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ハバクク書の瞑想を始めるに当たって

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0.  ハバクク書の瞑想を始めるに当たって

ベレーシート

  • ナホム書からのメッセージを聞いたことのなかった人も、ハバクク書からのメッセージなら聞いたことがあるかもしれません。なぜなら、この書にはしばしば取り上げられる有名なみことばがあるからです。例えば、
    (1) 2章2節の「幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために。板の上にはっきりと書きしるせ。」(新改訳第二版)
    (2) 2章4節の「正しい人はその信仰によって生きる。」(脚注)
    (3) 3章17~19節の「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、・・・しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。・・・」
    などがそうです。
  • このハバクク書は、ユダの民がバビロンによって捕囚されるという出来事を「予型」としながら、実は、「終わりの日」におけるユダヤ人の未曾有の苦難とそこからの救いを預言しているのです。ハバクク書を通して、「嘆きから讃えへ」「どん底から復興へ」と導かれる神の希望のメッセージを聞き取る者は幸いです。

● ハバククが預言した時代的背景

画像の説明

  • 1節に「預言者ハバククが預言した宣告」と記されているだけで、その預言がいつなされたのかを表わす時代的背景については記されていません。したがって、ハバクク書が書かれた年代についていろいろな説があります。しかし、ハバクク書において、時代的背景を思わせる情報が全くないわけではありません。以下の事柄がその一つの手掛かりと言えるかもしれません。

(1) 「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」

新バビロンの歴代の王.JPG
  • 時代的背景を論証する第一の手掛かりは、「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす」(1:6)という主のことばです。「カルデヤ人」とは、新バビロンと同義です。ユダとのかかわりにおいてバビロンが神の歴史に深くかかわるのは、アッシリア帝国が滅亡した頃からです。アッシリアを支援するために北上してきたのはエジプトのパロ・ネコ2世でした。エジプト軍はカルケミシュの戦いでバビロンのナボポラッサルと戦い大敗北を帰しましたが、それがB.C.605年です。以後、バビロンとエジプトの大国に挟まれた中東の諸国はその勢力の狭間にあって翻弄を余儀なくされます。
  • ナボポラッサルの後に王となったネブカドネザル(ネブカデネザル)王は、バビロンに反旗を翻したユダに対し、B.C.586年、ユダを滅ぼし、民をバビロンの捕囚としました。ハバクク書にはこのバビロン(カルデヤ人)の強暴さが語られています。そのバビロンが国として成立したのはB.C.626年、そのバビロンがメディア・ペルシアによって滅亡したのがB.C.536年です。わずか90年間の支配でした。バビロンは神のご計画の視点からするならば、神の民であるユダを矯正するために用いられた、神の父性的訓練のための道具だったのです。

(2) 「律法の力の喪失」

  • 時代的背景を論証する第二の手掛かりは、1章4節にある「律法は眠り」と訳された部分です。「律法は眠り」とは「律法の力は麻痺し、ゆるみ、無力となった」ことを意味します。ユダの歴史において「律法」の力が回復した時代はヨシヤ王の治世の時です。神殿を修理しているとき「律法の書」が発見され、それを契機に「律法」を中心とした宗教改革が実現したのです。ところが、そのヨシヤ王がメギドの戦いで戦死したため、その力は喪失したと思われます。そのことがバビロンとエジプトの大国に挟まれたユダにとって不安定な状況を作り出しました。それと連動して公義(トーラーに拠る神の統治理念=「ミシュパート」מִשְׁפָּט)が曲げられたことは言うまでもありません。



脚注
使徒パウロはハバクク書から引用しています。
1章5節(七十人訳)を使徒 13章40~41節に。
2章4節(七十人訳)をローマ書1章16~17節、ガラテヤ書3章11節、ヘブル書10章37~38節に。


2015.6.12


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