****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イスラエルを回復する真の牧者の約束

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32. イスラエルを回復する真の牧者の約束

【聖書箇所】 34章1節~35節

ベレーシート

  • イスラエルの回復のためには真の牧者が必要です。1~10節までは「イスラエル牧者たち」、つまり、指導者たちに羊に対する責任を託したにもかかわらず、自分たちの利益を優先してその責任を果さなかったために、そのことが非難されています。民の上に置かれた権威ある者たちは神の代理者として民の利益が損なわれないように、またその必要が満たされるように、民の世話をする義務がありました。しかし現実は、民の幸いを求める代わりに、むしろ彼らを搾取したのです。羊たちを養うのではく、自らを肥やしたのです。それゆえ、イスラエルの民は近隣諸国の民の餌食となり、敵の攻撃の結果、地の全面に散らされてしまったのでした。
  • そこで、主なる神はイスラエルの民を再び集めるために、主ご自身が牧者となることを預言したのがこの34章です。

1. イスラエルを回復させる真の牧者

  • 11節を見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】エゼキエル34章11~16節

    11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする
    12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して世話をする
    13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う
    14 わたしは良い牧場で彼らを養いイスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
    15 わたしがわたしの羊を飼いわたしが彼らをいこわせる。──神である主の御告げ──
    16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づけるわたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う

    【新改訳2017】エゼキエル書34章23~24節
    23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。
    24 【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは【主】である。わたしが語る。

    ※ここでの「一人の牧者」「わたしのしもべダビデ」とは、メシア・イェシュアのことを指します。

  • ここに記されている預言はやがてダビデの子孫イエス・キリストによって実現しますが、注目すべきことは、ここで「わたし」、つまり「イスラエルの牧者」である神ご自身が、自分の羊に対してなされる慰めの動詞です。
    画像の説明
  • 特に、11節だけに注目すると、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」とあります。この約束を果たすためにイエスがこの地上に遣わされたのです。

2. イエス・キリストによって実現された34章の約束

  • エゼキエル書34章の預言はイエス・キリストによって実現しました。新約聖書の福音書ははっきりとイエスの来臨の目的が記されています。イエスはこう言われました。
    わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」(マタイ15:24)と。換言すれば、イエスはイスラエルの家の滅びた羊のために遣わされた」ということです。このイエスのことばは、神の救いを個人的に考えている人には理解できないことばです。というのは、私たちが置換神学(脚注)の影響を強く受けているために、「イスラエルの家」を文字通りではなく、個人的な自分に置き換えてしまって理解しているからです。イエスの語られたことばは正確に理解されなければなりません。文字通り、神の約束された「イスラエルの回復」の成就がなされなければ、神のみことばの約束の信ぴょう性は希薄なものとなってしまうからです。
  • メシアニック・ジューの神学者でデビット・ルドルフという方がいます。彼は個人の救いをあまりに強調する現在の福音派の問題点について指摘しています。個人の決意と個人の救済という視点からだけメッセージを語ると、(一世代前の人にしか分からないたとえかも知れませんが)「傷ついたレコードのように、創世記からヨハネの福音書3章16節に針が飛ぶ」と言っています。そうではなく、むしろイスラエルを中心とする「物語」として福音全体を語ることの重要性を強調しています。
  • 「イスラエルの家の滅びた羊」とは、神の民イスラエルのことです。イエスの来臨は旧約で約束されたことを実現するために来られたのです。イエスが誕生した地は預言されたベツレヘムでした。ここに誕生されるためには全歴史が動かされて絶妙なタイミングで実現したのですが(⇒このことについては、こちらを参照)、育ったのはナザレ、そして最初の宣教地はガリラヤ湖の付近でした。主イエスが来られたのは、文字通り「全地に散らされたイスラエルの民を集めるため」です。それゆえ主はガリラヤから宣教を開始されました。

    【新改訳改訂第3版】マタイの福音書4:14~17
    14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
    15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ
    16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
    17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

  • イエスが宣教を開始された「ゼブルン、ナフタリの地」、そしてイエスはその地からご自分の弟子を選ばれ、活動を開始されたことは決して偶然なことではなく、すでに預言されていたゆえです。それゆえ、イエスは「大群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)のです。そして、12人使徒を呼び寄せて彼らを遣わしますが、そのときイエスは、彼らに「イスラエルの家の滅びた羊のところへ行きなさい。」と命じます(マタイ10:6)。
  • イエスの語られたたとえ話の中にしばしば使われる「失われた」ということばがあります。たとえば、ルカの福音書の15章には三つのたとえ話があります。そのたとえ話の中心的なテーマは「いなくなったもの」、すなわち、「いなくなった羊」「なくした銀貨」「いなくなった息子」です。そこにある共通の語彙はギリシャ語で「アポッリューミ」(απόλλυμι)という動詞で(その分詞が形容詞的に使われていますが)、それは「滅びた」という意味で、ヘブル語は「アーヴァド」(אָבַד)です。つまり「滅びた」羊、「滅びた」銀貨、「滅びた」息子、これらが見つかるまで捜して(あるいは、待って)、見つかるという話です。放蕩息子を妬む兄息子に対して父はこう言いました。「いなくなっていた(滅びていた)のが見つかったのだから、喜ぶのは当然ではないか」と(ルカ15:32)。
  • ルカの19章に「取税人のザアカイの救い」の話があります。イエスが熱心に彼を捜して出会うのですが、この話の最後にこう記されています。

    【新改訳改訂第3版】ルカ19章9~10節
    9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
    10 人の子は、失われた(滅びた)人を捜して救うために来たのです。」

  • ここでの重要なメッセージは、ザアカイが救われたのは彼がアブラハムの子であったことと、彼が「イスラエルの家の滅びた羊」の一人であったことです。しかし多くの人々(エルサレムの指導者たちのみならず、民衆も)は、このイエスのことばの真意を正しく理解する者はいませんでした。

3. 現代の「見張り人」としての務め

  • 神が、特に預言書などで約束された「イスラエルの回復」は、今や、着々と進んでいるのです。ですから、このことに目をそむけることなく、神がこの世界に今なにをなさっているのかに目を留めながら、神の心にある思いをしっかりと受け取る必要があるのです。なぜなら、「イスラエルの回復」と「キリストの教会」との間には切り離すことのできない密接なかかわりがあるからです。そのことに目が開かれた者は「見張り人としての務め」がゆだねられています。その務めに任じられた「見張り人」は、受け入れられようと、受け入れられまいと、「雄々しく、強くあって」、語り伝える責任があります。
  • 真の牧者による慰めの中に主にある者たちが生きはじめるとき、そこにはキリストにある真の平和(一致)が実現すると信じます。


脚注
「置換神学」については、⇒こちらのサイトをご覧ください。


2013.6.26


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