****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イスカリオテのユダの裏切り


110. イスカリオテのユダの裏切り

【聖書箇所】マタイの福音書26章14~25節

ベレーシート

●前回、マタイの福音書26章1~13節を取り上げましたが、その2節にイェシュアが弟子たちに語ったことばがありました。それは「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」ということばです。これは過越の祭りの日にイェシュアが十字架につけられるということ、そのために「引き渡される」ことを述べているのです。この「引き渡される」と訳された「パラディドーミ」(παραδιδωμι)こそ「受難」を表すことばなのです。この語彙は「裏切る」「捕らえる」「手に渡される」「売りわたす」とも訳され、新約では119回、マタイ26章だけでも10回、27章でも5回も使われています。ところが、弟子たちはこのイェシュアのことばをまともに聞こうとはせず、理解しようともしませんでした。ところが、「ある女」がそのことを正しく理解して、イェシュアのために香油を注いで埋葬の備えをしたのです。「埋葬の備えをする」とは、イェシュアが死ぬことを前提としています。

●信じられないことですが、弟子たちのこのような姿は、今日の教会でも起こり得ます。聖書が教会の唯一の祝福の望みである携挙(携え上げ)について明確に語っているにもかかわらず、教会の多くの人々がそのことを全く聞かされていません。カトリック教会はそうです。プロテスタント教会の多くもそうです。その教えは19世紀になってからプリマス・ブラザレンの人々によって回復されました。回復とは、本来聖書にある教えが長い間隠されてしまっていたことを再び発見したことを意味します。ですから、携挙についての教えを聞かされていないという人がいても驚くことではありません。たとえ聞かされていたとしても、無視し、無関心です。イェシュアがエルサレムの宗教指導者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを、繰り返し繰り返し語っているもかかわらず、弟子たちがそのことをまともに聞いていないのと同じです。聖書には多くの預言があります。預言は神が語られたものです。いまだ実現していない預言が数多くあるのです。ですから、今日においても、聖書預言はすべての神の民に対するテストだと言えます。

●ところで、マタイにおける受難告知とそれに対する弟子たちの反応を見てみましょう。

①16章21節の受難告知に対する反応は、「そんなことがあってはなりません」。
②17章21~23節の受難告知に対する反応は、「非常に悲しんだ」。
③20章18~19節の受難告知に対する反応は、無反応。
④26章2節の受難告知に対する反応は、無関心。

●前回の話で、弟子たちは「ある女」がしたことに憤慨して、「無駄なことする」と言って批判します。しかし、イェシュアはこの女がしたことは「わたしの埋葬をする備えをしてくれたのです」と弁明し、「この福音(=イェシュアが公生涯において語り、デモンストレーションされた天の御国の福音のこと)が宣べ伝えられるところでは、この人の記念として語られます(原文=語られることになる)」と言われました。それは、神のご計画を正しく理解することこそが、記念とされるべき神の喜びであることを意味しています。

●今日のテキストを各自聖書を開いて読みましょう。今回の箇所は三つの部分(①14~16節、②17~19節、③20~25節)からなっています。

【新改訳2017】マタイの福音書26章14~25節
14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。
17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
20 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。
21 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」
22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
23 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。
24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。


1. イスカリオテのユダがイェシュアを銀貨三十枚で売ることは預言されていた

14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」
すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。

※太字の「引き渡す」が今回の鍵語の「パラディドーミ」(παραδιδωμι)です。

●14節の「そのとき」と訳された「トーテ」(τότε)は、その前の出来事と同時進行であることを意味しています。「ある女」の行為はイェシュアに対する愛の極みでしたが、ユダの行為はイェシュアを裏切ろうとしたのです。きわめて対照的な構図です。

●ユダがイェシュアを裏切ろうとしたのは、ユダヤの宗教指導者の方から持ち掛けられたのではなく、「彼を引き渡したなら、私に何をくれますか」とユダの方からです。15節の「引き渡しましょう」は、新改訳改訂第三版までは「売るとしたら」と訳されていました。この訳の方がユダの真意を感じさせます。すると彼らは
イェシュアを奴隷一人の値段である「銀貨三十枚」と値積りして、ユダに支払ったのです。しかし、このことは以下の箇所において預言されていたことなのです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書11章10~14節
10 私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。
11 その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが【主】のことばであったことを知った。
12 私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
13 【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。
14 そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。

※ここで「私」とはゼカリヤのことですが、神の代理者として語っています。「杖」とは羊を導くための権威ある杖です。また「羊の商人たち」とはイスラエルを囲んでいる諸国民のこと。

●10~14節を理解するためには、ゼカリヤ書11章全体を理解する必要があります。11章はゼカリヤ書の中で最も難解と言われる章ですが、その前後のコンテキストからこの11章の位置づけを見てみたいと思います。9章と10章は、全イスラエルの回復のためにメシアの到来が預言されています。そこにはメシア到来の初臨と再臨が予告されています。10章ではメシアが地上再臨される時にはイスラエルの民は諸国の中で長子的権利を回復します。そのとき「大雨」のような祝福が注がれます。しかし11章では、約束されたメシアが到来(初臨)するときに、そのメシアが愚かな牧者(ユダヤの指導者)によって拒絶されること。その結果として神殿とエルサレムは崩壊し、神の民イスラエルも世界離散となることを二つの杖が折られるという表現で預言されます。愚かな牧者のゆえに折られた二本の杖、その「二つの杖」とは「慈愛」と「結合」の二つです。

(1) 「慈愛」という杖が折られる

●「慈愛」と訳されたヘブル語は「ノーアム」(נֹעַם)で、口語訳は「恵み」、新改訳は「好意」と訳しています。使用頻度は7回と少ないのですが、神の「トーヴ」(טוֹב)の意味合いに近いニュアンスを持っているように思います。詩篇27篇4節にあるダビデのOne Thingの中で、ダビデは「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために」とあります。ここにある主の「麗しさ」が「ノーアム」(נֹעַם)です。主の宮においてその「麗しさ」に目を注ぐことのできる杖が折られるということは、神との恵みの契約が断ち切られ、神との交わりの象徴である主の宮(エルサレム神殿)が破壊されてしまうことを意味します。神の民である神殿を失うことは、神の民としてのアイデンティティーを喪失してしまうことに等しいのです。

(2) 「結合」という杖が折られる

●メシアを拒絶しただけでなく、メシアを銀三十シェケルで売り渡し、その金で陶器師の土地を買うということが預言されています(12~14節)。このことによって、もう一つの「結合」という杖が折られるのです。
「結合」と訳されたヘブル語は「エハッド」(אֶחַד)です。「ひとつ」という形容詞ですが、この杖が折られるということは、一つの群れである羊である神の民が世界離散することを意味します。16節には「見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから」とあります。これは真のメシアではなく、獣と呼ばれる偽メシア、反キリストを意味しています。この反キリストの出現によって神の民は大患難を経験するようになります。これがメシアを拒絶する報いなのです。しかし、やがてこのことを通して、彼らは「真のメシアである方」を呼び求めるようになり、その結果、再び全イスラエルはメシアによって「結合」されるようになるのですが、そのときはメシア王国が実現する千年王国においてなのです。これが神の御国に対するご計画であり、それを実現する様々な出来事が預言されているのです。今回のイスカリオテのユダの裏切りは、神のご計画である御国を実現させる様々な出来事の型の一つなのです。ゼカリヤ書にはそれが預言されていたのです。

●イスラエルの正しい牧者であるメシアが、銀三十枚という奴隷の値 (出21:32) で売られることを預言したことが、今回の福音書の箇所で成就されようとしているのです。福音書を読んで、初めて「だれが銀貨を用意し、だれが銀を主の宮の陶器師に投げ与えたのか」が分かるのです。皆さんは分かりますか。
前者はユダヤの宗教指導者たち (祭司長たちや長老たち) であることは分かります。では、後者は?
それを受け取ったイスカリオテのユダが後で後悔してそれを彼らに返します。しかし彼らは「我々の知ったことか」と言ったのでユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去ります。彼らはその金で陶器師の畑を買って異国人の墓地としたのです(マタイ27:3~7)。つまり、前者も後者もイスラエルの羊飼いであった宗教指導者たちでした。彼らのことをイェシュアは「蛇、まむしの子孫」と呼んでいますが、ユダは自分の欲のために、彼らに利用されたのでした。

●イスカリオテのユダの提案に対して、ユダヤの宗教指導者たちは彼に銀三十シェケルを支払いました。そこでユダは「そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた」とあります。「狙っていた」と訳された語彙は未完了形です。つまり、虎視眈々とその機会を「うかがい続けていた」ことを意味します。ところが、その機会は何とイェシュアによって与えられてしまうのです。その時とは「過越の祭りの時」です。その神の必然的計画にユダは用いられたにしかすぎないことが後で分かります。このように主を裏切り、神に敵対するあらゆる計らいがすべて神のご計画の中に取り込まれてしまうなら、神を敵に回すことほど愚かなことはありません。

2. 過越しの食事の準備と食卓

17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。

●ここで、「種なしパンの祭りの最初の日」という珍しい表現があります(マルコ12:14)。「最初の日」とは「過越の子羊を屠る日」のことです。旧約によれば、過越の祭りに続いて七日間の「種なしパンの祭り」がなされました。「種なしパンの祭りの最初の日」とあるのはマタイのこの箇所と並行記事のマルコだけです。
しかし、このことには重要な意味があります。過越の日のことを「種なしパンの祭りの最初の日」という表現には、「御国の福音」の概念が隠されています。どういうことでしょうか。「種なしパンの祭り」は神の民が一切のパン種を取り除かなければなりません。パン種とは神とは異なる教えのことです。この世の価値観、人の肉を喜ばせるような教え、伝統を重んじる教えや人の言い伝えなどが「パン種」を意味します。すなわち、「種なしパンの祭り」とは、純粋な神の教えによって生きる者となることを教える祭りなのです。七日間、どんちゃん騒ぎをして建国記念を楽しむ祭りではありません。「種なしパンの祭り」とは純粋な神のことばにとどまって歩むための聖なる期間の祭りなのです。しかもこの祭りは七日間続きます。「七」という数字は、七日目にメシア王国が実現することを預言的に啓示しています。御国が実現するまで、教会は「パン種」を入れない礼拝をし続ける必要があることを、使徒パウロは以下のように教えています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙5章6~8節
6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる
ことを、あなたがたは知らないのですか。
7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは
種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

●マタイもマルコも「種なしパンの祭りの最初の日」という表現を使っているのはある意図があるように思われます。つまり、強調点が「過越」ではなく、「種なしのパンの祭り」の方にあって、その最初の日が過越の祭りとしているからです。「過越の日」に自らが十字架において過越の子羊となって死ぬことで、この過越の祭りを成就させ、この過越の祭りを新しい契約における「主の食卓」に置き換え(設立し)ようとしておられるというイェシュアの思いを受け止めた表現であるからなのです。このこと(25~29節)については、次回で詳しく学びます。この「主の食卓」にイスカリオテのユダは加わっていません。なぜなら、彼はすでに自分がしようとすることをイェシュアに暴露されたからです(25節)。そしてユダが出て行ったあとで、イェシュアは残る十一人の弟子ともに「主の食卓」を制定されるということが起こっているからです。過越し食卓とそれに置き換わる「主の食卓」の制定に目を留めましょう。ここでもイェシュアは弟子たちに天の御国のことを語ろうとしているのです。

●過越の食事をするために、イェシュアは前もってその備えをしておられました。マタイの福音書では、そのことがほとんど書かれていませんので、あえてそのことをここで扱うことはしませんが、ひとつ「わたしの時が近づいた」というフレーズは重要です。共観福音書の中でマタイだけがここの箇所で「わたしの時」というフレーズを使っています。このフレーズは「この時のために、わたしは来た」という意味で使っています。そして、マタイ 26章45~46節では「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。』イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。」とあるように、「わたしの時」とは、罪人たちの手に引き渡され、捕らえられ、十字架につけられて死ぬことです。このことを最も強調しているのがヨハネの福音書です。ヨハネの福音書にはこのフレーズが5回使われています。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書 2章4節
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
②【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章6節
そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。
③【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章8節
あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」
④【新改訳2017】ヨハネの福音書 12章23節
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました
⑤【新改訳2017】ヨハネの福音書 17章1 節
これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。
「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

●ヨハネが「わたしの時」「時が来た」というときには、受難と死だけではなく、復活し、昇天と着座を示す出来事をも含めて、「人の子が栄光を受ける時」としているのです。

3. 「裏切りの予告」

20 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。
21 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」
22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。
23 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります
24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。

●食事をしているときに、イェシュアは、突然、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と弟子たちに言います。すると皆が「主よ、まさか私ではないでしょう」と悲しみます。するとイェシュアは「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」と言います。マタイには記されていませんが、ヨハネの福音書ではイェシュアのそばにいた弟子(ヨハネ)がそっと「それはだれですか」と主に尋ねています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書13章26~30節
26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。
29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。
30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。

●自分でイェシュアを引き渡す機会を狙っていたユダでしたが、食事の席でそのことをイェシュアに悟られただけでなく、「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言われたことで、彼の計画ではなく、神のご計画に従って、その夜にイェシュアを引き渡すことになってしまうのです。そして、夜が明けて、朝の九時には十字架につけられてしまうのですが、ユダはこのような展開になるとは夢にも思わなかったのです。しかし、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った」とあります。この事実と、マタイ26章24節にある「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」ということばについて、最後に考えてみたいと思います。

●「あなたが生まれて来て良かった」、「あなたはあなたのままでいい!」ということばは人を生かしますが、「生まれて来なければよかったのです」ということばは恐ろしいことばです。もし聖書を開いて最初に目に留まったことばが、このことばだとしたら、恐ろしいことです。このことばの真意は「サタンが彼に入った」ことと無関係ではありません。サタンが入る侵入口がユダにはあったことを暗示させています。ユダにとっての侵入口とは「お金」です。マタイは富が堕落させる力をもっていることをはっきりと述べています。いのちの木のそのものであるイェシュアのそばにいながら、ユダは金に執着したために永遠に価値あるものを自分の意志で捨ててしまったのです。彼は「欲望(=原文「腹」)を神とした」ゆえに滅びを招いたのです(ピリピ3:19)。

【新改訳2017】マタイの福音書6章19~21、24節
19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません

【新改訳2017】マタイの福音書19章22~23節
22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。」


2021.8.15
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