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エルサレムの恐るべき終局

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24. エルサレムの恐るべき終局が始まった

【聖書箇所】 24章1節~27節

ベレーシート

  • エゼキエルが主から明確に書き記すべき日づけについて示されています。

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  • この日については、Ⅱ列王記25章1~2節、およびエレミヤ書52章4節でも記されています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱ列王記25章1~3節、エレミヤ52章4~6節

    1 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカデネザルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。
    2 こうして町はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていたが、
    3 第四の月の九日、町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。

    8 第五の月の七日──それは、バビロンの王ネブカデネザル王の第十九年であった──バビロンの王の家来、侍従長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9 【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。10 侍従長といっしょにいたカルデヤの全軍勢は、エルサレムの回りの城壁を取りこわした。11 侍従長ネブザルアダンは、町に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した者たちと、残りの群衆を捕らえ移した(エレミヤ書52章12~15節と全く同じ)。

  • エルサレムが包囲してからおよそ二年半後、飢饉による悲惨が極限に達したころ、城壁は破られてエルサレムは壊滅しました。第九年、第十の月の十日とは、この悲惨な出来事が預言どおり、神が警告された恐るべき冷酷無残なエルサレムの終局が始まった日として記憶されるべき日なのです。記憶されるべき日は必ずしも良い意味を持つ日だけでなく、このような悲惨な日を後の時代の人々のその記憶を呼び起こす日として必要なのです。
  • エゼキエル書における一連の神のさばきの預言は24章で終わり、このあと、25~32章まではイスラエルの周辺諸国に対する預言が記され、そのあと33章~最後の48章まではイスラエルの回復の預言が語られます。
  • 24章は二つのたとえが記されています。一つは反逆の家であるユダに対する「なべのたとえ」、もう一つはエゼキエルの妻の死によるたとえです。

1. 反逆の家ユダに対する「なべのたとえ」

  • まだエルサレムの破滅は来ていません。その終局の始まりが示されました。エゼキエルはやがてエルサレムに起こることをすでにバビロンの捕囚となっていた人々に「なべのたとえ」で語りました。

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2. エゼキエルの妻の死によるたとえ

  • エゼキエルの愛する妻は突然、取り去られました。夕方に死んだようですから、次の日の朝が明ける直前にそのことが告げられ、涙を流すことも、悲しむことも禁じられました。通常のように喪に服したり、葬儀もすることもです。このことに驚いた人々はエゼキエルに尋ねました。そしてその意味が語られます。ここが重要な点です。つまり、エゼキエルの妻の死は神の心の痛みのたとえになっているのです。
  • 主イエスも神の国の秘密をたとえで話されました。「聞き方に注意しなさい」と繰り返し語りながら語ったのです。たとえで語るのは聞く者が良く分かるためのものではありません。それを聞く者に「なぜ」と尋ね求めさせるためです。神の国はこのように尋ね求める者にしか開かれないのです。妻の死に対するエゼキエルの行動を見ていた人々は、「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか、説明してしてくれませんか。」と尋ねました。そのことによって、妻の死が意味することが説き明かされました。そしてエゼキエルの妻の死に対してした行動は、あなたがたのためのしるしとなり、そのようにあなたがたもするようになるということでした。
  • 20世紀、ドイツ・ナチスのユダヤ人撲滅のために連れて来られた多くのユダヤ人は、冷酷無残な虐殺のゆえに、余りにも過酷な恐ろしさのゆえに、エゼキエルの経験がしめしているように、涙を流して悲しみを表わすこともできないほどの異常な心理状態でした。同様に、エルサレムの破滅も、悲しんだり、嘆いたりすることができないほどの心理状態をもたらすということです。


2013.6.11
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