****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

セレブレイト・スッコートに向けて


10. セレブレイト・スッコートに向けて

ベレーシート

  • 今年(2015年)に入ってから、これまで、聖日での私の説教担当日では「主の例祭」を9回にわたって取り上げて学んできました。特に、「仮庵の祭り」においては、前篇(5/3)と後篇(5/17)の二回に分けてお話しました。その学びの中で、私はこの祭りをより正しく理解し、一年間の中で最も重要な教会の祝祭として位置づけて、それを毎年継続していくことの必要性を聖書を通して教えられました。そして今日(5/31)は、今年の秋から初めようとしている「仮庵の祭り」の本格的な準備を、今からしていこうという話をしたいと思います。
  • 今年は9月27日(日)~10月4日(日)の8日間が「仮庵の祭り」に当たりますので、当教会もそれに合わせて、「セレブレイト・スッコート」(Celebrate Sukkot)という集会(仮称名)を持ちたいと思います。以前、当教会では「セレブレイト・ジーザス」という集会を正月の1~3日の間に催していましたが、それとは内容も目的も全く異なる集会です。この「セレブレイト・スッコート」にはイェシュアの初臨のお祝いと再臨の待望の双方が含まれています。
  • イェシュアはこの地上に誕生されてから33年半の生涯を送られましたが、その間、神の御子イェシュアは私たちと共に住むために仮庵(幕屋)という肉体に住まわれました。そのイェシュアは十字架において贖いの死を遂げられ、その三日目に死からよみがえられ、天に上り、やがてはこの地上に再臨されます。そして千年間という限定された期間ですが、王として治められます。そこでは旧約聖書が約束しているほとんどすべてのものが実現します。そして最後の審判を経て、最終ステージである「永遠の住まい」としての「新しいエルサレム」が新しい天から新しい地に下って来ます。「セレブレイト・スッコート」はこれから起こる「揺るがない御国」を待望するお祭りです。そのすばらしさについて思う存分に思い巡らす、いわば天国三昧の一週間なのです。
  • セレブレイト・スッコート」は、この祭りから一年が始まるという位置づけです。一年の中心は12月でもなく、1月でもなく、4月からでもなく、仮庵の祭りからです。新しい事を始めるには最もふさわしい時なのです。時期としては9月の末から10月の中旬頃で、毎年、その時期がずれてしまいます。しかし、それは神の時ですから、私たちの都合で変えることはできません。この時期は世界中にいるユダヤ人や主にある者たちがエルサレムに集まって「仮庵の祭り」を祝います。ちなみに、昨年の2014年は10月9日~16日でした。今年は9月27日から10月4日です。エルサレムへ行かずともこの日本において、聖書的・文化創造的な祭りとして迎えたいと思います。
  • セレブレイト・スッコート」の基調は「静謐と歓喜」です。みことばを聞くための「静まり」(瞑想)と、神への賛美を伴う「喜び」です。聖書の中からヒントを得ながら、そのための準備を今からしていかなければなりません。しかし、実は、すでにもう始まっているのです。初めての試みであったとしても、より周到な準備をすることで、すばらしい祝祭を共に過ごすことができると信じます。

1. ネヘミヤの時代に復活した「仮庵の祭り」から学ぶこと

  • ネヘミヤが神の導きと周到な準備によって、破れたエルサレムの城壁を52日間で奇蹟的に再建工事を完成した時はエルルの月の25日でした(ネヘミヤ6:15)。第七の月が間近に迫っていましたが、エルサレムでは不思議なことが起こりました。そのことを記しているのがネヘミヤ記8章です。

【新改訳改訂第3版】ネヘミヤ記8章1~18節
1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、【主】がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。
2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、
3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。
4 学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。
5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
6 エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、
地にひれ伏して【主】を礼拝した。
7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。
8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ。」
11 レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」
12 こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。
13 二日目に、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。
14 こうして彼らは、【主】がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。
15 これを聞くと、彼らは、自分たちのすべての町々とエルサレムに、次のようなおふれを出した。「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい。」
16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。
17 捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。
18 神の律法の書は、最初の日から最後の日まで、毎日朗読された。祭りは七日間、祝われ、八日目には定めに従って、きよめの集会が行われた。


(1) みことばに対する飢え渇き

  • 8章1節をみると「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書をもって来るように、学者エズラに願った。」とあります。「いっせいに」と訳された語彙の直訳は、「ひとりの人のように」です。つまり、上から一方的にエズラがモーセの律法を教えたのではなく、民の方からそれを求め始めたというのです。祭司であり、律法の学者であるエズラは、彼らの要求どおり、第七の月の第一日目に律法を持ってきて水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、それを朗読しました。「第七の月の第一日目」は前にも学んだように、この日は「ラッパを吹き鳴らす日」です。しかしそれについての言及がありません。しかしこのことは預言的です。「ラッパを吹き鳴らす」というその目的は、ある大切なことが近づいたことを告知することだからです。使徒パウロは、イェシュアの空中再臨の前に、「終わりのラッパ」がなることを述べています。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント15章51~52節
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。


【新改訳改訂第3版】Ⅰテサロニケ 4章16~17節
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります

  • 使徒パウロは、空中携挙の前に「ラッパが鳴り」、「ラッパの響きのうちに」主は天から来られて、主にある者たちが携挙されることを記しています。ここでの「ラッパ」とは何でしょうか。実際にラッパの音が鳴り、響くのでしょうか。私はこの「ラッパ」は象徴的なもので、何かを告知しようとする声であったり、教えであったりするものではないかと考えます。これまで聞いたことのない教え、みことばの陰に隠されてきた教えが、まさに「ラッパ」であり、そのラッパが鳴り響くとは、それまで隠されてきた事柄がさまざまな人の声(文書)によって告知されることを意味しているではないかと考えます。
  • イェシュアが宣教を開始されたのは「およそ三十歳であった」とルカは記していますが、「およそ」の部分は、イェシュアの誕生が仮庵の祭りの始まる十五日だとすると、その二週間前の「ラッパを吹き鳴らす日」であったのかも知れません。イェシュアの宣教の内容は「悔い改めなさい。天の御国は近づいた」(マタイ4:17)というものでしたが、その内容は人々が聞いたものとは異なっていたので、民衆はその教えに驚いたとあります(マタイ7:28)。
  • 再び、ネヘミヤ書に戻ります。
    エズラは彼らの要求どおり、第七の月の第一日目に律法を持ってきて水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、それを朗読しました。「すべて聞いて理解できる人たちからなる集団」という表現は、まず大人であり、無関心な者たちではなく、みことばを慕い求めている者たちだということが推察されます。彼らは「夜明けから真昼まで」立ちながら、それを聞いたとあります。これは一種の霊的覚醒、リバイバルの現象です。霊的な覚醒が起こっているときには、肉体的な疲れは感じないものです。なぜなら、霊的な渇きの満たしの求めが先行しているからです。この現象がリバイバルだということのさらなる証拠は、律法が朗読され、またそれをレビ人たちが説明したので、聞いていた者たちがそれを正しく理解して、悔い改めの涙を流したことから分かります。民が律法を聞いて総崩れを起こしたのです。
水の門.JPG
  • 人々が集まった場所が「水の門」の広場であったということもきわめて預言的、象徴的です。なぜなら、そこは「渇き」ということを匂わせるきわめて象徴的な場所だからです。この「水の門」の外には有名な「ギホンの泉」があります。その源泉から「シロアムの池」まで水路が造られました。イェシュアが仮庵の祭りが終わった大いなる日に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と言われましたが、祭りの間、毎日、「シロアムの池」から「水取りの式」が行なわれていました。詳しくは「仮庵の祭り」の前篇を参照。

(2) あなたがたの力を主が喜ばれる

  • 神の律法が朗読された第一日目は安息日とは限りません。しかし「第一日目」は「主のために聖別された日」ですから、安息日と同様に休日でした(8:9, 19)。ネヘミヤは「悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(8:10)と言い、レビ人たちも、民全部を静めながら、「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」と言って、ごちそうを食べるように勧め、人々は、大いに喜んだのです。―まさに、第七の月は「静まり」と「喜び」の月なのです。「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(8:10)とはどういう事でしょうか。ちなみにこの10節の後半を、口語訳は「主を喜ぶことはあなたがたの力である。」と訳しています。新共同訳は「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」としています。いずれにしても、この喜びは、律法(=神のみおしえ、神のことば)を聞いてその意味するところを悟ったからです。真の喜びはみことばが開示されたことから来ると信じます。エマオの途上のイェシュアの弟子たちが、イェシュアから聖書を解き明かされていたとき、「心が燃えるのを覚えた」というまさにその経験です。

(3) みことばを深く知ろうとする熱意

  • もう一つの驚くべきことは、二日目に、律法のことばをさらに深く知るために、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちが、学者エズラのところに集まって来たことです。集まって来たその理由が以下のように訳されています。

【新改訳改訂3】律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。
【口語訳】律法の言葉を学ぶために学者エズラのもとに集まってきて、
【新共同訳】エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、
【バルバロ訳】律法学士エズラのもとに集まったのは、律法のことばを深く知るためであった。

  • ここには、神の律法(みことば)を聞くだけにおさまらず、それをより深く知ろうとする熱意が生まれています。まさにこれは「ベレヤの人々」のようです。というのは、ベレヤの人々は「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)からです。これからイェシュアをメシアとして信じる人々の中から、新しい世代の中から、このような人々が輩出して来なければ、明日のキリスト教会はありません。ベレヤの人々のようにみことばを自ら検証できる者たちが生まれてくることです。しかし、そのような人々はすぐには育たないのです。人材育成には時間がかかりますが、とても重要な取り組みです。神の働きは人を通してなされていく面があるからです。それゆえ、キリスト教会は慣習的な行事に多くの時間や財を費やすことなく、神のみことばを熱心に求め、それを検証できる人材の育成に、より多くの時間と財を投資しなければならないのです。とりわけ今、神のことばを取り扱っている者(教職者)たちの中にこの霊的覚醒が求められています。これからの教会の大きな働きは、ユダヤ的・ヘブル的ルーツの視点から、「御国の福音」のすばらしさを余すところなく論証し、そのすばらしさと豊かさを伝えていくことです。そのためにはそれにふさわしい人材が育成されなくてはならないのです。

(4) みことばによる神の民の育成

  • エズラの使命は、神のみことばによって神の民を育成することでした。彼はそのために神によって備えられていた神の器だったのです。エルサレムの城壁を完成させたネヘミヤが退き、突如、エズラが登場するのは、その重要性を物語っています。エズラはその祭りをしていた七日間、毎日続けて主の律法の書を読み上げました。そして人々は立ちながらそれを聞いていたのです。それは民の中にみことばへの渇きが起こっている確かな証拠であり、それを翌日も求めて来たということは、みことばによる回復が始まったと言えると思います。神の働きは人の熱心さではなく、主のみことばからすべてが始まらなければなりません。そのためには、多くの時間を主の前に静まって、みことばを聞く姿勢が必要です。「マルタではなく、マリアのように」です。なぜなら、真の喜びの源泉はそこに隠されているからです。その意味で、「主を喜ぶことはあなたがたの力」(口語訳)であり、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源」(新共同訳)となるのです。しかもその「喜びを主が喜ばれる」(新改訳)のです。

【新改訳改訂第3版】詩篇81篇1~4節
1 われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。
2 声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。
3 我らの祭りの日の、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ。
4 それは、イスラエルのためのおきて、ヤコブの神の定めである。

  • 詩篇81篇は預言的詩篇です。この詩篇で角笛を吹き鳴らすように命じている祭りとは、「仮庵の祭り」のことです。なぜなら、「新月」と「満月」に吹き鳴らされるのはこの「仮庵の祭り」の時だけだからです。ここでの「新月」と「満月」とは第七の月の第1日目と15日目のことです。最初の角笛は一年の中で最も大いなる祭りの日が近づいたことの知らせであり、15日目は「仮庵の祭り」の始まりを告げる角笛です。1節に「われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。」とあるように、仮庵の祭りの特徴は「喜び」です。そして、主の再臨の日は「仮庵の祭り」の時です。ですから、私たちが今年の秋に、「セレブレイト・スッコート」を計画することは、何よりも主が喜んでくださることなのだということを確信したいと思います。願わくは、この目的のために、神のみことばが「御国」のいろいろな視点から説き明かされることによって、これまでにない「心燃える経験」が与えられることを期待しています。主の前に静まって、新しい悟りの光が与えられる八日間となるように祈りたいと思います。


2. 仮庵の祭りの「8日目」が意味すること

  • 仮庵の祭りは7日間続きます。8日目も同じく休みの日ですが、ヨハネの福音書7章37節では「祭りの終わりの大いなる日」と呼ばれています。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書 7章37~39節
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

  • 上記のみことばはすでに聖霊降臨(ペンテコステ)において実現しましたが、それは最初の聖霊の注ぎです。このみことばが十全に注がれるのはメシア王国においてです。人の心だけでなく、地が癒されることで、荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるようになります。からだも癒やされます。盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられ、足なえは鹿のように飛び跳ね、おしの舌は喜び歌うようになります。これらはすべて「生ける水が流れ出る」ことによる祝福なのです。「水」は真理の象徴です。「真理はあなたがたを自由にする」とイェシュアは言われました(ヨハネ8:32)。
  • さて、「仮庵の祭り」の初日と最終日は休日ですが、その間は普通のように仕事をしたり、学校に行ったりすることは可能です。しかし、あくまでも祭りの期間中ですので、祭りの雰囲気を大事にして過ごさなければなりません。ですから、そのための工夫が必要です。「祭り」の意義は、日々の生活を非日常化することで、最も大切なことを常に意識して過ごすことができるのです。「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」の教会の三大祭は1日だけの祝祭日ですが、「仮庵の祭り」は7日間プラス1日の8日間にわたる祝祭日です。どのようにこの期間を意義あるものとするかは大きな課題です。
  • 仮庵の祭りの「8日目」を「祭りの終わりの大いなる日」と言うのにはそれなりの理由があります。というのは、「8」という数は神と人との新しい契約を象徴する意味があるからです。イスラエルの民が新しく誕生した男子に神の民としての契約のしるしである「割礼」を施したのは、生後8日目でした。神の創造は6日間で終わり、第7日目には創造のわざを休まれました。しかし、第8日目があるのです。「8」は「御国」が完全に実現する「救い」とイェシュアがメシアであることを象徴する数であり、神の新しい創造を象徴する数でもあるのです。

① ノアの洪水後、8人の家族が新しい時代を担う者となった(Ⅰペテロ3:20)。
② メシア・イェシュアの先祖であるダビデ王は、エッサイの8番目の息子です(Ⅰサム17:12)。
③ イェシュアはエルサレム入場後、8日目の日曜日に復活された(ルカ24:1)。
④ 復活後の8日目に、トマスはイェシュアを「私の主、私の神」と告白した (ヨハネ19:26)。
⑤ 「8」という数字はイェシュアを象徴する数で、ギリシア語の「イエスース」のゲマトリアは888。
⑥ 「私たちの救いの神」を意味するヘブル語の「イシュアット・エローヒームヌー」のゲマトリアも888。
⑦ 「8」は2の3乗(2×2×2=8)。これは一辺の長さを2とする立方体の体積と等しい数で、その立方体は「新しいエルサレム」を象徴している。


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  • このようなことから、「仮庵の祭りの終わりの大いなる日」である「8日目」を聖なる日として特別に祝うことはとても意味あることなのです。

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2015.5.31


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