****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエス・キリストの称号

本論12. イエス・キリストの称号

  • ヨハネの黙示録において、神の御子イエス・キリストを表わす称号が40以上も見られる。それらは、神の属性や様態(存在・行動)を表わすもの、また視覚的なもの、主権を表わすもの、創造のみわざと関わりをもつもの、そして旧約的・ユダヤ的背景をもつものなどがある。
  • また、新約聖書の中で黙示録にしか出てこない称号もいつくかある。たとえば、
    「忠実な証人」(1章5節、3章14節、)
    「忠実、また真実」(19章11節)、
    「輝く明けの明星」(22章16節)、
    「小羊(アルニオン)」
    である。
  • 本論12では、黙示録にある数多くの称号の中から、特に、旧約的・ユダヤ的背景をもつ称号を選び、その称号のもつ意味について検討してみたい。
  • 1 ダビデのかぎを持っている方(3章7節)
  • 2 ユダ族から出たしし(5章5節)
  • 3 ダビデの根(5章5節、22章16節)
  • 4 (ダビデの)子孫(22章16節)
  • 5 輝く明けの明星(22章16節)
  • ヨハネは旧約的・ユダヤ教的な威厳の称号を、十字架につけられ、復活し、高く挙げられたキリストに当てはめることによって、神のあらゆる約束と確言がキリストにおいて実現されたこと、またイスラエルのすべての希望がキリストにおいて成就したことを強く表明しようとしている。ヨハネは上記の称号を意識的にユダヤ教の終末待望の中で解釈しているのである。

1. ダビデのかぎを持っている方 (3章7節) He who has key of David 

  • この名称と関連するのが「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者はない、その方」という名称である。この称号は、ダビデのかぎを持っている方の様態を表わしている。この称号は、キリストのみが「ダビデのかぎ」、すなわち神の国における最高の力と権威を持っていることを意味する。本来、かぎは「開くもの」という意味である。かぎは扉を開閉する最終的権威の象徴であったので、それを肩からかけることもあった。なぜなら、当時のかぎは長くて重かったからである。イザヤ書22章20~22節にはイスラエルの王エルキヤム(ユダ王国の最後―捕囚前の王)に対して、神が「わたしはまた、ダビデのかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」と述べている。彼の支配の座は確かであり、他の者が信頼するに十分な人物であったことを示している。しかしキリストはさらにすぐれた意味で「ダビデのかぎを持っている方」であり(黙示録3章7節)、あらゆる妨げを覆す力をもっておられる。
  • 黙示録3章7~13節に出てくるフィラディアフィアの教会は、人も富も乏しいために、少しばかりの力しか持たなかったが、福音に対して忠実であり、主の御名を拒むことがなかったことをキリストはご存知であった。「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門をあなたの前に開いておいた。」と言われている。「開かれた門」の意味するところは、第一に、福音を語るためのすばらしい機会ということであり、第二に、福音を喜んで聞こうとする耳と、進んで受け入れようとする心を創造する神の恵みの働きである(Ⅱコリント2章12節、コロサイ4章3節、使徒の働き14章27節を参照)。このフィラディルフィア教会は、人の目には取るに足りぬものであっても、神の目には大いなるものであった。
  • 「ダビデのかぎを持つ方」はペテロとの会話の中で、「天の御国のかぎ」を与えると語られた(マタイ16章19節)。また他の弟子たちに対しても、同様の約束がなされている(同、18章18節)。それはこの地上に天の御国の祝福を開いていく権威が与えられることを意味する。キリストにある私たちに、今、なんという特権が与えられていることか。

2. ユダ族から出たしし (5章5節)・・the Lion of the tribe of Judah

  • 百獣の王であるしし(獅子)は、イスラエルでは創世記以来、メシアについて用いられている。イスラエルの王たちは「獅子」と呼ばれている(エゼキエル9章2、3、5、6節)。この場合の「獅子」はメシアの象徴であり、キリストを指している。新約聖書では、黙示録5章5節だけこの表現が登場する。創世記49章9節には「ユダは獅子の子」という表現がある。
  • 神の子イエス・キリストはユダ族の家系から生まれた。なぜ長子の特権を持つルベン族ではなかったのか。それはルベンが自己抑制出来なかったことで、自らその特権を失ってしまったからである。創世記40章には、ヤコブが臨終の際に12人の子どもたちを祝福した記事がある。その中で9節~10節にはユダに対する預言的な祝福がある。「ユダは獅子の子。・・・・王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。・・」とある。つまり、未来において地上を支配する者はユダ族から出てくると預言されている。
  • ここでは、ユダが兄弟たちの間で徐々に指導権を握り、リーダー的な存在となっていくことが預言されている。その根拠は何か。それはまず、彼がミデアン人にヨセフを売ろうと兄弟たちを説得してヨセフのいのちを救った(創世記37章26~28節)ことがあげられよう。しかしユダが創世記38章に記述されているように恥ずべき行為も汚点として記されている。そのユダが全部族の支配者として祝福されるようになったのは、ヨセフの前で自分のいのちをベニヤミンの身代わりとして提供したことによる。ユダは自分のいのちを与えて、赦しのかけ橋となった。それこそキリストのひな型である。ユダがししと呼ばれるのは、強さのゆえではなく、彼の自己犠牲にあった。後に、神の御子イエスは「ユダ族から出たしし」として、私たちの身代わりとしてご自身をささげられた。
  • ダビデもユダ族の出身であり、全イスラエルを支配する王として油注がれた。ユダ族は荒野を旅した時、先頭の中央に配置されている。ユダという呼称の由来について、創世記29章35節によればレアは第4子が生れた時、「今度は主をほめたたえよう」と言ってユダと名づけたとある。ユダはヘブル語のヤーダーを語源とし「感謝」「賛美」の意味と考えられる。つまり、私たちに神への感謝と賛美をもたらす存在こそユダ族の特徴であり、その中から出た獅子こそメシアなのである。

3. ダビデの根 (5章5節、22章16節) the Root of David

  • 「ダビデの根」(黙示録5章5節)という称号は、イザヤ書11章1~4節の預言から取ってこられたものである。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す・・・その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」(イザヤ書11章1~4節、10節)
  • ダビデの「根」は新共同訳では「ひこばえ」、口語訳では「若枝」となっている。
  • この預言が描いているイメージは、地下で朽ちてゆくだけの切り株を残して、伐採された木である。ところが、伐採され無価値とされた切り株からひとつの新芽が元気に生え出てきて、木の生命力が回復され、それが生い育って悪を排除し、時を経てもとの栄光を取り戻すし、全世界に祝福をもたらすというものである。
  • この預言がなされた当時は、北のイスラエル王国はアッシリアの侵攻によって壊滅し、ユダの安全にも脅威を与えた。預言者イザヤはその危機を、より激しい審判の到来に対する警告とし、やがてユダも滅亡の運命にあることを預言した。その預言はやがて的中し、ユダ王朝はバビロンによって壊滅し、多くの者が捕囚の民となった。にもかかわらず、神はご自身の民の上にその権威を回復する。黙示録5章5節の「ダビデの根」とは、地の王たちの支配者であるキリストが、法にかなった正当なダビデ王家の後継者であり、さばきによって滅ぼされた王国を回復させる肩であることを示している。(メリル・テニー)

4. 子孫 (22章16節) the Offspring of David

  • イエス・キリストがダビデの子孫であることを強調している。イエスは、「わたしはダビデの根、また、子孫である。」と言われる。これは「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)という預言の成就であり、ご自分こそダビデが出現した根拠と同時に、ダビデから出た約束の君、神が選ばれた王である、と言われる。(バークレー)
  • イスラエルの民が捕囚によって異民族の支配を受けるようになってから、理想の王であるダビデの子孫がメシアとして現われ、イスラエルに勝利をもたらすことを強く待望するようになった。それは神が約束されていたことでもあった。Ⅱサムエル7章12~13節、イザヤ9章7節、エゼキエル34章23~24節。聖書はイエスがダビデの子孫であることを明確に記している。マタイ1章1節、ルカ章31節、ローマ1章3節。しかし、この称号は多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなった。だが一方では、真に霊的な王なる方を待望している人々もいた。参照―ルカ1章68~79節。2章25~38節。

5. 輝く明けの明星 (22章16節) the Bright and Morning Star

  • 明けの明星とは、夜明け前に東の空に美しく輝いて見える金星を指す。古くから「明けの明星」として親しまれている。(新聖書辞典)
  • キリストご自身が「輝く明けの明星」であるということは、長い時代にわたる暗闇は終わり、夜明けが来ることの保証である。彼の輝きが永遠の輝きだからである。・・福音のゆえに迫害を受け、パトモス島に流刑になっていたヨハネは、諸教会の苦難を一時も忘れることのできない状況にあったに違いない。そうした中で、将来の究極的な創造と歴史の完成の様を見せられ、また約束の言葉を主イエスと御使いたちから聞かされ、大きな励ましを受けたに違いない。私たちは「輝く明けの明星」であるイエスを仰ぎ見るとき、なお暗闇の中にある福音宣教の時代にあっても、深い慰めが与えられる。(実用聖書注解)
  • やがて再び帰って来られる主イエスは、暗闇を照らす朝の光のごとくに来られる。使徒ペテロは、同一の表現を再臨の希望との関連の中で使っている。「夜明けとなって明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとしてそれ(預言のみことば)に目を留めているとよいのです。」と。(Ⅱペテロ1章19節) (真殿 輝子)
  • 「明けの明星」は、王の主権の象徴である。この名称はユダヤ人に様々なことを思い起こさせた。ユダヤ人が「明けの明星」と呼ぶ人は、英雄として尊敬されていた人で、ラビたちはモルデカイをこの名で呼んでいた。また「明けの明星」は「ヤコブから一つの星が出る」(民数記24章17節)という有名なメシア預言を思い出させた。イエスは神によって約束された星なのである。明けの明星は最も明るい星であり、夜の闇を追放して朝の到来を告げる。イエスはすべてのものの中で、最も尊く、最も明るい。その御前から、罪の死の闇が消えていく。そしてイエスは「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)と言われた。復活の主が「わたしは明けの明星である」と言われたのは、彼が光であって、世の暗闇を取り除くという主張なのである。

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