****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストによる凱旋の行列とキリストの香り


2. キリストによる凱旋の行列とキリストの香り

べレーシート

●2章1節に「私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない」ということば、3節の「あの手紙を書いたのは」ということばが記されているように、Ⅱコリントの手紙の前に、パウロは「コリント人への手紙第一」を書いたのですが、この手紙によっても問題が解決しなかったため、パウロ自身がコリントを直接訪問したのです。これが「悲しみの訪問」と呼ばれています(Ⅱコリント2:1、13:1)。エペソに帰ったパウロは「悲しみの手紙」を書きます(Ⅱコリント2:4、7:8~9)。そしてテトスがこの手紙をコリントに届けるために遣わされます。その後、パウロはエペソを離れて北上し、トロアスへ行きます(Ⅱコリント2:12)。そこでテトスに会えなかったので、パウロは不安を抱きます。しかしマケドニアでテトスに会うことができ、テトスからコリントの教会の人々が悔い改めたという喜びの報告を受けました(Ⅱコリント2:12,7:5~16)。テトスの報告を受けたパウロは「コリント人への手紙第二」を書き、再びテトスに託してこれを送りました(Ⅱコリント8:16~24)。

●1節の「悲しませる訪問は二度としない」と3節「あの手紙」の「手紙」とは、「悲しみの訪問」「悲しみの手紙」です。これはコリントの教会の一人が、赦すことのできないほどの罪を犯してしまい、そのことが教会の人々に大きな衝撃を与えたことで、コリントの教会のために心を配っているパウロも非常に心痛む思いをしたようです。この出来事が何であったのか、また事の張本人が誰なのかは記されていません。ただ「その人」という言い方で記されています。「その人」が犯した罪が何であったのか記されていませんが、確実にその教会にとって大変なことが起こったことが分かります。その事件を契機に、教会はその人に対してどういう態度を取るべきか、教会とは何なのかということについて言及したのがこの手紙です。

●今回は二つのことを取り上げてみたいと思います。第一に、7, 8節を中心に「教会は愛と赦しの共同体」であること。第二は14節を中心に「教会はキリストの香りを放つ証しの共同体」です。

1. 愛と赦しの共同体としての教会

●お金や性に関することで不祥事を起こした場合、即刻、容赦なく免職されます。この世における制裁ははっきりとしています。もし、そのようなことが教会で起こってしまった場合、教会はどのような態度を取るべきなのでしょうか。パウロは短い間でしたが、コリントの教会を訪問し、罪を犯した、教会の名誉を傷つけた人に対して、相当手厳しい処置をしてコリント教会を悲しませたようです。そしてもう一度パウロは訪問しようとしましたが、思いとどまりました。なぜなら、1節にあるように、「そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました」とあるからです。本当は訪問したいが、訪問することによって、結果的にこれ以上あなた方の悲しみを増すようなことになってはいけないという牧会的配慮からでした。そして手紙を書いたのです。これは失われてしまっていますが、「悲しみの手紙(涙の手紙)」なるものを弟子のテトスを通じて書き送りました。4節を見ると、パウロはその手紙の目的を次のように記しています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章4節
私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。

●厳しさを伴う愛というものを経験したことのない人がクリスチャンになると、しばしばその厳しさにつまずいたりしやすいものです。厳しいこと、すなわち愛がないと思ってしまうからです。しかし聖書の神の愛は、厳しさを伴う愛です。なぜそれが分かるかと言えば、6節に「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから」と記しているからです。「あの処罰」と言うことで、パウロはその処罰の内容さえも言及していません。当事者たちだけ分かればよいのです。「あの処罰」とは何かと私たちが詮索することは一つの罪なのです。ある人がはっきりと「ある処罰を受けた」という事実を記すだけで十分なのです。

●パウロは第一の手紙でははっきりと「パン種を除け」とか、「そのような人を避けなさい」という厳しい言い方をしています。事実そのようなことが起こったからです。しかしコリントの教会の人たちははっきりと「除いたり」「避けたり」することはできなかったのです。なぜならそのような権威がなかったからです。そこでパウロは教会を守り、建て上げるために与えられた使徒としての権威をもって、厳しい処置をしたのです。今日の教会においても、ある教団教派の教会では除籍という処置、ないし礼拝出席の停止や聖餐式にあずかることを停止させる処分があるようです。これらの処置の目的は、教会の秩序ときよさを守るためであり、また処置を受ける本人のために取られる手段です。もっともこのような処置については慎重さが求められることは言うまでもありません。

●しかし往々にして、日本の教会は、甘えの構造ではありませんが、寛容さが前面に押し出されて、「教会というところはそんなに厳しいところであってはならない。愛のあるところだから」と思ってしまいます。しかしパウロのいう愛は厳しさが伴った愛でした。愛するゆえにそのような処置を取ったということです。ではどのような愛なのでしょうか。それは罪を犯した者にもう一度悔い改めのチャンスを与え、その悔い改めが見られるならば、たとえどんな罪を犯した者であったとしても、受け入れるべきであるとする愛です。こうした処置は、実は神が取られた態度でした。つまり、厳しい処罰を受ける者が神の前に立つことができないようにしてしまってはいけない、その人に対する愛があるかを確認するようにと言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章7~11節
7 あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
8 そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。
9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうか、試すためでした。
10 あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
11 それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。・・・・

●おそらくパウロの処置は、自分が教会に受け入れられた時の経験がもとになっているのかもしれません。使徒の働き9章で「天からの光」に照らされたサウロに対して、主はダマスコに住む弟子の一人アナニヤを遣わされました。それはサウロに対する主のご計画を告げるためであったのですが、主がなぜアナニヤという名の弟子を遣わされたのでしょうか。そこには主の隠された必然的配剤がありました。

●「天からの光」を受けたパウロは目が見えなくなりましたが、祈っていると、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのでした。一方のアナニヤは、「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」と告げられます。しかしアナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」。そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

●当初ためらいを感じたアナニヤに対して、主はサウロに対するご計画と使命とを告げます。このことはとても重要なことで、サウロに対する主の啓示が自分だけではなく、アナニヤという第三者にも啓示されたということです。アナニヤこそサウロに対する主のご計画と使命を示された人物だということです。彼は「律法に従う敬虔な人で、そこ(ダマスコ)に住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い」人でした(使徒22:12)。このアナニヤという仲介者を通して、サウロは「兄弟サウロ」として教会の中に受け入れられることになったのです。サウロはアナニヤが自分のところに遣わされたことによって、主のあわれみを受けるという象徴的出会いを経験したのではないかと考えられます。

●この象徴的出会いは必然です。というのは、主がそのような出会いを与えたからです。「アナニヤ」という名前は、ヘブル名では「ハナヌヤー」(חֲנַנְיָה)となります。これは「恵む、あわれむ」を意味する「ハーナン」(חָנַן)と、「主」を意味する「ヤー」(יָה)が組み合わさった名で、「主があわれんでくださった」という意味になります。ギリシア語表記では「アナニアス」(Ἁνανίας)となっているために、【新改訳2017】では「アナニア」に改定されていますが、以前の訳では「アナニヤ」となっています。「アナニア」ではなく「アナニヤ」(正確には「ハナヌヤー」)だと、主がなぜ彼をサウロのもとに遣わしたのかその必然性が理解できるのです。

●Ⅱコリント書に戻りますが、パウロは「赦すように」と言っています。しかし無頓着に赦すのではなく、一つの制裁が必要です。その制裁とはその者が神の前に「悔い改める」ということです。もしその人が悔い改めるならば、赦すべきです。そしてひとたび赦すならば、それについては忘れなければなりません。あとあとまでも尾を引くようなことをしてはならないのです。「アナニヤ」がそうしたように、赦し、受け入れなければなりません。

●赦すということは私たちにとって最も難しいことですが、赦しは私たちの敵であるサタンの策略に打ち勝つ最も強力な武器なのです。ですから、私たちはサタンの策略を見抜いて、それに立ち向かわなければなりません。ではどうやって立ち向かうのでしょうか。「キリストの御前で赦す」ということです。「キリストの御前で赦す」とはどういう意味かといえば、キリストが私たちを赦してくださったように、人を赦すということです。これができないばかりに、争いは絶えることがないのです。キリストの教会は「愛と赦しの共同体」です。教会とて人間の集まりですから、問題が起こる可能性は多々あります。しかしそうしたことがもし起こった場合にどうするかが問われているのです。明確な制裁をすることは簡単です。しかしその者が神の前に悔い改めることを願い、もし悔い改めるなら心から受け入れなければならないのです。この時、愛をもってなされた処置であったかどうかが明らかになるのです。

2. キリストの香りを放つ証しの共同体としての教会 

●教会は「愛と赦しの共同体」であると同時に、「キリストの香りを放つ証しの共同体」であるということです。14~15節を見てみましょう。

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章14~15節
14しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

(1) 神への感謝  

●ここでパウロはどうして「しかし、神に感謝します」と言っているのでしょうか。12~13節を見てみましょう。

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章12~13節
12 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、
13 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

●「トロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられました」にもかかわらず、「心に安らぎがありませんでした」とあります。「心に安らぎがなく」とは何と人間的でしょうか。この続きは実は7章5節につながっているのです。そこを見てみましょう。

【新改訳2017】Ⅱコリント書7章5~6節
5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。

●「心に安らぎがなかった」のが、なぜ慰められたのでしょうか。パウロはコリントの教会を愛するゆえに手紙を書いたものの、相当厳しい内容であったために、内心心配していたのです。この手紙によってコリント教会がどうなったのか、かえって教会を建て上げることを難しくしたのではないか、書かなければよかったのではと内心恐れ悩んでいたのです。ですから、働きの新たな門が開かれているにもかかわらず、うわのそらで、思いはコリントの教会のことでいっぱいだったのです。そのうえ、手紙を託したテトスもなかなか帰ってこない。気が気でならない。そのようなときにテトスに会えたのです。彼の報告によれば、パウロの書いた手紙によって、コリントの教会の人々がパウロの心を正しく理解し、問題を起こした人も悔い改めて、コリントの教会の人々が、愛をもって彼を受け入れることができたというものでした。パウロはそうしてくださった神を、「気落ちした者を慰めてくださる神」として感謝したのです。

●中世の偉大な神学者と言われたアウグスチヌスという人はこう言っています。「神の導きというのは、私たちの目にはなかなか理解できない。それは織物の裏側を見ているようである。しかしその表には神が織りなすすばらしい模様が描かれているのである」と。ですから、いつも「神に感謝」なのです。

●ある姉妹が救われる前に、あるクリスチャンホームの家庭集会に招かれたそうです。その家庭の玄関に聖書の言葉を記した壁掛けがあったそうです。何と書かれていたのかというと、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)でした。彼女はこの言葉を見たとき、驚きました。そんなこととても不可能だと感じたそうです。彼女はその頃とても喜べるような精神的状況ではなかったからです。心の中は欲求不満と葛藤と仕事のストレスで,体もやせ細っていました。でも、あり得ないという思いと同時に、心のどこかで、そんな生き方ができたらどんなにかすばらしいだろうと思ったそうです。彼女はやがて救われ、それまでの心の束縛から解放され、ずっとなかった月のものがはじまったそうです。

(2) 感謝の理由―①「キリストによる凱旋の行列に加えられた」ゆえに

●「いつも喜んでいる」「絶えず祈る」「すべてのことに感謝する」・・こんな生き方をキリストにあってさせていただくことができるのです。なぜなら、「神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え・・てくださいます」(Ⅱコリント2:14)とあるからです。「凱旋の行列」という言葉の「凱旋」とはヘブル語の「シューヴ」(שׁוּב)で、神に立ち返ることを意味します。旧約ならば捕囚からの解放、繁栄の回復というところですが、パウロはキリストを通して神に立ち返るイメージを「勝利による凱旋の行列に加えられる」と表現しました。「凱旋の行列に加えられる」は、ギリシア語「スリアンビューオー」(θριαμβεύω)の分詞が使われて、新約聖書ではこの箇所の他に、コロサイ書2章15節でも使われています。

(3) 感謝の理由―②「キリストの香りを、いたるところに放ってくださる」ゆえに

●さらにパウロはここで神に立ち返った者たちのことを、キリストの「香り」(「オスメー」ὀσμή)ということばを使っています。英語ではfragranceとかThe sweet aromaと訳されますが、これは旧約のささげものの概念です。ヨハネの福音書12章3節のイェシュアの足に塗られた「ナルドの香油」以外はすべて、パウロが使っている特愛用語(5回)です。ヘブル語訳は「レーアッハ」(רֵיחַ)で、神へのささげものの香りを意味します。その初出箇所は創世記8章21節です。

【新改訳2017】創世記8章21節
【主】は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で【主】はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。

●主が「その芳ばしい香りをかがれた」の「香り」に「レーアッハ」(רֵיחַ)が使われています。「かがれた」は「レーアッハ」の動詞「ラーヴァハ」(רָוַח)の使役形(ヒフィル)で、その香りに「満足する、喜ぶ、受け入れられる」ことを意味します。ノアが主のために祭壇を築いてその上で全焼のささげ物を献げたことによって、ノアとその家族とは主によって受け入れられたのです。ですから「香り」とは、神に受け入れられた者のことを指しています。「私たちを通してキリストの香りを、いたるところで放ってくださいます。」とは、どういうことでしょうか。それをローマ人への手紙8章28節によって言い換えてみましょう。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 8章28節
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

●すなわち、神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、「すべてのことがともに働いて益となること」、この神の善を知ることこそが、「キリストを知る知識の香りを放つ」ということではないでしょうか。そのことを神に感謝しながら、いたるところで証ししていく共同体こそ、教会のあるべき姿と言えるのではないでしょうか。

2019.2.14


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