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パウロの「律法」についての理解


10. パウロの「律法」についての理解

【聖書箇所】3章19~25節

ベレーシート

※3章19~25節の総論

●これまで、使徒パウロは「福音の真理」である「救い」は十字架につけられたキリストに対する信仰を通して与えられると主張し、それはあくまでも神の無代価の賜物であると説明しています。ところが、メシアを信じるユダヤ主義者たちは、キリストに対する信仰に神に受け入れられる必須の条件として、「律法の行ない」を付け加えようとしたのです。これに対してパウロはアブラハムとモーセの時代に連れ戻して、二つの原理に基づく神の取り扱いを説明しようとします。神はアブラハムに約束を与えられました。一方のモーセには十戒を中心とする律法を与えられました。この二つ(約束と律法)は明確に区別されなければなりませんが、その両者の関係と決定的な相違とは何なのでしょうか。

(1) 神はアブラハムに対して「約束」を与えています。
神のイニシアティヴに対する信仰が求められます。つまり、『約束』『恵み』『信仰』の世界。

(2) 神はモーセに対して「律法」を与えています。
律法は人間の義務、人間の行い、人間の責任を示しています。つまり、人間は神の律法に従わなければならないのです。つまり、『律法』『戒め』『行い』の世界。 

●パウロはこの両者の関係について、すでに前回取り扱った15~18節では、消極的な表現で、神の約束は律法によって無効とされないこと。そして今回取り扱うことになる19~25節では、積極的な表現で、律法の存在がむしろ神の約束を必須なものとしていることを教えようとしているのです。「単純に、約束と律法を対立させて、一方を受け入れて他方を退けると言ったことをしてはならないのです。」(ジョン・R・W・ストット)。

■ 3章19節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章19節
それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。

●前節の18節の「相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません」を受けて、19節は「それでは、律法とは何でしょうか」と問うています。「それでは」と訳された「ウーン」(οὖν)は、話の核心に入るときの接続詞です。ここでは三つのこと、すなわち、「律法」の目的、有効期間、および制定方法が述べられています。

(1)律法の目的・・「違反を示すために付け加えられたもの」
(2)律法の有効期間「約束を受けたこの子孫が来られるときまで」
(3)律法の制定方法「御使いたちを通して仲介者の手で定められたもの」

●17節の「その後四百三十年たってできた律法」は「約束を受けたこの子孫が来られるときまで(到来が約束されている子孫=キリストのこと)」とあるように、律法の果たすべき役割には有効期限が設けられています。その有効期間とは律法が果たす目的のために重要なものです。その重要な目的とは人間の神に対する「違反を示すため」です。そのことを決して軽々しく考えてはならないのです。パウロはこの真理をローマ人への手紙の中で詳細に述べています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙3章20節
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です

【新改訳2017】ローマ人への手紙4章15節
実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません

【新改訳2017】ローマ人への手紙7章7節
それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

●律法の目的は「違反を示す」ことです。つまり、律法は、人間の罪深さが神の意思(権威)と明確に反することを明らかに示すために、「付け加えられたもの」(ガラ3:19)なのです。それは同時に、24節にもあるように、「私たちをキリストへ導くための養育係」という積極的な役割があることも理解する必要があります。そのことが正しく理解されないと、福音が福音とは決してならないのです。

●また、律法は「御使いたちを通して仲介者の手で定められたもの」とありますが、旧約聖書にはそのような記述はありませんが、新約聖書の二か所に以下の記述があります。

(1) 【新改訳2017】使徒の働き7章53節
あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
(2) 【新改訳2017】ヘブル書2章2節
御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、

●律法が「御使いたちを通して仲介者の手で定められたもの」とある背景には、神の約束が「直接アブラハムに対してなされたものだ」ということをパウロが強調するためです。それが20節です。

■ 3章20節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章20節
仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。

●実は、この節の解釈は難しいのです。この節には逆接の接続詞の「デ」(δὲ)が二つあります。これは「ところで、しかし」の意味ですが、「律法」と「約束」における仲介者の是非をより鮮明にしようとしています。「仲介者は、当事者が一人であれば、いりません」とは、仲介者は少なくともAとBの当事者がとりきめを結ぶために必要とする存在です。ですから律法の場合は仲介者を必要とします。その場合、二者とは神とイスラエル(ユダヤ人)です。しかし「約束」の場合はその限りではありません。つまり、約束は一方的であり、かつ無条件であり、仲介者を必要とはせずに、神の一方的な約束(宣言)さえあれば成り立ってしまうものです。つまり、約束は神の意志によって、自由に、直接に与えられたものなのです。文脈を考えるならば、仲介者を挟まない約束は、仲介者を挟む律法にまさるという含みがあると考えられます。とはいえ、両者の間に仲介者があろうとなかろうと、同じ神によって与えられたことには変わりありません。仲介者を挟んだ律法にもそれなりの大切な役割があるというのが、21節です。

■ 3章21節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章21節
それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。

●21節の「それでは」(「ウーン」οὖν)も19節と同様、律法とは何かという問いに向けた順接の接続詞です。律法は約束と相反する(対立する)ものなのか。パウロは「決してそんなことはありません」(「断じてそうではない」、「そんなことは絶対にありえないことです」、「メー・ゲノイト」μὴ γένοιτο)と答えています。この強い否定表現はパウロの特愛修辞表現です。ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙で12回使っています。ローマ書では10回(3:4, 6, 31、6:2, 15, 7:7, 13、9:14、11:1, 11)、ガラテヤ書では2回(2:17、3:21)です。

●「もし~なら」(「εἰ」エイ)は仮定の接続詞です。「もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。」という仮定は、現実にはあり得ない事を述べています。それでは律法の本来の意義とは何なのでしょうか。その直接的な答えは23節で語られます。それはある期間「私たちを監視するため」なのですが、そこに行く前に、神の救いのご計画のことが先に扱われています。それが22節です。

■ 3章22節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章22節
しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

●冒頭の「しかし」(「アッラ」ἀλλὰ)は強意の否定接続詞で、これを表すために新改訳改定第三版では「しかし(聖書は)、逆に」と訳しています。ここでパウロは「律法」という語彙を使うべきところを、なぜ「聖書」(「ヘー・グラフェー」ἡ γραφὴ)という語彙を使ったのでしょうか。この場合の「聖書」とは旧約聖書全体を指しています。おそらく、律法が与えられる以前にも、人間の罪はすでに存在していたからです。パウロが「しかし聖書は」としているのは、聖書全体が指し示しているように、「すべてのもの(=包括的な意味での全被造物)を罪の下に閉じ込め」たのは、「約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるため」だったという神の本来のご計画を表すためです。

●ちなみに、パウロが「聖書は」という語彙を使っているのは、パウロの書簡の中ではローマ書(4:3, 9:17, 10:11)、ガラテヤ書(3:3, 3:22, 4:30)、Ⅱテモテ(3:15, 16)の8回のみです。この言い方は、論証や説得のために、神の全体的なご計画から語るときに使っているようです。

■ 3章23節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章23節
信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。

●律法が与えられたのは、すべてのもの(とりわけユダヤ人)に、罪(あるいは違反)についてそのことを気づかせるためだったのです。「信仰が現れる前」とは「来たるべき信仰が啓示されるまで」のことです。ここで「信仰」とはヘブル語では「ハーエムーナー」(הָאֱמוּנָה)です。「エムーナー」に冠詞がついたものです。「エムーナー」は「真実、忠実」とも訳され。イェシュアの名前は「アーメンである方」(「ハーアーメーン」הָאָמֵן)です(黙示録3:14)。つまり、「信仰」とはイェシュアご自身を意味しているのです。33節の「信仰」を「イェシュア」に言い換えて読んでみると、「イェシュアが現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべきイェシュアが啓示されるまで閉じ込められていました。」となるのです。理解がスッキリとします。

●「信仰が現れる」とは「信仰が来た」ことを意味します。「来た」は「エルコマイ」(ἔρχομαι)のアオリスト不定詞です。「来たるべき信仰が啓示される」の「啓示される」も「アポカリュプトー」(ἀποκαλύπτω)のアオリスト不定詞が用いられています。ということは、「来た」も「啓示される」も一回的な出来事であることを意味するのです。この信仰が来る前には、「私たち」(=イスラエルの民)は「閉じ込められたまま、律法の下でずっと監視されて」いたのです。これはどういうことでしょうか。「閉じ込められたまま」(現在受動態の分詞)の状態で、律法の下で監視され続けていたことを示しています。「監視され」と訳された「フリューレオー」(φρουρέω)は未完了形受動態です。「監視される」というと束縛的な感じがしますが、放縦な生き方にならないように、ある意味、神によって「守られていた」ことを意味する動詞でもあります(ピリピ4:7、Ⅰペテロ1:5参照)。

■ 3章24節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章24節
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

●「こうして」と訳された「ホーステ」(ὥστε)は、「ですから」とも訳される「結論を導く」接続詞です。つまり、律法の本来の目的は、「私たちをキリストに導く養育係であった」ということに尽きるのです。ギリシア語原文は「律法は、キリストの到来までの間、私たちの養育係であった」となっています。「キリスト(の到来)まで間の私たちの養育係となった」となっています。「養育係」(「パイダゴーゴス」παιδαγωγός)は「厳しい躾をする家庭教師」という意味です。その目的は「ヒナ」(ἵνα)という理由・目的を示す接続詞によって示されています。つまり、「私たちが信仰によって義と認められるため」に律法は彼らの養育係の役割を果たしたというわけです。ここに、「律法と約束との関係(存在意義)」が如実に示されています。

●律法の目的は人をよくすることではなく、彼らに自らの罪を示すことによって神の恵みを求めるように駆り立て、キリストのもとにやってくるように仕向けること、これこそが律法の真の働きであることを教えようとしています。換言するならば、律法の真の働きとは、信仰(イェシュアという方)の約束を確証させ、それを不可欠のものとするという積極的な働きがあるのです。そしてそれが実現されたのです。それが25節です。

■ 3章25節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章25節
しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

●25節の「しかし」(「デ」δὲ)は、23節の「私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰(イェシュア)が啓示されるまで閉じ込められていました」に続く「しかし」です。「しかし、信仰が現れた(来た)ので、私たちはもはや養育係の下にはいません」という新しい生き方が可能となっているのです。

●「もはや~ない」(「ウーケティ」οὐκέτι)という否定の副詞も、パウロが良く用いる強調表現です。ガラテヤ書だけでも、今回の3章25節の「私たちはもはや養育係の下にはいません」、2章20節の「もはや私が生きているのではなく」、3章18節の「もはやそれは約束によるのではありません」、4章7節の「あなたはもはや奴隷ではなく」がそうです。

●キリストにある新しい生き方がいかなるものであるか、26~29節でパウロはそのことを説明しています。

2019.9.12


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