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イスラエルに対する主の叱責 (1)

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3. イスラエルに対する主の叱責とさばき (1)

【聖書箇所】アモス書3章1~15節

ベレーシート

  • アモス書3~5章では北イスラエルに対する主の叱責が語られますが、3章にはその土台となる主とイスラエルの民とのかかわりがいかなるものであったかが取り上げられています。今回はそのことに注目したいと思います。

1. 特選の民とされたイスラエルの目的と課題

【新改訳改訂第3版】アモス書3章1~3節
1 イスラエルの子らよ。【主】があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。
2 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
3 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。

(1) 「選び」と「報い」のかかわり

  • イスラエルの子らに対する主のことばです。2節を読むと、前半の「選び出した」ということと、後半の「すべての咎を報いる」ということが一見飛躍しているように見えます。この因果を結びつけているのが3節の「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」という根拠を表わすフレーズです。
  • まず、因果関係の原因である「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した」という部分に注目しましょう。原文では2節が「ラク」(רַק)という語彙から始まっていることから、「あなたがただけを」の「だけ」が強調されています。また「選び出した」と訳されている動詞は「知った」を意味する「ヤーダ」(יָדַע)が使われています。ヘブル語には「選ぶ」という意味の語彙「バーハル」(בָּחַר)があるにもかかわらず、その語彙を使わずに、「わたしはあなたがただけを選び出した(知った)」としているのです。
  • 特選の民とされたイスラエルの子らには、「選び」の目的と課題があります。賦与には常に課題が伴うのです。イェシュアもこのことを「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48)と言われました。これは神の原則です。
  • イスラエルの子らには多くの良いこと(良い物)が与えられました。奴隷状態からの解放、神との特別なかかわり、そして約束の地などです。多くの賜物は多くの課題(要求)が伴います。その課題は神が望んでいることです。ただその課題に対する神の期待は、人間的な視点からするとリスクの高いものでした。なぜなら、人間の基本的な欲求である「生存の保障」と「防衛の保障」をただ主にのみ頼るということだからです。他の神には一切頼ってはならないという課題です。主にのみ信頼して歩むという課題です。それは、たとえある危機において主に助けられたとしても、次の危機に果たして主が保障してくれるのかどうか、そのたびに主を信頼することが要求されるからです。この恐れに耐えかねて、より確かな目に見える保障を与えてくれるもの(偶像)を求める弱さを、人間は本来的に内包しているからです。神の期待に対して、イスラエルの子らはこの課題に応えることができませんでした。「それゆえ」、神は彼らの咎に「報いる」のです。つまり「さばき、罰する」のです。

(2) 神のヴィジョン(目的)を共有すること

  • イスラエルの子らが「選び出された」(知られた)のは、神が彼らとともに歩むことによって、すべてのものを共有するためです。そのことを3節で、「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」と語っています。この表現は単なる問いかけではなく、「ふたりの者が仲がよくないのに、いっしょに歩けることなどあり得ない」という反語的表現です。この表現は、選んだ者と選ばれた者が、互いに知り合うという関係でなければならないことが前提とされています。
  • 3節をいろいろな翻訳で見てみると以下のようになります。

    ①新改訳
    「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」
    ②新共同訳
    打ち合わせもしないのに、二人の者が共に行くだろうか。」
    ③口語訳
    「ふたりの者が、もし約束しなかったなら、一緒にあるくだろうか。」
    ④関根訳
    「二人の人はまず出会わなければ、一緒に歩こうか。」
    ⑤ATD訳
    「二人の者が出会わなければ、行を共にするだろうか。」
    ⑥バルバロ訳
    「二人の人が相談をせずに、いっしょに旅するだろうか。」
    ⑦岩波訳
    「もし互いに知り合うことがなければ、二人の者は一緒に歩くだろうか。」


    ●上記の太字の部分には訳の広がりがあります。それは元になっている原語を異にしているからです。これについては、脚注を参照。

  • イスラエルの子らが、神と一つでなかったことが大きな問題でした。そもそも、イスラエルの民はエジプトにおいて「過越」を経験し、そこから救い出されてから、紅海徒渉を経験し、荒野で水やパンを与えられる経験をしました。その後、シナイ山において、合意に基づく結婚の契約を交わして、いわば神と民は夫婦関係となったのです。互いに「知り合う」関係となりました。神のご計画を共有する民となったのです。

(3) ふたりが一緒に歩くこと

  • ここで、「ふたりが一緒に歩く」ことの重要性を考えてみたいと思います。創世記22章では、主がアブラハムにイサクを連れてモリヤの山に行けと命じます。この章には二度も同じフレーズが出てきます。以下がそのフレーズです。

    画像の説明

  • 創世記22章といえば、アブラハムの生涯における最大の試練が記されている箇所です。その試練とは、アブラハムの愛しているひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、その山で全焼のいけにえとして彼を神にささげるというものでした。神本位ではなく人間本位で考える人は、この出来事を「子ども虐待」と理解するかもしれません。しかし神本位の視点から見るならば、救いの担い手として神に選ばれたアブラハム、そしてその子イサクが神のご計画(ヴィジョン)を共有できるかどうかのテストなのです。
  • このテストは「愛」ということのテストでもあります。聖書で最初に「愛する」という動詞が登場するのは、なんと創世記22章2節です。「愛する」と訳されたヘブル語は「アーハヴ」(אָהַב)です。「アーヴ」(אָב)の真ん中に「へー」(ה)という文字が入っています。「へー」(ה)は「窓」とか「見る」という意味をもつ文字です。つまり、「愛する」(「アーハヴ」אָהַב)とは、父(אָב)と子(בֵּן)が同じ窓から同じものを見るというニュアンスとなり、そこには神と人、父と子が同じヴィジョンを共有するというメッセージが隠されているのです。これが聖書のいう「愛する」の意味であると理解することは、神のマスタープランにおいて決定的な意味を持ちます。
  • 「愛」の概念を、大切な存在と認めること、かけがえのない価値をもったオンリー・ワン的存在として受け入れることだとするのは、聖書の「愛」とは異なります。今日、このような「愛」の理解は世の中にも溢れています。しかしどんな犠牲を払ってでも神のヴィジョンを共有することが「愛する」ことだとする概念は聖書にしかありません。アブラハムの試練(テスト)はその視点において考えられなければなりません。しかもこれは御父と御子イェシュアの型となっています。
  • 創世記22章6節の「ふたりはいっしょに進んで行った」と8節の「ふたりはいっしょに歩き続けた」は、いずれも原文は全く同じです。「ふたりがいつもいっしょに歩き続ける」ということは、決してやさしいことではないことを、神と神の民イスラエルのかかわりの歴史が証明しています。


2. 神は何も示さずして、何事もなさらない

  • アモス書3章7節もよく知られている重要なみことばです。

    【新改訳改訂第3版】
    まことに、神である主は、そのはかりごとを、
    ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、
    何事もなさらない。

    【口語訳】
    まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。

    【新共同訳】
    まことに、主なる神はその定められたこと
    僕なる預言者に示さずには何事もなされない。


    その「はかりごと」、その「隠れた事」、その「定められたこと」とは、英語ではHis secretHis planです。ヘブル語では「ソード」(סוֹד)です。神はその歴史において、預言者たちを通してご自身のみこころを示されました。それゆえ、イスラエルの民は預言者のことばに耳を傾けるべきでした。

画像の説明

  • 今日、神はご自身を尋ね求める者たちに対して、神の隠された事柄(秘密「ソード」(סוֹד)を啓示しようとしておられます(「ガーラー」גָּלָה)。ですから、みことばをもっと熱心に「ミドゥラーシュ」(מִדְרָשׁ)する必要があるのです。上記の三つの事柄は密接な関係を持っています。



脚注
「もし・・でないのに」という部分の「・・」に使われている動詞は「ノーアードゥー」(נוֹעָדוּ)です。その語根は「集まる、出会う」を意味する「ヤーアド」(יָעַד)です。しかし、七十人訳はそれを「ノーダーウー」(נוֹדָעוּ)に読み変えて訳しています。つまりその場合、語根が「ヤーダ」(יָדַע)となり、「知る」を意味する「グノーリゾー」(γνωρίζω)の動詞を用いています。それぞれの聖書は、この二つの語彙のうちのいずれかで翻訳していることになります。ちなみに、私は3節の「選び出す」が「知る」という動詞であることを鑑みて、後者のように訳すのがよいと考えます。つまり、「互いによく知っているのでなければ、ふたりの者はいっしょに歩くだろうか。」という訳です。

2015.2.6


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