ダビデの生涯の総括
サムエル記の目次
49. ダビデの生涯の総括
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【聖書箇所】24章1節~25節
はじめに
- サムエル記の中心人物はなんと言ってもダビデです。これまで描かれてきたダビデという人物のいわば「総括」とも言えるのが24章だと言えます。
- そもそも、人間というものは矛盾とも言える部分を持っています。良い面もあれば、人の目には見えない悪い部分をも併せ持っています。ダビデには幼児のような純真な面があるかと思えば、賢く抜け目ない面もあります。Ⅱサムエル記24章はそうしたダビデの実像を私たちに見せてくれています。
1. Ⅱサムエル記24章の位置づけ
- なぜ、24章の出来事がサムエル記の最後の章であるのか、その位置づけの必然性はどこにあるのでしょうか。上記の図のように、Ⅱサムエル記24章は「王国成立記」を内容とするサムエル記と、「王国衰亡記」を内容とする「列王記」の分水嶺に当たる場所に置かれています。Ⅱサムエル記24章は、ダビデを通して示されるイスラエルの神の王制の理念の成立の歴史の頂点であり、同時に、ソロモン以降の王を通して示されるイスラエルの王制の理念の衰亡の歴史の始まりの時点でもあります。そうした視点から24章を味わってみたいと思います。
- Ⅱサムエル記は大きく二つの内容からなっています。前半はダビデの人口調査の罪とそれによってもたらされた神のさばき(1~17節)。後半は「主のために祭壇を築いて、いけにえをささげたこと(18~25節)です。
2. 人口調査に隠されたダビデの罪
- まず、24章1節について注目します。同じ出来事を扱ったサムエル記と歴代誌とでは見方(視点)が以下のように異なっています。
【サムエル記第二】24:1(新改訳改訂第3版)
さて、再び【主】の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。
【歴代誌第一】21:1(同)
ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。
- サムエル記では主語が「主」であるのに対し、歴代誌では主語が「サタン」となっています。これは後に書かれた歴代誌はサムエル記の記述が誤解されないように、別の視点から書き直されたと言えます。いずれも真実であるとすれば、神はダビデに対するサタンの誘惑を許容されたと理解できます。このように理解すれば、24章10節の「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」という意味が通ります。
- この「人口調査に潜むダビデの罪」とはいったい何だったのでしょうか。このことを命じられたダビデの側近ヨアブは、疑心暗鬼に「なぜ、このようなことを望まれるのですか」とその動機をダビデに尋ねましたが、ダビデに説き伏せられてしまいます。しかし、このことでダビデは神のみこころをそこない、結果として、神はイスラエルを打たれたのです。
- 神のみこころをそこなうダビデの罪は、サムエル記がもっている主題に抵触するものだと言えます。つまり、イスラエルの真の王は神ご自身であり、人間の王はあくまでも神の代理者にしかすぎないという、他の国にはない独自の理念を根底から覆しかねない罪だったのです。「人口調査」それ自体が悪いことではなく、それを利用することによって、他の国の王のように私物化する専制君主となってしまう危険をはらんでいたのです。これはイスラエルの王制の理念を根底から覆す罪であり、一国のリーダーにつきまとう誘惑です。
- ヨアブはダビデの命令に従い、「ダンからベエル・シェバまで」(つまり、北から南までの全土を9ケ月かけて)人口調査をしました。ところが、「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」とあります。ちなみに、「とがめを感じた」と訳された原語は「打つ、打たれる」を意味する「ナーハー」(נָכָה)が使われています。ダビデは自分の犯した罪が重大なものであることに耐えられなくなり、心が打ち破られて、神が預言者ガドを遣わされる前に自分の罪を神の前に認めています。ここがダビデのすごさでもあります。だれにも分からない心の深いところに隠されている動機、この動機こそ神に背く罪問だったのです。
- 私たちは普通、バテ・シェバ事件を通してダビデが自らの罪の深さを知ったと考えがちです。バテ・シェバ事件は罪の性質上だれでもよく理解できますが、人口調査の件はその罪の性質がよくわからないために、あまり注目されないところかもしれません。しかし、ダビデが自分の深い罪を自覚し得たのは、この人口調査によってではないかと思われます。人口調査という一見、罪とは無関係に見える事柄の中に、「隠れた野心、自惚れ、王国の私物化」の罪、その罪による神のさばきの大きさ。上に立つ者のよこしまな思いと政策がただちにその者の下にいる者たちに災いとなって跳ね返ってくることに、ダビデは王としての自分の罪の深刻さを思い知らされたに違いありません。
- 事実、このダビデの罪によって、イスラエルの民の7万人が疫病にかかって死ぬことになります。一見、大変な数の人々が犠牲になりましたが、これはひとつの見せしめとしての数です。神の代理者であるイスラエルの王が神の支配から逸脱していくことで、イスラエルの国全体を滅びに招くとすれば(その歴史が「列王記」(王国滅亡記ですが)、7万人どころか、何十万、何百万という人々が犠牲となります。このように24章は、イスラエルの王が神の代理者であることを忘れて他国と同じように専制君主の道を歩むならば、より悲惨な結果がまっていることを見せしめとして教える出来事と言えます。
3. 主のために祭壇を築いたダビデ
- 24章の後半の内容は、ダビデは預言者ガドを通じて、エブス人アナウナの(麦の)打ち場に「主のための祭壇を築く(建てる)」ことを命じられました。それは神罰が民に及ばないようになるためでした。ダビデはその命令に従います。アラナテはダビデに対してその土地と必要なものをすべてささげたいと申し出ますが、ダビデは「どうしても代金を払って、あなたから買いたい。費用もかけずに、神に全焼のいけにえをささげたくない」とアナウナの申し出を断ります。ここにダビデの礼拝者としての真の姿を見ます。
- 神がアナウテの打ち場に「主のための祭壇」を築かせたのには深い理由があります。
(1) 救済史的意味をもった場所
①アブラハムがイサクをささげた場所(モリヤの山)
②ダビデの死後、ソロモンが壮大な神殿を建てた場所
③神の御子イエス・キリストが十字架によって贖罪の死を遂げられた場所
(2) ダビデの幕屋とモーセの幕屋が総合された神殿の場
- ダビデはエルサレムのシオンの丘に、粗末な天幕ではありましたが、神の契約を安置して、その前で画期的な新しい礼拝を改革しました。その礼拝は楽器を伴う新しい賛美による礼拝であり、また精神的なささげもの(義のいけにえ、賛美のいけにえ、喜びのいけにえ、感謝のいけにえ、従順のいけにえ)をささげていました。しかし同時に、動物のいけにえを中心としたモーセの幕屋がギブオンにありましたが、ダビデ自身は一度もそこで礼拝をしなかったようです。
- しかし24章において、ダビデの罪の経験を通して、多くの民が犠牲となったことを踏まえ、王の罪によつて神罰が及ばないための神の手続きを神自らそれを指示してくださったのです。つまり、動物による犠牲(血による贖罪)によって神罰がくだされないように、ダビデ以降のためにもモーセの幕屋形式の礼拝を通して、神とのかかわりを持てるように、恩寵としての「主のための祭壇」をダビデに築かせたと思われます。やがてソロモンが建てた神殿は伝統的な動物のいけにえ制度をもった「モーセの幕屋」と新しい音楽を伴ったいけにえによる「ダビデの幕屋」が総合されたものとなります。その点においても、Ⅱサムエル24章の出来事は神の王制の理念を保つ上で重要な章であると言えます。
2012.8.24
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