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パウロが使徒として召された次第


3. パウロが使徒として召された次第

【聖書箇所】1章11~24節

■ 1章11節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章11節
兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。

●11節の「私はあなたがたに明らかにしておきたいのです」を、新共同訳は「あなたがたにはっきり言います」と訳しています。「グノーリゾー」(γνωρίζω)は単に「知らせる」という意味ですが、ここでは語られる内容が、すでにガラテヤの諸教会に知られていなければならないという意味合いがあります。また、この言葉が冒頭に来ていることからも特別に強調されています。

●ビザンチンテキストは「グノーリゾー」の後に「デ」(δέ)となっていますが、ネストレ版は「ガル」(γὰρ)となっています。ネストレ版とビザンチンテキストが異なる箇所では、後者を優先したいと思います。よって、ここは「デ」(δέ)で、「さて」「それで」と言ったニュアンスです。

●7節にあった「キリストの福音」が11節では「私が宣べ伝えた福音」と言い換えられています。原文では「私によって宣べ伝えられた(アオリスト受動態分詞)福音」となっています。受動態であるのは、この福音が「人間によるもの(「カタ・アンスローポン」κατὰ ἄνθρωπον)ではない」からです。それは「人間に基づくものではない」ということで、人間の好み、賛同、是認、選択によって決定されるものではないことを示しています。

●1節で「使徒」とされたパウロが「人々から(ἀπό)出たのではなく、人間を通して(διά)でもなく」と言われたことが、今度は「福音」そのものが、「人間による(κατὰ)ものではない」こと、パウロはこのことを明らかにしておきたいのです。

■ 1章12節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章12節
私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

●前節の「人間によるものではない」というその理由(「ガル」γάρ)が本節で説明されています。つまり、「私が宣べ伝えた福音」=「私によって宣べ伝えられた福音」が、「人間によるものではない」理由は、「人間から受けた(παραλαμβάνωのアオリスト)ものではない」、また「(人間から)教えられた(διδάσκωのアオリスト受動態)ものでもない」からです。

●「人間から」(「パラ・アンスロープー」παρὰ ἀνθρώπου)とは、「人間の側から」という意味で、それが否定されています。ただ(「アッラ」ἀλλά =「むしろ」「かえって」)、「イエス・キリストの啓示によって(διά)」なのです。つまり、「私が宣べ伝えた福音」は、「イエス・キリストの啓示を通して受け、かつ教えられた」ものだということです。

●「啓示」と訳された「アポカリュプシス」(ἀποκάλυψις)が、ヨハネの黙示録1章1節では「イエス・キリストの黙示」(「アポカリュプシス・イエスー・クリストゥー」Ἀποκάλυψις Ἰησοῦ Χριστοῦ)と訳されます。同じ語彙が、なぜ一方では「啓示」と訳され、もう一方では「黙示」と訳されているのか、ギリシア語辞典を編纂した織田昭氏によれば、「ヨハネの場合は特殊な啓示だから」ということのようです。いずれにしても、パウロにとって啓示は決定的な意味を持っているのです。彼の回心と召命に始まって、すべての奥義(神の秘密のご計画)がイエス・キリストの啓示(自己顕現)によって受け、かつ教えられ、かつ導かれている(ガラ2:2)のです。これは単に彼の内に働くインスピレーションではありません。確かな啓示に基づくものだという点が、他の使徒とは全く異なるのです。このことを、パウロは自分の身をとおして起こった出来事(11~24節の召命と回心)を振り返りながら、語っていきます。

■ 1章13節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章13節
ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。

●13節と14節はパウロの回心前の生き方がどのようなものであったかを述べています。「あなたがたは・・・すでに聞いています」、「ホティ」(ὅτι)は英語の that のように続く事柄のことを聞いているという意味です。つまり、「激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしたこと」です。

■ 1章14節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章14節
また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。

●パウロが「激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとした」ことと、14節の「私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心で」が即応しています。「進んでおり」(「ヒュペルボレー」ὑπερβολή)は「極度に、過度に、熱狂的に、徹底的に」という意味であり、新共同訳は「徹しようとしていた」と訳しています。ですから、「人は律法の行いによって義とされる」とするユダヤ教と「信仰によって義とされる」と教える神の教会とが真っ向から対立するのは避けられないことでした。徹底的に律法に熱心だったパウロが神の教会を迫害したのは当然のことだったのです。ところがパウロの生き方を逆転する出来事が起こったのです。それがキリストの啓示です。

■ 1章15~16節

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 【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章15~16節
15しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、

●15節の「しかし」(「デ」δέ)は重要です。なぜなら、大転換をもたらす「しかし」だからです。「選び出し」と「召してくださった」の二つの分詞は極めて重要です。これがなかったなら、大転換は起こらなかったからです。「選び出し」、あるいは「選び分け」(新共同訳)と訳された「アホリゾー」(ἀφορίζω)は「境界線を引いて分ける、区別する」語彙であり、神のものとして取り分けることを意味する「聖別」を意味する語彙です。それに相当するヘブル語は「バーダル」(בָּדַל)で、初出箇所は創世記1章4節の「神は光と闇とを区別された」で使われています。また、「召す」、あるいは「召し出す」と訳された「カレオー」(καλέω)はある働きに就くように「呼び出す、名づける」という意味であり、それに相当するヘブル語の「カーラー」(קָרָא)の初出箇所は創世記1章5節で、「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた」とあるように、これも分離を意味する語彙となっています。まさにパウロは、神によって分離させられた者、あるいは聖別された者なのです。

●「私を選び出し・・てくだった神」は「(私が) 母の胎にあるときから」という修飾句が、「(私を) 召してくださった神」は「恵みをもって」という修飾句がそれぞれついています。前者の「母の胎にあるときから」は、「主のしもべ」が語ることば、「島々よ、私に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。【主】は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。」(イザヤ書49:1)がありますが、これに近いことばです。主のしもべであるイェシュアとその働きが、パウロに委託される預言として語られたものと考えられます。エレミヤにも似たような言葉を主は語っています。エレミヤ書 1章5 節で「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」(【新改訳2017】)とあります。エレミヤの場合は「母の胎を出る前からあな聖別し」とあります。パウロは教会に呼び出された者たちに対して、「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(エペソ1:4)とも述べています。これもパウロが啓示によって与えられたものです。

●その目的は何かといえば、16節にあるように、「異邦人の間に御子の福音を伝えるため」です。天からの光によってパウロが回心した時にも、そのことが主の弟子アナニアによって語られます。

【新改訳2017】 使徒の働き9章15節
しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」

●ガラテヤ書16節に戻りましょう。そこには「御子を私のうちに啓示することを良しとされた」とあります。「良しとされた」と訳された「ユードケオー」(εὐδοκέω)は「良く思う」という合成語で、「神が~を喜びとする」「~に同意する」という意味です。これが名詞になると「ユードキア」(εὐδοκία)となり、「みむね」という意味になります。これは神の喜びを表す語彙です。神がパウロのうちに御子を啓示することは、神の喜びに基づくということだったのです。

●なんと深遠な神の喜びに満ちた選びでしょうか。キリストの啓示によってパウロに明らかにされたことが、それまでユダヤ教に徹していたパウロをして、その生き方を大変革へと導いた理由なのです。そして彼は、これまでとは反対に、ユダヤ教徒からの激しい迫害を受け続けたのです。メシアニック・ジューの人たちは、今でもユダヤ人の家族や仲間から絶縁されるようです。

■ 1章17節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章17節
私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

●回心も召命も、啓示によったパウロは、その後も啓示によって導かれます。ですから、16節の後半では、「私は血肉に相談することをせず」とあります。「血肉」とは「肉」(「サルクス」σάρξ)と「血」(「ハイマ」αἷμα)が「カイ」(καί)で結ばれています。これは「人間」を意味します。パウロは人に相談して事を決めることはしていません。イェシュアも同様です。イェシュアの言動一つ一つが御父のみこころにそってなされました。ですから、人と相談することはなかったのです。かといって、私たちが同じことをすると間違いが起こります。なぜなら、啓示ではなくて、自分の肉に従ってしまうことが多いからです。

●啓示によって、使徒として召されたことを知ったパウロは、「私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず」、「すぐにアラビアに出て行き」とあります。原語は「アペルコマイ」(ἀπέρχομαι)アオリストとなっており、新共同訳は「退き」と訳しています。「退き」と訳すると、それはこれからの働きに備えて「祈りと瞑想のため退いた」と考えてしまいます。しかし、「出て行き」と訳されると「伝道の働きのために出て行った」と思ってしまいます。なぜパウロがアラビアへと赴いたのでしょうか。二つの見方があるようです。

(1) 祈りと瞑想のため・・これからの自分の生活と果たすべき任務について祈りと瞑想の時をもった。
(2) 伝道のため(異邦人)・・この根拠として、Ⅱコリント11章32~33節の「アレタ王の代官」があることから、これはナバテア王国のアレタ4世のことであると推論し、パウロの「アラビア」とは死海の南部に位置するナバテア王国、特に首都のペトラであったとしています。自分の使命で異邦人を求めて出て行ったという解釈。ただし、この伝道に関してパウロは完全に沈黙しています。ナバテア王国はB.C.1~A.D.1の期間に栄え、パウロの時代にはローマからダマスコの統治を依頼されていました。パウロがダマスコでアレタ王の代官によって捕らえられそうになったのは、ナバテアの伝道と関係があったのではないかという見方。


■ 1章18~19節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章18~19節
18 それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。

●「それから三年後に」とは、パウロがダマスコに帰ってきてから三年後という意味です。パウロのエルサレム訪問の目的はケファを「訪ねる」ためです。この「訪ねる」と訳された言葉は「ヒストレオー」(ἱστορέω)は「面識を得る」という意味で、おそらく15日間も費やしたのは、単に知り合いになるためではなく、福音について話し合うためであったと考えられます。パウロの関心は徹頭徹尾「キリストの福音」であり、その中心的内容は「福音と律法」であったと考えられます。これはパウロの伝道において、常に、中心問題だったのです。

●しかし、19節では「主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした」とあります。ところで、パウロはペテロとは面識がなかったにもかかわらず、どのようにして彼らに近づいたのかといえば、それはバルナバの存在です。彼が仲介役の労を取ったようです。

【新改訳2017】使徒の働き9章26~28節
26 エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。
27 しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。
28 サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。

●なぜ、パウロがエルサレムに行かなければならなかったかという必然性については、パウロの福音が啓示に基づくものといっても、その働きがエルサレムの使徒たちとの接触が一切なかったとするならば、神のご計画における歴史的なかかわりの筋道が見えなくなってしまうことを懸念してのことであったと考えられます。パウロはエルサレムで始まった福音の宣教を、自分の本拠地であるアンティオキア以上に大切にしていたと思われます。

■ 1章20節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章20節
神の御前で言いますが、私があなたがたに書いていることに偽りはありません。

●「私があなたがたに書いていること」とは、13節から19節までの、パウロの変えられた生き方のことです。

■ 1章21節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章21節
それから、私はシリアおよびキリキアの地方に行きました。

●使徒の働きによれば、パウロはエルサレムでも大胆に主の御名を語っていたことで、ユダヤ人から殺されそうになったため、「それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した」(使徒9:30)とあります。タルソはパウロの出身地であり、その地方をキリキアと言い、パウロはそこで再びバルナバによって見出されるまで、キリキア、およびシリア地方で働きを続けていたと思われます。

●このころに、パウロは特別な啓示を受けたものと思われます。それはⅡコリント12章に記されています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書12章2~4節
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。


■ 1章22節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章22節
22 それで私は、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られることはありませんでした。

●パウロが「シリアおよびキリキアの地方」での働きに従事していたため、「ユダヤの諸教会には顔を知られること」はなかったのです。いわばパウロの存在はユダヤの諸教会には知られていませんでした。「顔」(「プロソーポン」πρόσωπον)は知られなくても、人々(原文は「彼ら」)はパウロのうわさを耳にしていたのです。それが23節です。

■ 1章23節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章23節
ただ、人々は、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いて、

■ 1章24節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章24節
私のことで神をあがめていました。

●「あがめていた」は「ドクサゾー」(δοξάζω)の未完了形であるため、彼らはパウロのことで、繰り返し(しきりに)神を「あがめていた」ことを示しています。パウロのような生き方は多くの人にとって強烈な印象を与えるあかしになっていたということです。

1章11~24節の要約

●パウロにとってキリストの啓示ということがいかに重要なことであるかを、私たちは理解しなければなりません。私たちはパウロを通してキリストの福音を理解しなければならないのです。かつては神の教会を迫害していた者を神が用いられたことは、神のアイロニー(皮肉)と言えます。神をあがめる続ける者でありたいと思います。

2019.7.11


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