ダビデの神殿礼拝の具体的構想
歴史書(2)の目次
D. モーセの幕屋とダビデの幕屋の綜合としてのソロモン神殿の礼拝神学
D-1 ダビデの神殿礼拝の具体的構想
(1) ダビデの神殿礼拝の具体的構想
- ダビデはシオンに契約の箱を安置し、そこで四六時中賛美のいけにえをささげさせた。同時に、ダビデはギブオンにあったモーセの幕屋にダビデの側近である祭司ツァドクを遣わし、また賛美のためにヘマン、エタンらの有能な賛美指導者も遣わした。この事実は、ダビデがシオンの幕屋礼拝とモーセの幕屋を統合し、やがて建てられる神殿において、イスラエルの民が神を礼拝する民として、より強化するためのヴィジョンの実現のための準備であったと考えられる。
(2) モーセの幕屋の礼拝神学
①〔神に近づくための啓示〕・・レビ記には神に近づくための5つのささげものが記されている。
a. かおりのささげもの(自発的)
全焼のいけにえ※脚注1、
穀物のいけにえ、和解のいけにえ
b. かおりのないささげもの(強制的)・・罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ
②〔礼拝の秩序と礼拝者の聖別〕
- 形式には本来いのちが秘められているものである。しかし、そのいのちが枯渇すると形骸化した形式のみが残る。特に、モーセの幕屋におけるすべての秩序と形式は、人が神に近づく秩序として、また深い意味あるものとして啓示されたものである。
- 教会史にみられる様々な礼拝スタイルは、それなりの礼拝に対する神学(考え方)が土台となっている。今日のプロテスタント教会(福音派)の礼拝の流れは、マルチン・ルターのドイツミサの流れを土台としている。
(3) ダビデの幕屋の礼拝神学
①〔主の臨在こそわがいのち〕
ダビデは何にもまさって主の臨在を慕い求めた。詩篇16篇8節、11節。27篇4節参照。主の前に出て、他のすべてのことを忘れて主の御顔を慕い求め、その麗しさに浸る。本質追求。形式にとらわれない。神の真理の啓示にいつも開かれた態度を取る。新しい皮袋。
②〔賛美の中に臨在される主〕
- 詩篇22篇3節「・・あなたは聖であられ。イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」。「賛美を住まいとする」とは、賛美を受けるにふさわしい(その価値を有する)方という意味である。
- ダビデの幕屋においては、動物のいけにえではなく、霊的ないけにえ、つまり「賛美のいけにえ」、「喜びのいけにえ」、「感謝のいけにえ」、「従順のいけにえ」、「砕かれた(悔いた)心のいけにえ」、「義のいけにえ」が、音楽を伴う歌と祈りを通して、つまり、くちぴるを通して告白され、宣言された。くちびるによるいけにえは、しばしば心の多様な感情的表現を伴った。これはモーセの幕屋での礼拝では乏しかったものである。
(4) 預言者的傾向と祭司的傾向
(5) ダビデの幕屋とモーセの幕屋との綜合としてのソロモン神殿の礼拝神学
①シオンに置かれたダビデの幕屋は、いのちに満ちた全く新しい革新的な礼拝であった。
②しかし、それを制度化し、組織化し、国全体に定着させるためには、神がかつて啓示されたモーセの幕屋の礼拝秩序を必要とした。少なくともダビデはそう考えた。一度はいのちを失ったモーセの幕屋であったが、再び、いのちが回復されるようになったからである。
③神殿における礼拝は、国およびイスラエルの民の生活全体の中心となるべきものであった。
※脚注
全焼のいけにえ(レビ1章)
〈ヘ〉オーラー.オーラーは〈ヘ〉アーラー(「上がる」「のぼる」という意味)の派生語である。このいけにえの顕著な特色は、それが祭壇上で全く焼き尽されたということである。これに比して、すでに記したこれ以外の動物のいけにえは、ただ、その脂肪の部分のみが焼かれたのである。全焼のいけにえは、なだめのささげものであったが、これに加えて、もう一つの概念、すなわち、主に対して礼拝者が全く聖別されることを意味したのである。規則正しく,また,常にささげられなければならないために、それは「絶やすことのない」全焼のいけにえと呼ばれた(出29:42)。そして、人が食する部分が少しも残されなかったため、「全焼のささげ物」とも呼ばれた(申33:10,詩51:19)。これは神との正しい契約関係にあるイスラエルの民が,聖所の務めのため、毎日、規則的に、朝と夕、ささげるように命じられた標準的な唯一のいけにえである。常供のささげものとも言われている。〔新聖書辞典(いのちのことば社〕よりの引用。