ナホム書の神
聖書を横に読むの目次
1. ナホム書の神
ベレーシート
- ナホム書にはニネベに対するさばきの預言が記されていますが、それが本格的に語られるのは2章からです。1章はナホムの神がいかなる神かを私たちに示唆しています。
- ナホム書からのメッセージをほとんど聞くことがないのは、1章2節にあることばのイメージから来るものが原因かも知れません。つまり、「復讐の神」ということばのイメージです。それは神は「愛の神」というイメージが強い人には強烈すぎるかもしれません。それはともかく、2節のみことばに注目してみたいと思います。
1. ナホム書の神のイメージ
【新改訳改訂第3版】ナホム書 1章2節
【主】はねたみ、復讐する神。
【主】は復讐し、憤る方。
【主】はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。【新改訳2017】ナホム書 1章2節
【主】はねたんで復讐する神。
【主】は復讐し、憤る方。
【主】はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。
- ここには「ナーカム」(נָקַם)の分詞形「ノーケーム」(נֹקֵם)という言葉が3回も使われています。それは「復讐する神」「報復する神」です。さらに形容詞の「ねたむ(神)」(「カンノー」קַנּוֹא)も登場します。動詞は「カーナー」(קָנָא)で、この「ねたみ深い」という形容詞は神の民に対する神の熱意、熱愛を意味します。この愛のゆえに、神の民に敵対した者たちに対して「報復する、復讐する」というのが、「ナーカム」の神なのです。
- 「復讐する神」ということばは聖書の中で多いわけではありませんが、詩篇94篇の冒頭で「復讐の神」と呼びかけています。
【新改訳2017】詩篇94篇1~2節
1 復讐の神【主】よ 復讐の神よ 光を放ってください。
2 地をさばく方よ 立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。
- 「復讐する神」(報復する神)というイメージで、引いてしまう方もいるかもしれません。それは「愛の神」というイメージが強いからかも知れません。「復讐する神」(報復する神)とは、神に敵対する者たちを正しくさばいてくださいという祈りをこめた呼びかけなのです。
- 「さばき」のない「救い」がないように、「復讐」なき「慰め」もありません。それは一枚のコインの表裏なのです。事実、詩篇94篇19節には「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」とあります。ここでの「慰め」と訳されているヘブル語は「ナーハム」(נָחַם)の名詞の複数形「ネフーミーム」(נְחוּמִים)です。つまり、「あなたの数々の慰め」です。そしてこれこそが「良き知らせ」(「バーサール」בָּשָׂר)でもあるのです。
- そもそも、「慰め」と「報復(復讐)」は表裏一体なのです。そしてその両者を結んでいるものが、神の「熱意、熱心」(妬み)なのです。これらは、以下の図のように三位一体的関係を保っています。
2. 主に身を避ける者に対しては、とことん「トーヴな神」
- 「 【主】は怒るのに遅く、力強い方。決して罰せずにおかれることはない。」(3節)とあります。主は忍耐深い方ですが、同時に、主に敵対する者は主の厳しいさばきを免れることはできません。しかも二度と立ち上がれません。3節後半~6節、および8~10節にはその怒りの激しさが述べられています。その燃える神の怒りに耐えられる者はだれ一人いません。滅ぼし尽くされます。しかしこれは一つの型です。終わりの日に登場する「獣」と呼ばれる反キリストに対して、そのような運命が待ち受けています。もしこの「獣」が神の民イスラエルにしたことに対して神が何の復讐(報復)もしなかったならば、どこに慰めがあるでしょうか。本当の「慰め」は、神に反逆し、しかも神の民イスラエルを苦しめ続けた者たちへの正当な報復があってこそ、保障されるものなのです。なぜなら、万軍の主の熱心さがそのことをなして下さるからです。
- どこまでも主に身を避ける者に、神からの「慰め」が約束されているのです。1章7節には、主に身を避ける者の幸いが記されています。
【新改訳改訂第3版】ナホム書1章7節
【主】はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。
主に身を避ける者たちを主は知っておられる。【新改訳2017】ナホム書1章7節
【主】はいつくしみ深く、苦難の日の砦(「マーオーズ」מָעוֹז)。
ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。
(※「身を避ける」=「信頼する」(「ハーサー」חָסָה)を意味します)
- L.B.はこの箇所を「神様は、ご自分に信頼する者を、すべてご存じだ」と訳しています。「主はいつくしみ深い」、ヘブル語では「トーヴ・アドナイ」(טוֹב יהוה)。英語で神を「ガッド」(God)と言いますが、これは「どこまでも良い方」という意味の「Good」の短縮形です。主に身を避ける(=信頼する)者たちに対して、永遠に「良い方」であってくださる神、それは今も然りであり、やがて神の歴史の終わりにおいてはそのことが完全な形で表わされます。たとえ、苦しみ、苦難の日が襲ったとしても、その中において主は「砦」となってくださるのです。「砦」とは「永続する守り」を保証する語彙です。それゆえ、私たちは「主に感謝せよ(「ホドゥー・ラドナイ)。まことに(「キー」)、主はいつくしみ深い(「トーヴ」)。」とたたえなければなりません。
2015.6.2
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