****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ハンナの賛歌に見る「貧しさ」の霊性と家庭教育

2. ハンナの賛歌に見る「貧しさ」の霊性と家庭教育

【聖書箇所】 2章1節~36節

はじめに

  • 第2章にはサムエルの母ハナンの賛歌があります。なにゆえに「ハンナの賛歌」がここに置かれているのか。その位置づけの意義は何かを考えてみることはとても有益だと思います。そしてそれはもう一つの記事である祭司エリの家族(特に二人の息子たち)とエリのもとに預けられたサムエルの存在の対比を鮮やかに記されています。
  • 社会的に高い立場にある祭司といういわぱ世襲制における子どもの教育と、社会的には弱い立場にある女性の子どもの教育の失敗例と成功例が対照的に描かれています。サムエルの母ハンナの霊性がサムエルの成長過程においていかに大きな影響を及ぼしたかを学ぶことが出来ます。

1. ハンナの賛歌に見る「貧しさ」の霊性

  • 2章1~10節に記されている「ハンナの賛歌」は、ハンナの霊性を見事に描いています。エフライムの山地に住むレビ人(ケハテ族)の夫の妻であったハンナは、まさに名前のごとく神のお気に入りとされた女性でした。彼女には「胎が閉じられていた」ことで深い苦悩を背負わされましたが、同時に、その逆境を乗り越える信仰が与えられていました。それがハンナの賛歌の中によく表されています。そこには「貧しさの霊性」があります。
  • 貧しさの霊性」の特質は、神に対する謙遜と神へのゆるぎない信頼です。それは、「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」(2:2)とあるように、「神の無比性」の告白を生み出します。他にはいない、だれもいない、という否定を表す副詞「エーン」אֵיןを三度も使うことでそのことが強調されています。
  • また、神の無償性にあずかる逆転の祝福を告白しています。具体的には「弱い者」がちりから起こして力を帯びさせ、「飢えていた者」を富ませ、「不妊の女」が子を産み、「貧しい者」をあくたから引き上げて栄光の座に着かせ、その位を継がせるとして、主を喜び、その勝利をたたえています。その背景には「まことに人は、おのれの力によっては勝てない」という貧しさの自己認識があります。こうした「貧しさの霊性」は歴史の中で(特にバビロン捕囚経験を通して)次第に深められ、やがてはイエスの母マリヤにも受け継がれます。ルカの福音書1章にある「マリヤの賛歌」がその霊性の良い例です。
  • イスラエルの王制の舵取りをすることになるサムエルの成長過程の中に、また人類の救いを成し遂げることになるイエスの成長過程の中に、母親の霊性が子に大きな影響を及ぼしていることを知ることができます。女性(母親)の神から与えられた重要な働きの一つとして、「神のために有能な人材を世に送り出すという使命」があることを教えられます。そして、ハンナの場合もマリヤの場合も、それをしっかりと理解して、受け留めることのできた夫(エルカナとヨセフ)の存在があったことも忘れてはならない事実です。つまり家庭教育の重要性です。特に、母親の霊性は家庭教育において決定的な影響を与えるということを聖書が証言していると言えます。

2. 祭司エリの家庭における霊性

  • 一方、サムエル記2章12節以降には、祭司エリ(「エーリー」עֵלִי)の二人の息子のことでエリの家族が神のさばきを受けることが予告されています。エリの二人の息子(ホフニとピネハス)は祭司でしたが、彼らは「よこしまな者で主を知らなかった」と記されています。祭司は世襲制です。世襲制の最も見事な欠陥の症例です。「よこしまな者」と訳された「ベリッヤーアル」בְּלִיָּעַלは「無価値な者、役に立たない、くびきのない者、邪悪な者」という意味です。祭司でありながら「主を知らないこと」と「無価値な者、役に立たない」は同義です。
  • エレの二人の息子がどういう点が「よこしま」であったのでしょうか。二つあります。一つ目は、主へのささげものを侮ったことです(2:13~17)。いけにえが主の前にささげられる前に、最上の部分を自分たちのものとしたことで、人々が神にささげものをすることを嫌がってしまったことです。この罪は主の前に大きかったと聖書は記しています。二つ目は、主の宮で仕える婦人たちを誘惑して姦淫の罪を犯したことです。これも神の民を汚した罪でした。
  • こうした息子たちに対して父親のエリの責任が問われています。エリの罪とは2章29節によれば、「自分の息子たちがみずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ」としています。そのためにエリの家系が永遠にさばかれるとあります。
  • ここには彼らの母親についての言及は一切ありません。亡くなっていたのかも知れません。ここで指摘されていることは、息子たちがもっと幼い時に息子たちへの教育にもっと心を用いるべきであったにもかかわらず、それをしなかった罪が問われているのです。大きくなってから叱責したとしてもすでに時遅しなのです。エリ自身は自分の子どもを主にあって教育することに失敗しました。教育すべき時にしっかりとそれをしなかったのです。そこにエリ一族の悲劇があったと言えます。

3. 祭司エリの家庭に預けられたサムエルの成長

  • エリの家庭における霊性の環境は最悪でしたが、そこに預けられたサムエルは主にあって成長したことが記さています。

    2:11「祭司エリのもとで主に仕えていた。」
    2:18「亜麻布をエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。」
    2:21「少年サムエルは、主のみもとで成長した。」
    2:26「少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」

  • 最悪の環境の中にありながら、サムエルが健全に「主の前に」、「主のみもとで」成長したそのかげには母親ハンナの霊性の影響があったことは言うまでもありません。ハンナは毎年シロを訪れ、サムエルと会うことができる状況にありました。
  • ちなみに、ハナンの賛歌に「主にあって」がひときわ目立ちます(2:1)。サムエルはその母ハンナの祈りによって、「主にあって」(「バ・アドナイ」בַּיהוה)成長したと言えます。主に渡されたサムエルは、実のところ主が育ててくださったのです。イエスとマリヤは30年間のかかわりがありました。ハンナとサムエルはどれほどのかかわりの期間があったのか分かりません。しかし、「三つ子の魂百まで」と言われるように、サムエルの成長において最も大切な時期を母ハナンのふところで過ごしたことは幸いという他ありません。ここにも母ハンナの知恵をみることができます。

2012.5.15


a:10242 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional