****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエスを仰ぎ見る

第1日 「イエスを仰ぎ見る」 

ーイエスから目を離さないでいなさいー

「ヘブル人への手紙」のキーワードは、「イエスを仰ぎ見る

  • キーワードとは「鍵の言葉」という意味です。自分の家に入る時、あるいはどこかの建物の中に入る時には鍵を持っていなければ入れません。同様に、聖書66巻のそれぞれの書にも、その中に入っていくための鍵があります。その鍵をもっていることですんなりと入ることができるのです。
  • さて、ヘブル人への手紙のキーワードはどこにあるかと言いますとかなり先にあります。その箇所は12章2節です。その箇所のいくつかの聖書の訳をみてみましょう。
  • 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(新改訳)
    「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、」(口語訳)
    「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。」(新共同訳)
    「信仰の導き手であり、その完成者であるイエスに目を注ごうではありませんか。」
    (フランシスコ訳)
    「我々の信仰を初めから終りまで支えていて下さるイエスだけを見つめながら」(柳生訳)
    looking unto Jesus, the author and finisher of our faith (NKJV)
    (イエスに注意を向けながら)
    Let us keep our eyes fixed on Jesus, on whom our faith depends from
    (まなざしをイエスに固定して)
    beginning to end (TEV)
  • ※「信仰の創始者、導き手」―信仰の最初の動機を与えてくださった信仰のパイオニア、「信仰の完成者」―信仰を成熟(円熟)へと導く模範者。
  • 「目を離さない」「仰ぎ見る」「見つめる」「目を注ぐ」と訳されている原語は、「アフォラオー」(αφοραω)です。聖書の原文であるギリシャ語の聖書では、ここともう一箇所にしか使われていません。聖書にはある書巻にしか使われていないことばというものがあります。ひとつしかないということでそれを無視してはなりません。数が少なくても、それはひとつの個性であり、なにか大切なものを秘めているということがあるのです。そしてそれはとても重要なのです。そんな発見をしながら、そのことばのもつ意味を考えることは楽しいことです。
  • 「アフォラオー」(αφοραω)とは、イエスを見つめるために、ほかのすべてのものを見るのをやめることを意味します。真のキリスト者とは、完全な集中力をもって神の恵みとイエス・キリストの驚くべきわざを見つめ(仰ぎ)、驚きのまなざしをもって見ることです。それは、まさに恋人が愛する人をうっとりとみつめている様子に近いかもしれません。そうです。私のイエス様、 My Jesus ―の世界です。
  • 私たちの心を散らす一切のものから目をそむけて、ただイエスにのみ目を注ぐという生き方です。愛するというのはそういうことではないでしょうか。夫婦の間でも、自分の連れ合いにではなく、ほかの人に目が行っていたとしたら、いい夫婦となれる保証はありません。目移りしていたのでは、良い関係を持つことはできません。ましてや愛の関係を持つことはできません。イエスを「仰ぎ見る」ということは、イエスを本当の意味で愛しているということですし、愛しているならば「仰ぎ見る」ということは決して難しいことではないはずです。
  • 自分が今直面している問題や周囲の状況にばかり気を取られたり、あるいは自分自身や自分の弱さにばかり気を取られたりすると、見なければならない大切なものを見ることができなくなってしまいます。関心は自分自身ではなくて、イエスに向けることです。なぜなら、この方こそ私にとって最も必要な方だからです。ですから、へブル書が言わんとするように、
    イエスから目を離すことなく、イエスを仰ぎ見、私たちのまなざしをイエスにしっかりと固定して、イエスに目を注がなければなりません。
  • 「目」というのは私たちの体の一部分ですが、聖書において「目」という場合、存在の全体を表します。イエス様は言われました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」(マタイ6:22~23) それゆえ、私たちが目を向けるべき、注意を払うべき方はただひとり主イエス・キリストです。彼こそ、私たちの「信仰の創始者であり、完成者」だからです。
  • マタイ14章で、五千人の給食の奇蹟の出来事のあと、イエスは強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、自分よりも先に向こう岸へ行かせました。ところが、向かい風のために、波に悩まされていました。そんなとき、イエスが湖の上を歩いて来られたのです。そのときにペテロとイエスが交わしたやりとりがあります。ペテロはこう言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」するとイエスは「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方へ行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言いました。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、ペテロをつかんで言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
  • この話は、ペテロが勇敢にもイエスの「来なさい」という招きのことばを信じて舟から一歩足を出し、水の上を歩いた出来事です。すごいことです。ところが、風に目を奪われたとき、彼の心に恐れが来て沈みかけたのでした。ペテロがイエスを見ているときには沈むことはなかったのです。この話はとても教訓的です。私たちもイエスから目を離すとき、他のことに気を取られるときにペテロと同じようなことが起こるのです。
  • 第一日目は、「イエスを仰ぎ見ること」、この一点にすべてのことがかかっているということを、心に留めたいと思います。

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