****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イザヤが見た幻(ハーゾーン)

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補完No.1. イザヤが見た幻(ハーゾーン)

【聖書箇所】1章1~9節

ベレーシート

  • イザヤ書1章1~9節には、これから展開していく預言の中の重要な要素がすべてまとまった形で提示されています。この箇所にある構図と、そこにある語彙に十分な関心を払いたいと思います。なぜなら、御父の心に触れることができるからです。

1. 神の訴えの提示

  • 神の訴えが2~3節に提示されています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書1章2~3節
2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。【主】が語られるからだ。
「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。
それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

  • 神の訴えの深刻さとは、神が育てて大きくしたイスラエルの民が、神のことを知らず、悟ろうとしないことなのです。「育てる」と「大きくした」は共に育成用語です。前者の「育てる」は「ガーダル」(גָדַל)、後者の「大きくする」は「ルーム」(רוּם)で「高くする」という意味ですが、「育てる、建て上げる、家を再建する」という意味もあります。つまり、似た意味の語彙を用いて、神がイスラエルの民を懇ろに育ててきたことが強調されています。ところがその彼らが神を「知らない」(「ロー・ヤーダ」לֹא יָדַע)、「悟らない」(「ロー・ヒットボーナーン」הִתְבּוֹנָן) と訴えているのです。神にとってはただ事ではないのです。ご自分の育てた民が、牛やろば以下の状態になってしまったからです。これが神の訴えの焦点です。特に後者の「悟らない」は、「ビーン」(בִּין)の強意形ヒットパエル態が使われ、自ら自発的に「悟ろうとする」「理解しようとする」ことが否定されているのです。
  • ここに「飼葉桶」(「エーブース」אֵבוּס)という隠喩(メタファー)が登場しています。これは後に神の御子が幼子としてこの世に来られた時に、寝かせられた「飼葉桶」とつながります。なにゆえにイェシュアは「飼葉桶」に寝かせられたのでしょうか。イェシュアの周辺にある(起こる)すべてのことは、決して偶然ではなく、すべてに神の必然性があります。イェシュア誕生の時代もイザヤの時代と同様に強力な異邦人の国(ローマ)に支配されていました。イスラエルの民(ユダヤ人)はそうした支配の中で翻弄され、いつしか自分たちの神を見失い、主を「知ることも、悟ることもしない」時代だったのです。そうした時代に御子イェシュアが遣わされたのです。そのことを表現する象徴の一つに「飼葉桶」があるのです。これについては、こちらを参照のこと。

2. 神の訴えの内実

  • この神の訴えの内実が4~6節に示されています。イザヤが見たのは以下のイスラエルの民の状況でした。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書1章4~6節
4 ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは【主】を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

  • ああ」と訳されたヘブル語は「ホーイ」(הוֹי)です。これは旧約で51回使われていますが、その中でイザヤ書は21回の使用頻度です。神の悲しみと痛みを表わす語彙です。新共同訳は「災いだ」と訳しています。新約でもイェシュアが「わざわいだ」と繰り返し語っています。この言葉はマタイとルカにしか使われておらず、全部で16回ですが、その対象は当時の宗教指導者たち、すなわち「律法学者たち、パリサイ人たち」です。彼らは神のトーラーを、人々を支配する道具としていたのです。神のトーラーの本質を完全に見失っていました。ですから、真の生きたトーラーであるイェシュア(リビング・トーラー,Living Torah)が登場しなければならなかったのです。これは神にとって放っておけない重大事でした。「わざわいだ」と訳されたギリシア語は「ウーアイ」(οὐαί)で、それをヘブル語にすると、「オーイ」(אוֹי)となるのですが、これは「ホーイ」(הוֹי)とほとんど同じ意味の語彙(間投詞)です。「なんと悲しむべきことか」という神の嘆きが表されています。こうしたことは今日の教会でも起こり得ます。カルト的な指導者は神のみことばを使いながら、人を不当に支配する者たちです。「わざわいな」存在なのです。それゆえ、私たちはそれを見分けなければなりません。
  • 4節にある「罪を犯す」(「ハーター」חָטָא)、「咎」(「アーヴォーン」עָוֹן)、「悪」(「ラー」רָע)、「堕落する」(「シャーハー」שָׁחָה)という語彙、ならびに「捨てる」(「アーザブ」עָזַב)、「侮る」(「ナーアツ」נָאַץ)、「離れ去る」(「ザーダル」זָדַר)、これらの語彙群は、神への離反を重ねる「漸層的パラレリズム」(樋口信平氏)です。
  • 5~6節では、神への反逆の罪が人体の外傷の比喩によって、生々しく描かれています。7節では、罪の結果として、イスラエルの地が他国人(=異邦人「ザーリーム」זָרִים)の攻撃によって荒れ果てた状態として描かれています。これはまさに申命記28章49~51節の預言の成就です。

【新改訳改訂第3版】申命記28章49~51節
49 【主】は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。
50 その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、
51 あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。


3. 神の回復の預言 

  • ところで、8~9節には神の驚くべき回復の預言が語られています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書1章8~9節
8 しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
9 もしも、万軍の【主】が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。


「ぶどう畑の小屋のように」、「きゅうり畑の番小屋のように」、「包囲された町のように」とは、国中が荒廃しているにもかかわらず、かろうじてエルサレムだけが守られているようすをあらわす明喩です。しかしそこは人間が住んでいる気配がなく、今にも壊れやすい状態を表しています。

  • 本来ならば、イスラエルはソドムとゴモラと同じように完全に滅ぼされてもおかしくないのですが、神は一方的な恩寵によって「シオンの娘」(イスラエルの雅名)を残されるのです。「ソドム」と「ゴモラ」の比喩は、神のさばきの型として使われています。ここでは「シオンの娘は残された」という預言的完了形で記されています。それは必ず実現することを意味します。「残りの者」(英語で「レムナント」)という思想は、イザヤ書全体を貫いている思想で、イザヤの生涯において繰り返し語られる神のメッセージです。「残りの者」は神の恵みとあわれみによるものです。
  • この破格の恵みのわざをなさる神の名前は二つです。一つは「イスラエルの聖なる方」(4節)。もう一つは「万軍の主」(9節)です。あらゆる被造物とは区別されるべき存在としての「聖」(「カードーシュ」קָדּוֹשׁ)と、天地のすべて力ある者を支配する戦いに「出かける」ことを意味する「ツァーヴァー」(צָבָא)に由来する「万軍」(「ツェヴァーオート」צְבָאוֹת)。この二つの神名もイザヤ書を特徴づけています。

べアハリート

  • 最初に述べたように、イザヤ書1章1~9節にはイザヤ書で展開されるすべての要素がさまざまに展開するかたちとなっています。したがって、このイザヤの幻を私たちの脳裏に焼きつける必要があるのです。神の悲痛な訴え、それは神ご自身が懇ろに育てたイスラエルの民の限りなき背反、それによる地の荒廃、そしてそこから出る若枝としての「残りの者」の存在、それによって神のご計画が完成されるのです。神の揺るがない真実が長い歴史を通してあかしされることになるのです。

2017.12.19


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