****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イェルーシャーライム(エルサレム)

文字サイズ:

90. イェルーシャーライム(エルサレム)

【聖書箇所】マタイの福音書21章10~11節

ベレーシート

●三年半におよぶイェシュアの公生涯において、天の御国の宣教の拠点はガリラヤでした。イェシュアはガリラヤとその周辺の地域において、天の御国の福音を語り(その多くは「たとえ話」によって)、かつ多くのいやしと奇蹟によってそのデモンストレーションをしてきました。マタイの福音書では4~20章までがガリラヤ地方での宣教、およびエルサレムに着くまでの出来事を記しています。そして21章からエルサレムでの出来事が始まるのです。エルサレムは神のご計画における舞台の中心です。前回、「イェシュアのエルサレム入場」のメッセージで、その舞台となるエルサレムに入場した出来事を学びました。これから取り上げるイェシュアのエルサレムでの一週間の出来事の中に、神のご計画の全体像がコンデンスされています。前回学んだように、エルサレムの入場の場面にかかわる数々の語彙をヘブル的視点で見るならば、そこには隠された奥義があることを知るのです。とりわけ今回の説教は、「エルサレム」についての神のご計画における重要性を取り上げて学んでみたいと思います。講解説教ではなく、主題説教です。

【新改訳2017】マタイの福音書21章10~11節
10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。

●イェシュアがガリラヤからエルサレムへの旅を続ける途中、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスがイェシュアを殺そうとしていると告げる者もいました。しかしイェシュアはこう言っています。
「・・わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」(ルカ13:33)と。ここでの「預言者」(単数)とは、イェシュア自身のことです。預言者イェシュアが以下のようにエルサレムに対して預言しています(同13:34~35)。

34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

●この預言は、イェシュアがエルサレムで殺されることで、ユダヤ教の拠点である神殿が見捨てられる出来事(これはA.D.70年に成就)から、「『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来る」、つまり、イスラエルのという悔い改めが起こる出来事までを預言しています。その悔い改めの時には、反キリストによる未曽有の大患難が起こり、その真っ暗闇の状況の中で「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)を注がれたイスラエルの残りの者たちが、涙ながらに悔い改め、自分たちの殺したイェシュアがメシアだとはっきりと知るのです。それだけではありません。このイスラエルの残りの者たちの「息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」のです(ヨエル2:28、使徒2:17)。イェシュアがメシアであることに盲目だった彼らが、神のご計画とその計らいを悟り、それを語り出すのです。ここにある「預言」「夢」「幻」は同義です。これはまさにパウロがダマスコの途上で三日間盲目にされた後に、目から鱗のようなものが落ちて、自分が迫害してきたイェシュアこそメシアであることに目が開かれたことに匹敵します。パウロに起こった驚くべき恵みのわざが、「イスラエルの残りの者たち」にも起こるのです。そして、彼らはイェシュアと共にボツラからエルサレムへと帰還するのです。

●エルサレムはA.D.70年~1948年まで完全に異邦人によって支配されてきました。そして、いまだイェシュアの預言は実現してはいません。私たち教会に属する者はその前に携挙されるので、このイェシュアの預言の成就を目の当たりにすることはできません。

1. 「エルサレム」という名称に隠された秘密

●詩篇132篇13~14節に、「主はシオンを選び、それをご自分の住まいとして望まれた。『これはとこしえに、わたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。』」とあるように、エルサレムは、神がこの地上においてご自身の名を置かれるために、唯一選ばれた永遠の都です。「エルサレム」は神の主権によって建てられる都であり、そのために用いられる人々の存在があったとしても、決して人間の力によって建てることのできない都なのです。それゆえ、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)と語られているほどです。

画像の説明

●ところで、「エルサレム」という言葉は、ヘブル語で「イェルーシャーライム」(יְרוּשָׁלַיִם)と言います。この言葉は二つのことばから成っています。一つは「イェルー」(יְרוּ)、もう一つは「シャーレーム」(שָׁלֵם)です。「イェル」の語源は、「見る」という意味の動詞「ラーアー」(רָאָה)の未完了形で「主はご覧になっている」と解釈できます。二つ目の「シャーレーム」(שָׁלֵם)は「完成する」という意味で、これら二つから、神がご覧になっているご計画が完成することを意味しています。

●創世記22章はアブラハムの最大の試練が記されている有名な箇所です。神から「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。・・そこで、いけにえとしてイサクをわたしにささげよ」と命じられて、アブラハムは神がお告げになった場所、すなわち「モリヤの地」に出かけました。4節に「三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた(「ラーアー」רָאָה)」とあります。

●「モリヤの地」(「エレツ・ハッモーリヤー」אֶרֶץ הַמֹּרִיָה)の「モリヤ」の「ヤ」は「主」を意味する「ヤー」(יָה)で、「モリ」は「指し示す」という意味の「ヤーラー」(יָרָה)の分詞です。したがって、「モリヤの地」とは「主が指し示しておられる地」という意味で、「エルサレム」のことなのです。その地は、神も人も共に見るべき地なのです。なぜなら、そこに神のご計画が完成されるからです。

●アブラハムと一緒に出掛けた息子のイサクは父に尋ねます。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか」。その問いに対して父アブラハムは「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださる(原文は「彼のために神が見てくださる」יִרְאֶה־לּוֹ)」と答えます(8節)。モリヤの山に着いて、アブラハムが息子のイサクをほふろうとしたとき、主の使いが天から彼を呼び、「手を下してはならない。」と止め、アブラハムが神を恐れていることを確認しました。アブラハムが目を上げて「見る」(「ラーアー」רָאָה) と、そこには角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいたのです。そこでアブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ」(יהוה יִרְאֶה)と名付けました。それで今日でも「主の山には備えがある」(14節)と言われているのです。「主の山にある備え」とは、やがて人となって来られる神のひとり子イェシュアのことを預言的に示しています。「全焼のささげ物」(「オーラー」עֹלָה)となるイェシュアは、「主の山に登る(「アーラー」עָלָה)ことで(「オーラー」と語源が同じ)、御国における民の贖いの土台となるだけでなく、再臨によって御国が完成することを意味しているのです。これが「イェルーシャーライム」(יְרוּשָׁלַיִם)に込められている意味です。

●このように、エルサレムは神のご計画においてきわめて重要な場所なのです。なぜなら、そこは神と人とが永遠にともに住むところだからです。

2. 「エルサレム」に対する神の漸次的啓示

●「エルサレム」は神の歴史の中で中核的な位置を持っていますが、その啓示は漸次的です。

画像の説明

①「エデンの園」には、園を歩き回られる神と人とがいました(創世記3:8)。
②「シャレム」(=サレム)の王メルキゼデクが突然に現われ、アブラハムを祝福しました(創世記14:18~20)。サレムの王であるメルキゼデクとは、「平和の王でもあり、かつ義の王でもある」という意味で、へブル人への手紙の著者は、イェシュアをメルキゼデクの位に等しい祭司」および、「とこしえに祭司である」と解釈しています。
③「モリヤの山」(=エルサレム)でアブラハムは信仰の試練を受けます。主はアブラハムのひとり子イサクの身代わりとなる一頭の雄羊を備えられました。アブラハムはその場所を「アドナイ・イルエ」と名づけました。
④ダビデはエルサレムを全イスラエルの都とし、そこに契約の箱を安置しました。これがダビデの幕屋です。
⑤ソロモンはエルサレムに神の宮(神殿)を建てました。
⑥バビロンによってエルサレムは破壊され、ユダの民はバビロンの捕囚となりました。
⑦ペルシャの王クロスによって帰還が許された民は、エルサレムに神殿(第二神殿)を再建しました。
⑧神の御子イェシュアはエルサレムで苦しみを受け、十字架によって殺され、三日目に復活し、昇天しました。
⑨エルサレムの神殿はローマ軍によって破壊され、その結果、ユダヤ人は世界中に離散しました。
⑩教会が携挙された後に、神の民であるユダヤ人は反キリストによる支配と大患難を通過します。反キリストはエルサレムの神殿(第三神殿)において自分が神であることを宣言します。
⑪ハルマゲドンの戦いの後、エルサレムは破壊されます。
⑫イスラエルの残りの者たちが、避難先のボツラで民族的回心した後、キリストはそのボツラに再臨されます。そしてその後、エルサレムの東のオリーブ山に立ちます。反キリストと偽預言者は燃える火の中に投げ入れられ、サタンも底知れぬ所に幽閉されます。そしてメシア王国が千年の間地上に実現します。
⑬千年の終わりにサタンの幽閉が解かれた後に最後の審判が行われ、主にある者たちはそのまま新しい天に準備されていた「新しいエルサレム」へ移されます。いのちの書に名の記されていなかった者たちはサタンと同様に燃える火の池(ゲヘナ)に投げ込まれます。その前に古い地と天はあとかたもなくなります。「新しい天」にあった「新しいエルサレム」が、「新しい地」へと降りてきます。「新しいエルサレム」とは神と人とが共に住む神の幕屋であり、永遠に続く御国です。

●以上のように、神のご計画は常にエルサレムをめぐって展開しているのです。永遠の都エルサレムのヴィジョンは、実はエデンの園においてすでにあります。エデンの園から永遠の都エルサレムに至るまでの神のご計画は、今後、ますます勢いをもって啓示されていくでしょう。

3. 詩篇24篇に見るイェシュア・メシア

【新改訳2017】詩篇24篇1~10節
1 地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは【主】のもの。
2 主が海に地の基を据え 川の上にそれを堅く立てられたからだ。
3 だれが【主】の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。
5 その人は 【主】から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ
7 門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
8 栄光の王とはだれか。強く力ある【主】。戦いに力ある【主】。
9 門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
10 栄光の王それはだれか。万軍の【主】 この方こそ栄光の王。セラ

●イェシュアの最後の一週間は、マタイの福音書21章にあるイェシュアのエルサレム入場から始まります。そのことと詩篇24篇は深く関連しています。イェシュアの来臨が初臨と再臨で二度あるように、また、聖霊降臨が五旬節の教会誕生の時と、反キリストによる未曽有の苦難の中でイスラエルの残りの民に対して「恵みと嘆願の霊」が注がれる時とで二度あるように、イェシュアのエルサレム入場も二度あるのです。最初の初臨の時は罪の贖いのためであり、二度目の再臨の時は王として治めるためです。詩篇24篇は、再臨時のエルサレム入場です。なぜなら、「栄光の王」(新共同訳は「栄光に輝く王」)という語彙が後半に五回も登場しているからです。メシアとは「油注がれた者」のことであり、具体的には「王と祭司と預言者」ですから、詩篇24篇はメシア詩篇だとわかります。さらに、メシア詩篇と単なる「王をたたえる詩篇」との違いは、神のご計画にある御国を実現する王であるかどうかの違いです。その点から見ても、詩篇24篇は明らかにメシア詩篇であることが理解できるのです。

(1) 人称の確認

●人称を確認するためには、原文を見なければなりません。日本語訳では分からないことが多いのです。たとえば4節の「手がきよく心の澄んだ人」の「人」、「偽りの誓いをしない人」の「人」、5節の「その人」の「人」は、すべて人称代名詞の3人称男性単数の「彼」です。3節の動詞の「登る」「立つ」の主語も同様に「彼」なのです。つまり、「イーシュ」(אִישׁ)でもなく、「アーダーム」(אָדָם)でもなく、「エノーシュ」(אֲנוֹשׁ)でもありません。人称代名詞の3人称男性単数の「」なのです。その「彼」が、詩篇24篇の後半(7〜10節)で「栄光の王」(新共同訳は「栄光に輝く王」)として現われるのです。

●前半で「彼」とし、後半で「栄光の王」とされているのには理由があります。それは、前半の「彼」はメシアであるイェシュアの初臨の姿、つまり復活前の姿を表し、後半の「栄光の王」は復活以後の再臨の主表す称号です。このように、人称、性別、数を確認するだけでも、詩篇を理解する上でかなり役立ちます。それをヘブル語で確認できれば、より正確な情報となります。

(2) 復活前のメシアの特徴

●詩篇24篇の3〜6節は、「彼」という人称で語られるメシアがどのような存在であるのかを語っています。

【新改訳2017】詩篇24篇3~6節
3 だれが【主】の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。
5 その人は【主】から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ
(※【新改訳2017】6節は分かりにくい訳となっています。「これこそ」は単数の代名詞で4~5節の「人」を指しています。この人がヤコブ、すなわち「神を求める者たち」「御顔を慕い求める人々」を代表する者なのです。)

●3節で問いかけられているのは、「だれが【主】の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。」ということです。その問いかけに対して答えているのが4節の「手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人」です。すべて「単数」で表されています。そして、その人が神からの祝福を受けることによって、ヤコブの一族を祝福する代表(子孫=単数「ドール」דּוֹר)となることが預言されています。

●3節の「主の山」とは「エルサレム」のことです。そこに登ることは何を意味しているでしょうか。「登る」と訳された動詞「アーラー」(עָלָה)ですが、同時に、「全焼のいけにえ」として自分をささげることをも意味しています。エルサレムに全焼のいけにえをささげるために上った人物は、歴史の中で三人だけです。一人はアブラハム、もう一人はダビデ、そしてもう一人はイェシュアですが、ここではイェシュアを指しています。

●次いで、聖なる御前に「立つ」ということは何を意味しているのでしょうか。「立つ」と訳されたヘブル語は「クーム」(קוּם)で、「起き上がる、成就する」を意味する動詞です。したがって、「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」という問いかけは、「全焼のいけにえのささげものが神に受け入れられ、かつ起き上がること、つまり、復活し得るものは誰か」という意味なのです。この問いかけに答えられる者は、人となってこの世に遣わされるイェシュアの他に誰一人としていないのです。その意味においてこの詩篇は預言的です。

●4節の「手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人」とは、「全焼のいけにえとして神に自らをささげることのできる者」と同義です。それは「手、心、たましい、口」のすべてが神のみこころにかなっていることを示唆しています。そのような者が神から祝福を受け、義を受けるのは当然のことです。しかもこの祝福は、彼を通して、主を求める者たち、すなわち、御顔を慕い求めるヤコブの一族(=イスラエルの残りの者たち)に与えられるのです。イェシュアはこの祝福をもたらすために再臨されるのです。

(3) 復活後のメシアの来臨の呼びかけ

●詩篇24篇の後半は、復活後のメシアの来臨(=再臨)の呼びかけです。

【新改訳2017】詩篇24篇7~10節
7 門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
8 栄光の王とはだれか。強く力ある【主】。戦いに力ある【主】。
9 門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
10 栄光の王それはだれか。万軍の【主】 この方こそ栄光の王。セラ

黄金の門.png

●ここに登場する「門」とは、エルサレムの城壁の門です。再臨のメシアは東門から入って来られます。その門は「黄金の門」と呼ばれています。イェシュアは初臨の時にはその門から子ろばに乗って入場されましたが、オスマン・トルコの時代から完全にふさがれています。しかし、再臨の時には、王なるメシアが再びエルサレムに入場されるのです。それゆえ、「門よ。おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」と語られているのです。

●「門」と「戸」に対して「上がれ」と二度も命じられています。二度命じられているということは強調表現です。しかも、呼びかけられている「」と「永遠の戸」はすべて複数形です。ですから、ここでの門とは城壁の門ではなく、おそらくイスラエルの残りの者たち一人一人の心の門、心の戸のことだと考えられます。なぜなら、王が支配する御国にはその王に従順に従う民がいなければならないからです。この心の門や戸を開かせるは主ご自身です。なぜなら、以下のようにモーセが預言しているからです。

【新改訳2017】申命記30章6節
あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。

●「上げよ」と命じる動詞は「ナーサー」(נָשָׂא)です。ここでは動詞「ナーサー」の基本形と受動態による呼びかけ(命令形)がなされています。「ナーサー」の基本形は「手を上げる、声を上げる、目を上げる」という意味がありますが、「ナーサー」の受動態の意味は「荷を負われる」ことから「罪が赦される」という意味になります。「赦される」ためには、彼らが悔い改めて神に立ち返ることが必要です。したがって、ここでの「上がれ」は神に立ち返ることを呼びかけているのです。

●王なるメシアがエルサレムに入るためには、イスラエルの民の背信の罪が赦されることが必要です。彼らにとってできることはただ一つ、「上げる」ことです。つまり神に立ち返ることなのです。それ以外のことは求められていません。ですから、作者とも御霊とも言える「人称なき存在」が、神への立ち返りを呼びかけているのです。

ベアハリート

●「エルサレム入場」の前に、盲人の開眼の奇蹟があります。この出来事が「エルサレム」に入る前に置かれていること。そして、イェシュアが「子ろば」を連れてくるように弟子たちを遣わされたこと。子ろばを連れて来るように弟子たちに命じられた場所が「ベテパゲ」であったこと。その子ろばに乗ってイェシュアがエルサレムに入場されたこと。イェシュアが宮に入り、その中で売り買いしていた者たちをみな追い出したこと。イェシュアの一行が「ベタニア」に泊まったこと。そして、翌朝、イェシュアがいちじくの木を枯らしたこと。これらすべてのピースが深い意味をもって一つにつながっていきます。イェシュアの一週間の足取りをたどりながら、これらの一つ一つに隠されていることを取り上げながら、神の壮大なご計画のドラマに「心燃やされる者」とさせていただきたいと願います。

2020.11.29
a:418 t:3 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional