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シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの主への忠誠

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4. シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの主への忠誠

【聖書箇所】 3章1節~30節

ベレーシート

  • いつの時代でも権力者は自分の像(あるいは肖像画)を建てさせる(書かせる)ようでするバビロンのネブカデネザル王も例外ではありませんでした。むしろネブカデネザルは2章の夢にあったように人の像の金でできた頭の部分です。それは歴史における最強の絶対専制君主を意味しています。それゆえ彼が建立した金の像を拝むように強要することは当然のことであり、それを拒む者にとっては危機にさらされます。これは特に「終わりの時代」においてより顕著になっていきます。
  • ヨハネの黙示録においては「大バビロン」という言葉が登場します。この「大バビロン」とは、反キリストを指導者とするその背後にある宗教的・政治的システムを意味します。この反キリスト(獣とも淫婦とも呼ばれる)ネブカデネザルの予型です。
  • まこのと神のみに信頼して生きようとするなら、いつの時代でも迫害を受けることを覚悟しなけばなりません。主イエスも「義(神への忠誠を貫くこと)のために迫害されている者は幸いです。」と言われました。なぜならね天の御国はその人のものであり、天において受ける報いは大きいからです。ネブカデネザル王をして感嘆させた三人の若者たちの信仰の忠誠はいつの時代においても語り告げられるべき話と言えます。
  • ちなみに、3章ではダニエルは全く登場していません。ダニエルの三人友人に焦点が当てられています。

1. 火の燃える炉の中に投げ込まれた三人の者の信仰

  • ユダヤ人を訴える者たちによって、王の脅しに屈することなく、王の金の像を拝まなかったという罪で「シャデラク(שַׁדְרַךְ)、メシャク(מֵישַׁךְ)、アベデ(עֲבֵד)・ネゴ(נְגוֹ)」の三人の者たちが火の燃える炉の中に投げ込まれることになりました。怒った王は、炉の熱さを普通よりも七倍するように命じました。その激しい熱さは彼らを炉まで導いた者たちが焼き殺されるほどでした。
  • 偶像礼拝を強要する王とそれを拒絶する三人の者たちのやり取りを見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】3章15~17節

    15 「もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
    16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

  • 「しかし、もしそうでなくても」というフレーズは神の主権性に対する信仰として有名です。口語訳では「たといそうでなくても」と訳され、新共同訳では「そうでなくても」と訳しています。英語訳は、But if not です。
  • 炉の中に投げ込まれた若者たちを見たネブカデネザルの目には、何の害も受けず、なわを解かれて歩いている四人の者が見えました。しかも第四の者の姿は神々の子のようでした。ここの「神々の子のような」者とは、三人の者を助けるために神から遣わされた者でした(3:25b)。御使いの一人とも、あるいは、受肉前の御子イエスだとも解釈されています。

2. ネブカデネザル王の驚きと彼らに対する称賛

  • 2章では、ダニエルが王の夢とその解き明かしをしたことで、王からの称賛を得ましたが、3章では、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人の主に対する忠誠と、彼に対する主の奇蹟的な守りを目の当たりにして、賞賛しています。「死に至るまで忠実であれ」とは御霊なる神の声です。そのような者に、御霊は「いのちの冠を与えよう」と約束しています(ヨハネの黙示録2:10)。
  • ネブカデネザルが発した「いと高き神」ということばは聖書で57回使われていますが、聖書で最初に出て来る箇所は、アブラハムを祝福しようとして出て来た王であり祭司の「メルキゼデク」のことばのなかにあります。「いと高き神」をヘブル語では「エール・エルヨーン」と言います。原語表記では以下のように記されます。

画像の説明

  • ちなみに、「エルヨーン」のアラム語表記は「イッラーイ」(עִלָּיא)です。「いと高き方」とは、神の絶対的な主権を強調するときの呼び名で、ダニエル書の4章と7章で9回登場します。ダニエル書の特愛用語です。

3. 予型論的視点から

  • 予型論(脚注)的視点からこの3章の出来事を見るならば、この出来事はやがてイスラエルの民に降りかかる苦難(患難)から救われるという預言とも言えます。
  • エレミヤ書30章7節には全イスラエルに対する神の約束か記されています。「ああ、その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそこから救われる。」と。ここでの「ヤコブ」とは、北イスラエルと南ユダを含む全イスラエルと考えられます。彼らは「その日」、すなわち「終わりの日」、メシア王国の到来前に起こると預言されている大患難時代を意味します。「火」はしばしば神のさばきを意味しますが、その神のさばきは救いに至る産みの苦しみでもあります。神の民イスラエル(ユダヤ人)は、反キリストによって火の炉の中に置かれるような経験をしますが、必ずそこから救われることをエレミヤは預言しています。
  • ダニエル書3章の3人の若きユダヤ人(シャデラク、メシャク、アベ・ネデゴ)は火の炉の中に置かれても焼き殺されることがなかったように、神はご自身が選ばれた民ユダヤ人を大患難から必ず救われることを予型的に語っていると言えます。
  • 「終わりの日」の大患難はユダヤ人に対するものです。教会は大患難時代の前に携挙されています。しかし、使徒ペテロはローマの迫害に遭おうとしているキリスト者に対して、次のように語っています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ4章12〜13節

    12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
    13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。



脚注

●救済史的解釈の代表的なものとして「予型論」(Typology ))と言われるものがあります。新約聖書の例では、モーセが荒れ野で上げた青銅の蛇はキリストの十字架の予型であり、三日三晩大魚の腹の中にいたヨナがはきだされたのはキリストの復活の予型である、というものです どちらもイエス御自身が語られたものですので予型論はキリスト教的旧約解釈のもっとも基本と考えられます。つまり、キリストによって完成した救済の出来事から旧約聖書の出来事、人物などの霊的意味を解釈します。

●予型論は聖書解釈の主題としての寓意(Allegory)と混同してはなりません。寓意的解釈の特徴は、歴史的事実やその箇所の言葉の釈義には関心がなく、むしろ説教者自身が他の人に伝えたいことをその箇所に読む込んでいるだけです。しかし予型論的解釈は、新約聖書の自身の歴史理解の中心にあるものなのです。


2013.8.13


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