****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

エルサレム崩壊とダニエルの七十週の預言


103. エルサレム崩壊とダニエルの七十週の預言(オリーブ山の説教①)

【聖書箇所】マタイの福音書24章1~14節

ベレーシート

●マタイの福音書24~25章に関する説教をかつてしたことがあります(1986.4~7 )。35年前です。その時の手書きの原稿が残っていてそれを読むことができるのですが、何も知らずに語っていたことに驚かされます。かと言って、今自信をもって語れるのかと問われるならば、終末の預言だけに緊張が走ります。というのは、終末預言の解釈は多くあって、それぞれがそれなりの独自の視点をもって語られているからです。とりわけ、マタイの福音書におけるまとまった終末預言の中には、明らかに「携挙」について語られています(24章32~51節)。この携挙に関して三つの解釈があります。患難携挙説、患難携挙説、患難中期携挙説の三つです。私はこれまで患難前携挙説の立場をとってきました。しかし今、一旦それを保留にし、講解説教に取り組む中で再度決定したいと思っています。自分の解釈に固執するのではなく、そうでない解釈にも謙虚に耳を傾けていく姿勢を持ちたいと思っています。それだけに私にとっては緊張が走る期間です。

●1820年以降にブラザレンが台頭したことで、マタイの福音書の24~25章にある終末預言に関する啓示が大きく開かれる契機となったことは事実です。終末預言はサタンの敗北が明らかにされる内容だけに、サタンも必死になって多くの惑わしを与えてこの教えを混乱させ、脱線させようとしてきました。それだけに終末に関する教えはきわめて重要だとも言えます。主にある教会がこのことによって分裂しないように、十分警戒しなければなりません。

1. エルサレム神殿崩壊の預言

●今回は24章1~14節を扱います。その箇所は直前にイェシュアが語られた内容(23:37~39)と密接に関係しています。再度、読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書23章37~39節
37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

●38節の「おまえたちの家」とはエルサレム神殿のことです。それは「主の家」のはずですが、すでにそこは「主の家」ではなく、「おまえたちの家」となり、かつ「祈りの家」ではなく「強盗の巣」と成り果てているために(マタイ21:13)、イェシュアはその家は崩れ、「荒れ果てたまま見捨てられる」と預言されたのです。それはまさに創世記1章2節にある「茫漠として何もなく」(「トーフー・ヴァヴォーフー」תֹהוּ וָבֹהוּ)といった状態になるということです。これはイスラエルの歴史の中でバビロン捕囚という形で経験しています。それが再度、起こることをイェシュアは預言されたのです。今日のテキストを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書24章1~2節
1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

●2節は「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか」と訳されていますが、原文では「あなたがたはこれらの物すべてが見えないのですか」となっています。ニュアンスが異なります。イェシュアが見ているものと弟子たちが見ているものとの違いが分かります。私たちは目に見えるもので判断しがちですが、イェシュアは霊の目で見ています。つまり、目に見えないものを見ておられるということです。パウロも言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント人の手紙4章18節
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

●エルサレムに起こる悲惨な出来事を、ルカの福音書は以下のように記しています。

【新改訳2017】ルカの福音書19章41~44節
41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。
しかし今、それはおまえの目から隠されている。
43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

●エルサレムの完全な破壊という出来事がいかに悲惨なものであったか、ユダヤ人の歴史家ヨセフスが「ユダヤ戦記」(山本書店)の中に詳しく書いています。ヨセフスは当時の現場を見た当事者です。その序文に「わたしヨセフスは、マッティアの子、エルサレム出身の祭司であり、戦争の初期には自らローマ人と戦い、のちには心ならずもやむなく、観戦者となった者である」と述べて、客観的な視点からエルサレム崩壊の史実を書こうとしています。「ユダヤ戦記」では、エルサレム崩壊と神殿が焼き払われたのはローマ人カエサル・ティトスの意に反してのことで、真の要因はユダヤ内部抗争によることだとしています。機会があれば読んでみてください。

●エルサレムと神殿の破壊は、かつてのバビロンによるエルサレム陥落の出来事の再来であると同時に、終わりの日の反キリストによる大患難の予型です。今現在も依然としてエルサレムには神殿がない状態ですが、やがて大患難の中でイスラエルの残りの者に神が「恵みと哀願の霊」を注ぐことによって、彼らはイェシュアこそ本当のメシアであったことに気づかされ、その彼らが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』(「バールーフ・ハッヴァー・ベシェーム・アドナイ」)と叫ぶ時に、再臨のメシアを見るようになるのです。この話をした後でイェシュアは宮を出て行かれました(24:1)。弟子たちがイェシュアの後を追い、近寄って来てイェシュアに「宮の建物を指し示した」とあります。面白い表現です。弟子たちはことばではなく、態度でそのようなことは信じられないという思いを示したのです。彼らはイェシュアの語ったことばを聞いておそらくショックであったはずです。

2. 弟子たちの質問

【新改訳2017】マタイの福音書24章3節
「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」

●この彼らの質問には三つあります。
①「いつ、そのようなことが起こるのか」(23:38~39も含めて)
②「あなたが来られるしるしはどのようなものか」
③「世が終わる時のしるしはどのようなものか」

●これらの質問に対してイェシュアは答えられますが、その答えは以下のように、三つの対象があります。
①選民であるユダヤ人に対して(4~31節)
②(イェシュアをメシアと信じるユダヤ人と異邦人クリスチャンを含む) 教会に対して(24:32~25:30)
③(選民イスラエルに接する)異邦人に対して(25:31~46)

3. 御使いガブリエルが伝えた「七十週の預言」

●神殿崩壊の預言は、事実、A.D.70年にティトス(タイタス=Titus)・カエサル率いるローマ軍によって成就することになります。では、その後はどうなるのでしょうか。「荒れ果てたまま見捨てられ」たままなのでしょうか。神殿の崩壊と同時に世界に離散してしまう神の民イスラエルは一体どうなってしまうのでしょうか。実は、神の民とエルサレム神殿に対する神のご計画について、ダニエルに与えられた預言があるのです。その預言について簡潔に学んでみたいと思います。

【新改訳2017】ダニエル書9章24~26節
24 あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うためである。
25 それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。
26 その六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。

●24節で「七十週」が定められているのは、神の民と聖なる都エルサレムに対してです。このことが重要です。両方揃うことで神のご計画は実現するのです。どちらか一方が欠けても神の計画は実現しません。「七十週」とは「七年の七十倍」という意味で、490年という期間に、以下の六つの項目が完全に実現するということです。もう一度確認しておきたいことは、これはイスラエルの民と神殿にまつわる項目です。

①「背きをやめさせる」②「罪を終わらせる」③「咎の宥めを行う」
④「永遠の義をもたらす」⑤「幻と預言を確証する」⑥「至聖所に油注ぎを行う」

●24節は結論の部分で、25~27節はその説明となっています。つまり25~27節は24節の事柄が実現するためのプロセスを説明しています。その視点で再度24節を見ると、①②③はイスラエルの背き、罪、咎に対する神の先取的恵みの行為です。これによって神とイスラエルの関係に永遠の義がもたらされ、神がそれまでイスラエルの民に約束してきたご計画のすべてが実現し、神が本来座すべき至聖所に油注ぎがなされます。つまり神の栄光がそこに取り戻されることを意味しています。このように、ダニエルに示された七十週の預言は、「メシアによって統治される王国」が神の主権によって建てられるというものです。

●弟子たちの質問に対する答えは、「七十週の預言」のプロセスとリンクします。それをイェシュアが語られのがマタイ24章3~31節なのです。今回は3~14節にある「最後の一週の前半」(三年半)までを扱いたいと思います。ダニエル書の預言で言うなら、9章27節の「彼(反キリスト)は一週の間、多くの者と堅い契約を結び」という部分までです。その後にある「半週の間(口語訳「その週の半ばに」)、いけにえとささげ物をやめさせる忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる」の部分は、次回に取り上げる予定です。長い間、不妊の女であったイスラエルが初めて「苦しんで子を産む」話となっています。

●ダニエルの七十週の預言の説明部分である25~27節を見てみましょう。25節「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週(7×7=49年)。そして苦しみの期間である六十二週(7×62=434年)の間に、広場と堀が造り直される。」とあります。なぜここで「七週」と「六十二週」の二つの期間に分かれたかといえば、それは「広場と堀」が二度建て直されたからだと考えられます。「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出た」のは、ペルシア王キュロス王がエルサレムを回復し再建せよとの「命令」を与えた時が最も自然な解釈ですが、B.C.という年代は聖書にはありません。イェシュアが「油注がれた」時は公生涯に入られる洗礼の時です。七十週預言の起点とて考えられるのは、B.C.457年のペルシアの王アルタシャスタ王の第七年目と理解する説(ダニエル9:25/エズラ記7:11~26)に従えば、7週と62週の後、すなわち483(7×7+7×62=49+434 =483)年後であるA.D.27年にメシアは公の働きを初め、その三年後に十字架に磔にされることによって、「油注がれた者は断たれます」(ダニエル9:25~26)という預言が成就します。

●26節の「油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない」の「油注がれた者」とはイェシュアのことです。その彼が「断たれ、彼には何も残らない」とは、イェシュアが十字架の上で殺されることを意味しています。そして、「次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する」の「次に来る君主の民」とは、直接的にはティトス率いるローマ軍のことで、彼らによってエルサレムと神殿が破壊されることを意味しています。直接的にはと言ったのは、これが型であって、27節の「終わりの日」に起こる「獣と呼ばれる反キリストによる出来事」を預言しているからです。この反キリストが登場することによってイスラエルの民とエルサレムに対する神の計画が実現するのです。このように将来のことを知ることで、ゆるぎない希望が与えられることになるのです。

4. 選民であるユダヤ人に対して(4~31節)、大患難の前(14節)まで

【新改訳2017】マタイの福音書24章4~8節
4 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
6 また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。
そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
※「民族は民族に」は内戦、「国は国に」は戦争、戦争が起こると食糧難となり飢饉ともなります。また地震も起こります。
8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

●「産みの苦しみ」とは、女であるイスラエルが信仰の民(残りの者)を生み出すための苦しみであり、すなわち陣痛の始まりを意味しています。この女イスラエルのことを「不妊の女、産みの苦しみを知らない女」(イザヤ54:1)と聖書は呼んでいます。出エジプト記1章12節には、イスラエル人が苦しめば苦しむほど、ますます増え広がったので、エジプト人は彼らを恐れたことが示されています。ですから、イスラエルが「不妊の女、産みの苦しみを知らない女」と呼ばれることは腑に落ちないかもしれません。しかし、ここで言われている「不妊の女」、「産みの苦しみを知らない女」とは、メシアにつながる子孫に関して不妊であり、産みの苦しみを知らない女という意味なのです。すでに創世記3章16節にそのことが預言されています。「女にはこう言われた。『わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。』」

●ここで語られているのは、罪を犯した者に対する神の刑罰としての出産の苦しみではなく、神のご計画の実現・成就のためには必ず「産みの苦しみ」があるということです。実際には、マタイ24章21節で語られているように、「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難」です。この大きな苦難によって、女はイェシュアがメシアであることを信じる子孫(残りの者)を産むのです。それが「産みの苦しみ」ですが、イスラエルはすでに二千年近くも「産みの苦しみの始まり」が続いているのです。A.D.70年以降、今もなおイスラエル(ユダヤ人)は迫害と反ユダヤ主義で苦しんで来ているのです。

9 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
10 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

●キリスト教の歴史を見るなら、世界各地に離散したユダヤ人たちは、異邦人であるクリスチャンから迫害され、殺されてきました。それは彼らが得体の知れない異質な存在であったからです。その一例を挙げるならば、中世に起こったペストの流行はヨーロッパ各地に恐怖とパニックを引き起こしました。当時、それがペスト菌によるものだと分からず、その矛先が得体の知れないユダヤ人に向けられてしまったのです。そもそもユダヤ教の戒律には衛生面に関しての取り決めが事細かに定められ、それを忠実に守っていたユダヤ人と、そうではないヨーロッパの人々の間に差が表れてしまったのは言うまでもありません。そのことからユダヤ人陰謀説が生まれ、迫害を受けたのは想像に難くありません。そのことから、ユダヤ人の多くの人たちがつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

●11~14節はイェシュアが昇天してから今日までのことを表わしていますが、やがてダニエルの七十週の預言の最後の七年間の前半(三年半、42ケ月間)に、ユダヤ人と反キリストが七年間の契約を結んで神殿を再建します。そして、14節に「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」とあります。これはどういうことでしょうか。教会が「御国の福音を伝えて、すべての民族に証しする」のではありません。神はこの働きのために「ふたりの証人」という特別な預言者を立てられるのです。それがヨハネ黙示録11章に示されています。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章1~12節
1 それから、杖のような測り竿が私に与えられて、こう告げられた。「立って、神の神殿と祭壇と、そこで礼拝している人々を測りなさい。
2 神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。
3 わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」
4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。
6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。
7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。
そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。

●「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ」るのは、教会によってではなく、ユダヤ人である「ふたりの証人」によってです。彼らの働きによって世界大の宣教の働きが何者にも邪魔されることなく展開します。そして彼らの宣教の証しがなされた後、「底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう」のです。しかし、神は彼らを三日半の後復活させます。そして、「彼らは雲に包まれて天に上った」とあります。「ふたりの証人」の働きによってどれだけの人々が救われるのかは定かではありませんが、ユダヤ人の144,000人(黙示7:4~9)は彼らの証言によって救われるのかもしれません。そしてその144,000人の証言によって異邦人の数えきれない多くの群衆が救いにあずかると考えられます(黙示7:9~17)。そして、それらの人々は殉教を余儀なくされることになります。

●「ふたりの証人」が天に上った後に、マタイ24章14節「それから終わりが来ます」に続きます。具体的には獣と呼ばれる反キリストがイスラエルとの契約を破棄して、自分を神として神殿の中に自分のための座をもうけるのです。24章15節でイェシュアが言う「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──」につながります。つまり、この時点が「終わり」(「テロス」τέλος、「ケーツ」קֵץ)の時であり、イスラエルに未曽有の「大患難」(後半の三年半)が始まるのです。この大患難がイスラエル(=女)に「産みの苦しみ」をもたらし、イェシュアをメシアと信じる残りの者(レムナント)を産み出すのです。これについては次回で取り扱いたいと思います。

2021.5.16
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