****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ヘブル的視点から聖書を読み直す (1)

19. ヘブル的視点から新約聖書を読み直す (1)

はじめに

  • 「イエスはユダヤ人でした」と聞かされて、特別、驚くクリスチャンは少ないと思います。しかしイエスがユダヤ人であるとすればイエスはヘブル語で語られたということを意味します。今日までイエスはアラム語で語ったと言われてきましたが、近年ではヘブル語で語ったとされています。ダマスコ途上でパウロに語りかけたイエスのことばはヘブル語だったと聖書が証言しています(使徒26:14)。パウロもエルサレムの民衆に向かってヘブル語で語りかけています(使徒22:2)。
  • イエスがヘブル語で話されたとするなら、それはヘブル的表現、ヘブル的慣用句、ヘブル的(ユダヤ的)背景をもって語られたということです。ところが私たちが読んでいる新約聖書の原典はギリシア語で書かれています。つまりイエスの語られたことばがヘブル語からギリシア語に翻訳されているわけです。ギリシア語で書かれている新約聖書、特に共観福音書は編纂される前にその資料となったものが存在したことは確かです。それが現在の福音書の中に散りばめられていると考えるのは自然です。ちなみにルカは福音書を「すべてのことを初めから綿密に調べ・・順序を立てて書いて」(1:3)います。ということは、元になった多くの資料があったのです。今日、ヘブル的視点からイエスの言葉を理解しようする流れが起こって来た背景には神の不思議な導きがあります。

①ユダヤ人の離散 A.D.70年、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊によってユダヤ人は完全に離散してしまいました。つまりユダヤ人は離散した各地で排斥され迫害されたために、ヘブル語さえも日常のことばとして使えなくなりました。

②またキリストの歴史において、ユダヤ的なものを一切排除した「置換神学」によって、ヘブル的視点から聖書を理解する道は閉ざされてしまいました。

③ベン・イェフダーは2千年間眠っていたヘブル語を復興させるという壮大な事業に着手しました。しかも1948年、奇蹟的にイスラエルが建国した後はこの取り組みは国家的事業となり、今日のイスラエルではヘブル語が話されています。その他、死海文書の発見等を通して、イエスの語られたことばをヘブル的視点から見直される研究がなされるようになってきています。


1. メシアニックジューとの出会い

  • 4年ほど前(2008年)に、旭川市でもたれたメシアニック・ジューの教師であるヨセフ・シュラム師の二日間のセミナーに参加しました。第一日目の夜はとてもきれいな満月でした。私は車で帰宅する途中、詩篇121篇6節に記されている「月が、あなたを打つことがない」というみことばを思い起こしました。私は以前からその言葉の意味がずっと分かりませんでした。ある注解書によれば、昼の「日」とは日射病のことで、夜の「月」とは月射病のことで、人を気狂いにする精神的病いを引き起こすと説明されています。前者は理解できるとしても、後者は全く理解できませんでした。 こんなに綺麗な月がなぜ人を狂わすのか、不思議でした。翌日のセミナーが終わってから、シュラム師を囲んでの昼食会が小さなレストランでもたれました。私は、早速、昨日見た月の話をし、詩篇121篇にある「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことがない。」というのはどういう意味ですかと単刀直入に尋ねました。するとシュラム師はさらりとこう答えてくれたのです。
            

    「「日」(太陽)とはエジプトの神、「月」とはバビロン、ペルシャ、シリアの神のことで、そうした神を信じている国々から守られるということだ」と。

  • 「目からうろこ」とはこういうことを言うのだとそのとき初めて思いました。ユダヤ人は神から定められた年三回の「主の例祭」に、どんな犠牲を払ってでもエルサレムに集まらなければなりませんでした。巡礼する旅の途中で敵がいつ襲いかかるやもしれません。神を第一にするということは大変なリスクを払わなければなりませんでした。果たして神は本当に守ってくださるのかという心配は、巡礼者たちの心の中に当然あったと思います。ところが、詩篇121篇にある「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことがない。」(6節)とは何という信仰の確信でしょうか。ユダヤ人ならではのこの解釈に私は驚くと同時に、聖書はこうしたヘブル的な視点、ユダヤ的背景をもって読まなければ理解できないことが多くあることを、はじめて直感的に知らされたのです。私がヘブル語を学ぶようになってからこの確信はますます強められるようになりました。そうした例をひとつ紹介したいと思います。

2. ヘブル的視点から見た新約聖書の解釈の例

  • ルカの福音書13章24節の「努力して狭い門から入りなさい」というイエスのことばに興味を引きました。前後の文脈を考えるなら「努力して」ということばが不自然に感じられたからです。イエスは実際にどういう意味で語られたのだろうかと思って調べてみました。多くの日本語訳を見ると、どれもみな「努力する、全力を尽くして、懸命に」という意味で訳されています。それもそのはず、原文のギリシア語には「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαιという動詞が使われており、その語義は「競技で勝敗を競う、福音のために苦闘する、獲得しようと努力奮闘する」という意味だからです。
  • しかし、使われているギリシア語の語義がそうであったとしても、そこでの文脈は神の国について「からし種」と「パン種」の二つのたとえが語られた後です。前者のたとえはきわめて小さくてもやがては全地を支配するようになることを意味し、後者は目には見えなくてもやがては内に拡大する力を秘めていることを表わしています。神の国は今は小さく、目に見えずとも、やがては全地をおおうほどに拡大することが語られた後に先のことばが語られています。
  • 「狭い門」が意味するのも同じです。狭い所に大勢の者が押しかけることで狭き門というのであれば、「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαιでも構わないはずです。しかしここで言われている「狭き門」とは「それを見出す者がきわめてまれである」という意味で使われています(マタイ7:13~14も参照)。とすれば、「努力して」という言い回しはどうみても不自然です。        
  • そこで、ヘブル語訳の新約聖書ではその箇所をどのように訳しているかを調べました。するとそこに当てられているヘブル語は「アーマツ」でした。この動詞は本来「励まし用語」です。旧約に「強くあれ、雄々しくあれ」というフレーズがありますが、ヘブル語では「ハザク・ヴェ・エマーツ」と言います。後者の「エマーツ」(אֱמָץ)が「アーマツ」(אָמַץ)の命令形です。これは「雄々しくあれ」という激励用語なのです。
  • このフレーズが語られた背景には、常に目に見える敵に対する「恐れ」がありました(ヨシュア記1:9)。つまり、ルカの福音書13章24節のことばの背景にあるものはマイノリティー・コンプレックス、つまりマイノリティー(少数であること)に対する恐れなのです。ルカ12章32節にも「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。小さいことや少ないことを恐れる者にイエスは神の国は将来必ず大きく膨れ上がることを語り、たとえ多くの者たちが見向きしなくとも、注目しなくとも、雄々しく勇気をもって、いのちに至る門から入るようにと励ましているのです。 
                             
  • 「寄らば大樹の陰」ということわざがあるように、だれでも大きいことや多いことは安心でき、良いことだと考えます。ですから多くの者たちがそうした広い門から入り、広い道を歩もうとします。しかしイエスの言われるのはそれとは全く逆です。多くの者たちが見向きしない門、注目しない道を歩むためには、マイノリティー・コンプレックスに陥ることなく、常に、「雄々しく」あることが不可欠なのです。したがってここは「努力して」というよりも、「雄々しくあって」と理解する方が自然な気がします。
  • しかもここの命令形はギリシア語では現在形で記されています。ヘブル語の時制は完了形と未完了形の二つしかありませんが、ギリシア語の時制はきわめて厳密です。ということは、常に、継続的に「雄々しくあり続ける」ことが命じられているのです。 
                          
  • このようにヘブル的視点から見るとき、「獲得しようと努力する、奮闘する」と訳されたギリシア語とは異なったニュアンスとして受け取ることができます。イエスの語られたことばを正確に理解しようとするならば、ユダヤ的背景を無視することはできなくなります。それを日本という文化の中でそのまま受け止めるなら、「真意のねじれ」が起こることは言うまでもありません。ボタンのかけ間違いが起こらないためには、語られたことばの背景を知ることがきわめて重要になってきます。
  • すでに使徒パウロはエペソ人への手紙の中で神の「奥義」を語っていました。その「奥義」とはユダヤ人と異邦人とが共にキリストにあって「共同の相続人」となるというものです。イエス・キリストの十字架は両者の間にあった隔ての壁を打ち破るものでした。そして神の目から見るならば、平和はすでに実現しているのです。そのキーワードが「新しいひとりの人」(エペソ2:15)です。ユダヤ人と異邦人が「共同の相続人」であるとは、キリスト教会とユダヤ人がひとつとされなければ、教会そのものが完成しないということを物語っています。神の計画によれば、ユダヤ人の民族的救いは必ず実現します。したがってキリストにある教会はユダヤ的背景、ヘブル的視点から聖書を再解釈しなければならない時代に来ているのです。それゆえ、ユダヤ人(メシアニック・ジュー)たちの聖書解釈の流れを大切にしていかなければなりません。とりわけ共観福音書の理解において、ヘブル語の知識はこれからますます不可欠な時代となって来るように思われます。


2012.4.5/9.3


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