民の歴史を回顧しています。そして今や神の恩寵によって約束された地に今住んでいることを強調した上で、神の民の代表となっている人々に対して次のように語っています。
    「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。・・・主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気にいらないなら、・・あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」(14~15節)
  • これに対して、民たちの代表は三度、「私たちは主に仕えます」(18, 21, 24節)と答えてシェケムで契約を更新しました。更新ということは、これが特別に新しい契約ではなく、すでにモーセが語った申命記の中にあった契約の更新でした。申命記の主題については、⇒こちらを参照

2. 「私と私の家とは主に仕える」という今日的課題

  • アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民たちは、この世に生まれた時から神の契約の子であり、神との特別な位置にありました。彼らが他の国の子よりも特別に有能で、すぐれているからではありません。神が選ばれた民の子であるゆえに、神とのかかわりにおいて特別な位置にあるのです。ですから、イスラエルの民は神によって与えられたトーラーに従って、神の民として教育される必要がありました。申命記6章6以降には次のように語られています。
    「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱に書き記しなさい。」(6:6~9)
  • ユダヤ人の教育は今日においても、5歳からトーラーを学び、12歳ではトーラーの解釈である「ミシュナー」を学びます。しかも膨大な神のことばを記憶するように教育されるのです。これは彼らが神の民として存続していくための在り方なのです。彼らの歴史において離散と迫害をくぐり抜けて今日においてもユダヤ人として存続し得ているのは、神の守りがありますが、彼らが神のトーラーや伝統を世代を超えて継承してきたからです。
  • 異邦人である私たちにおいて、信仰の継承の課題は彼らから学ばなくてはなりません。特に、クリスチャンの第一世代の者は身近なモデルとなる家庭が少ないためにその課題は難儀な状況にあります。しかし神の恵みにより神の子とされたクリスチャンは、同じく神の子とされたクリスチャンとの結婚に導かれた者は、神の摂理のうちに、本人が自覚しようとしまいと「家族としての信仰の継承という召し」が与えられています。
  • 詩篇127篇3節にはこうあります。

    「見よ。子どもたちは主の賜物(相続地)、胎の実は報酬である。」

  • 「賜物」と訳された「ナハラット」は「相続地、嗣業」とも訳されます。約束の地が神の嗣業(賜物)の地であったように、主の家庭に与えられる子どもたちは、主にあって結ばれた両親に対する信仰の「報酬」です。かつて信仰を求められたアブラハムに語られた主のことばには、「あなたの受ける報いは非常に大きい」(創世記15:1)とあります。「賜物、嗣業」には「責任と課題」が伴います。つまり、主にあって子を育てる責任という課題です。まさに、ヨシュアが宣言したように、「私と私の家(家族)とは、主に仕える」ということであり、信仰の継承という課題を担うことです。神から与えられた相続地を継がせると同様に、神から与えられた賜物としての子どもを決して世に奪われることなく、信仰を次の世代へと継承させる責任を伴った課題を背負うことを意味します。このことがクリスチャンホームとして導かれた両親の課題であり、神からの召命であると信じます。それゆえ、主体的・自覚的な責任として受けとめられる必要があるのです。
  • 神から与えられた相続地も、神の教えに従って生きることがなければその地は根絶やしにされるという警告があるように、同じく神からの賜物としての子どもたちに神のことばを教えて信仰を継続させる責任を怠るなら、その子とその子孫が信仰の継承はおろか、信仰そのものも根絶やしにされるのです。そうならないためにも、クリスチャンホームという祝福にあずかった家族は「家族としての召命」を緊急に再認識する必要があると信じます。
  • 「家族としての召し」を与えられたクリスチャンホームがその召しを自覚し、主から賜った子どもたちを主の教えにそって育てるならば、神からの大いなる「報い」が約束されています。127篇4節には「若い時の子らは、まさに勇士の手の中にある矢のようだ」とあるように、主の召命に自覚的に従うならば、「門で敵と語るときにも、恥を見ることがない」とあります。これは、たとえどんな嫌がらせや批判にさらされようとも、神の大きな祝福の力をまとうことになるということを意味しています。

「私と私の家族とは主に仕えます」(ヨシュア記24:15)
画像の説明

2012.4.10


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