****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

カタルシスとしての嘆き

(30) カタルシスとしての嘆き

(1)

  • カタルシス>・・・この言葉は、もともと体内に溜まった汚物を対外に排出して体内を浄化するという意味のギリシャ語です。生理的な用語であった<カタルシス>を、精神的に適用したのはアリストテレスが初めてだと言われます。彼は、「詩学」(BC330頃)の中で、ギリシャ悲劇の解釈のひとつとしてこの言葉を用いました。つまり、観客がギリシャ悲劇を好むのは、観客が悲劇を見る中で、主人公に自分を重ね合わせることで、なんらかの浄化作用が働くとしています。つまり、「悲しみや苦悩への共感」ーそれがカタルシスを呼び起こし、心のいやしをもたらしているのです。
  • また、カタルシス効果(浄化作用)は「悲しみや苦悩への共感」だけではなく、「心情を言語化すること」によってももたらされます。誰かに話を聞いてもらうことによって、心の奥底にあるものを出してすっきりさせることは、私たちのだれもが日常茶飯事的に経験していることです。話しかける相手がいる場合もあれば、日記を書くことで自分に語りかけることもあります。いずれにしても、そうすることで私たちはなんらかのカタルシスを経験しているのです。
  • 詩篇の世界では、自分の心にある鬱積した感情を神に訴えることによって、あるいは、自分の魂に語りかけることによって、神から与えられるカタルシスを経験しています。特に「嘆きの詩篇」といわれるものはそうです。そしてそれを記すことで、同じ悲しみの境遇にある者たちに共感を与えているのです。詩篇が、時代を越えて、多くの人々に読まれ、多くの人々から尊ばれてきたのも、そうした詩篇のもつカタルシス効果のゆえだと信じます。このカタルシスは単なる気晴らしや楽観的な思考、あるいはパフォーマンス的な行為によっては決して得られないものだと信じます。

(2)

  • 詩篇には、苦悩する心の叫びや怒り、悲嘆や失望が表わされています。決してきれいごとが綴られているわけではありません。人間の醜さもそのまま綴られているのです。だからこそ、詩篇がいつも身近に感じられるのかもしれません。
  • 現代は心の病、特に、「うつ」になる人が増えています。「うつ」は決してはずかしい病ではありません。これは人間であるゆえの病です。たとえば、人との結びつきが、なんらかの理由によって絶たれてしまうなら、心は不安と孤独と恐れでいっぱいになります。人間は関係性の中で生きる存在であるゆえに、その関係性に傷つくと心が病むのです。生きていれば、必ず、心に傷を受けます。それを避けて通ることはできません。心が病めば、それは身体にも表われます。詩篇の世界にはそうした現実に悩む者たちの叫びがありのままに記されています。しかし、その苦しみを言葉に出すことによって、カタルシス、つまり、心のいやしがなされるのです。
  • また、詩篇の中には矛盾した人間の姿があります。光と闇、信頼と恐れ、愛と憎しみが入り混じっています。そこに私たちは共感を覚えます。なぜなら、私たち自身が矛盾に満ちた存在だからです。たとえば、表面的には祝福された信仰生活を送りながら、ふと、深い虚無感(空しさ)に襲われることがあります。なぜそうなるのか分かりませんが、虚無感は間違いなく私たちの生きる力を喪失させます。しかし、やがてその苦しみは、私たちに、永遠の相の下で物事を見る新しい視点を与えてくれるチャンスを与えてくれます、つまり、神にあって、深い、本当の希望をもたらしてくれるのです。

(3)

  • 人はどうして涙を流すのか。嬉し涙、感動の涙があれば、悲しみの涙、寂しさの涙、失意の涙、悔し涙もあります。人が流す一粒の涙の意味は実に深いものがあります。旧約聖書には「涙」ということばが39回使われていますが、そのうちの12回が詩篇の中にあります。詩篇の涙は、「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(詩56篇6節)に代表されるように、ほとんどが嘆きの涙、悲しみの涙です。しかしその涙が涙で終わりません。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30篇5節)、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所」(詩篇84篇6節)となるのです。その秘訣を知ることこそ詩篇瞑想の醍醐味です。
  • 「人前で泣くのはみっともありません」「男の子はめったなことで泣くものではありません」と言われて育った子は、泣き虫は、悪い子、弱い子、意気地なしというイメージを持っています。しかし、泣くこと、涙を流すことは決して悪いことでも、弱いことでも、意気地のないことでもありません。それは人間の素直な感情です。感情こそ、その人が最もいいたいこと、伝えたいこと、本心なのです。そしてそのような涙を心底受け止めてくれる存在を私たちは求めているのです。しかし、自分の流す涙を受けとめてくれる人がいつもいるとは限りません。孤独の中で私たちが流す涙のすべてを見ていてくださる方がおられます。その方こそ神です。そのことに気づかされるとき、私たちの心はいやされ、勇気が湧いてくるのです。詩篇はそんな勇気を私たちに今日も与えようとしてくれています。

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