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イェシュアを売ったユダの最期


117. イェシュアを売ったユダの最期

【聖書箇所】マタイの福音書27章1~10節

ベレーシート

●前回はイェシュアに対するペテロの三度の否認を取り上げました。これは単にペテロ個人のことだけでなく、イスラエルが「三度」、偶像礼拝によって主を否認するという歴史―「バビロン捕囚」「世界離散」「反キリストによる大患難」を啓示していることをお話ししました。今回はイェショアを売った(裏切った)イスカリオテのユダの最期が記されています。これもユダ個人だけでなく、イェシュアを死刑にしようとしたユダヤの最高議会の「型」ともなっています。というのは、イェシュアを売ったイスカリオテのユダが首をつって死んだのと同様に、ユダヤ人たちは世界離散(ディアスポラ)という憂き目を招く結果となってしまったのです。今回のテキストを読みましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書27章1~10節
1 さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。
2 そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
6 祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」
7 そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。
8 このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
9 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。
「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。
10 主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」


1. ユダヤの最高議会はイェシュアの死刑を決定した

●過越の二日前に、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イェシュアを捕えて殺そうと相談しました。しかしそのときには「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していたのです。ところがイェシュアを裏切ったイスカリオテのユダの先導もあって、過越の祭りが始まった日にイェシュアを捕えて尋問して死刑に定め、ピラトに「引き渡す」ことになります。まさにイェシュアが語っていたとおりのことが起こるのです。「引き渡す」と訳された「パラディドーミ」(παραδίδωμι)は「売る」「裏切る」とも訳され、イェシュアの「受難」を表す用語です。

【新改訳2017】マタイの福音書20章18~19節
18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

【新改訳2017】マタイの福音書26章14~15節
14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。

●26章14節の「そのとき」とは、「一人の女がイェシュアに埋葬のための香油を注ぐことがなされた後です。ユダは祭司長たちから「銀貨三十枚」を受け取った「そのとき」から、イェシュアを引き渡す機会を虎視眈々とねらっていたのです。ところがイェシュアの一声でそれが後押しされてしまいます。つまりイェシュアを引き渡す機会をユダ自身が自らつかんだというよりも、イェシュアにうながされる形で与えられてしまいました。これと同様に、ユダヤの宗教指導者たちがイェシュアを死刑に定め、異邦人であるローマの総督ピラトに引き渡すことも、イェシュアの語られたとおりにすべてが運んで行きます。彼らはそうとは知らずに行っているのです。とすれば、イェシュアが十字架につけられ、三日目によみがえることも起こるということです。その意味で、イェシュアの語ることばをいい加減に聞いている人は、愚かな人ということになります。

●イェシュアが夜中に捕らえられ、尋問を受けた後、朝までに最高議会の全メンバーがイェシュアの死刑について協議するために集められます(マタ26:18)。イェシュアを死刑にするかしないかの協議ではなく、死刑ありきの協議です。というのは、当時のユダヤはローマの属国となっているため、ユダヤ独自で死刑執行することができないので、死刑執行するためにはローマ総督ピラトによる認定が必要だったのです。そのためにイェシュアを総督ピラトに「引き渡した」後に、どのようにしてイェシュアを確実に死刑にするか、そのことを協議するためと思われます。最高議会によるイェシュアを死刑にするための罪状としては「神を冒涜した罪」ということになっていますが、その罪状では死刑にすることができないことを知っていたため、彼らは群衆を扇動して騒ぎ立てさせ、イェシュアを「十字架につけろ」と叫ばせることで総督ピラトを脅そうと企んでいたのです。そして彼らの思惑通りになるのです。

●彼らの計略は悪賢いのですが、それは彼らの父が悪魔だからです。イェシュアはそう言っています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書8章44~47節
44 あなたがたは(=ユダヤ人の宗教指導者)、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。
46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

●当時のユダヤの宗教指導者たちのことを、「悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています」とイェシュアは語っています。驚かれるかもしれませんが、悪魔は宗教の中に自分の支配システムを築くことができるのです。宗教はサタンの牙城となりえるのです。したがって、私たちは宗教(キリスト教)というシステムから出て、キリストにあるいのちの中に入らなければなりません。宗教指導者たちの父が悪魔の支配にあったように、イスカリオテのユダも同様に悪魔の支配に落ち入ってしまったのです。イェシュアはこのことをすでに彼に対して警告していたのです。以下、すべてヨハネの福音書によるものです。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書6章70~71節
70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」
71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。

②【新改訳2017】ヨハネの福音書13章2, 27節
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」

※●「サタンが彼に入った」とは、「サタンがユダの人格を完全に支配した」という意味です。サタンが強制的にそうしたのではありません。あくまでもユダの同意に基づいて、いわば合法的にユダの心を支配したのです。「思い」から「同意」へ。これがサタンの手法です。「同意した」段階に至っては、もはやだれにも止めることはできないのです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非情な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)とパウロは愛弟子のテモテに手紙を書きました。「苦痛をもって自分を刺し通す(「ペリペイロー」περιπείρω)」はここ一回しか使われていない語彙ですが、彼らはイスカリオテのユダとユダヤ最高議会の者たちの結末とも言えるのです。

③【新改訳2017】ヨハネの福音書17章12節
彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。


2. 滅びの子が滅びたのは、聖書が成就するため

●ここで「滅びの子」というのはイスカリオテのユダのことです。彼のことをイェシュアは「滅びの子」と言っています。新約聖書で「滅びの子」という表現はここだけですが、イェシュアはユダに対してこう言っています。

【新改訳2017】マタイの福音書26章24~25節
24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。

●イェシュアは、ユダに対して彼のうちにある思いに支配されないように繰り返し警告してきたのです。神のご計画によれば、人の子(イェシュア)は神の定められたとおりに(預言されていたように)、受難のしもべとして人々の罪を背負い、身代わりとして死ぬことが定まっています。つまりイェシュアの死は人々のための死でした。しかしユダの場合は自分の罪による死です。「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」と語ったのは、自分の意志と責任によって行動したことが問題とされているのです。

●「滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するため」とあります。「滅びの子が滅びる」とはどういうことでしょうか。詩篇41篇9節にこのようなことばがあります。

【新改訳2017】詩篇41篇9節
私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 
私に向かってかかとを上げます。

※「私が信頼した親しい友」と訳された原文は「イーシュ・シェローミー」(אִישׁ שְׁלוֹמִי)」で、「シャロームと挨拶を交せる人」という意味。そのような人が私に向かって「かかとを上げる」とは「裏切る」ことを意味しますが、それは「邪悪なものが彼に取りついている」からとしています。

●「引き渡す」を意味する「パラディドーミ」(παραδίδωμι)は、イスカリオテのユダがイェシュアを「売った」「裏切る」という言葉と同じであることは前に述べましたが、最高議会はイェショアを罪人として「引き渡した」のに対し、ユダはまるで物を売るかのように銀貨三十枚でイェシュアを「売った」(裏切った)のです。これは一人の奴隷の値段です(出21:32, ゼカリヤ11:12参照)。何とイェシュアは安く見積もられてしまったのでしょうか。ユダはこれが「血の代価」であるとは微塵も思わないで受け取ったのです。つまりユダは自分のしたことがイェシュアを十字架の死に至らせることになるとは思いもしなかったということです。彼がそのことを知って、自分のしたことに愕然とし、後悔して受け取った金銭を返そうとしますが、すでに時遅しでした。ユダが銀貨を神殿に投げ込んで立ち去ったあと、祭司長たちはその銀貨を取って、相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にしたということも預言されていたということです。

3. イスカリオテのユダがなぜ弟子として選ばれたのか

●イスカリオテのユダは他の弟子たちに比べて、おそらく会計を任せるほどの有能な面があったのではないかと思われます。「イスカリオテ」とは「イーシュ・ケルヨート」(אִישׁ־קְרִיּוֹת)で、「キルヤテの人」の意味です。旧約を読んでいる人なら、「キルヤテ・エアリム」という地名を記憶しているかもしれません。17回も登場しているからです。「キルヤテ」はユダにある地名です。ということは、イェシュアの十二人の弟子たちの中で彼だけがユダ出身でした。そのほかの弟子たちはみなガリラヤ出身なのです。そういうこともあって、ユダには自分一人だけがよそ者という意識があったのかもしれません。しかしそれは推測に過ぎません。そのことよりも、聖書の中でもう一人、首をつって死んだ人がいます。しかも同じユダに住む人です。その人の名は「アヒトフェル」です。この人はダビデを裏切ってアブシャロムに寝返った人です。ダビデは自分が都落ちしたときに、このアヒトフェルの助言を恐れたのです。なぜなら、彼の進言する助言は「人が神のことばをうかがって得ることばのようであった」からです(Ⅱサムエル16:23)。そこでダビデは自分の忠臣であるフシャイを都に留まらせて、アヒトフェルの助言を阻止させようとしたのです。この戦略は功を奏し、アブシャロムに進言するアヒトフェルの助言を阻んだのです。

【新改訳2017】Ⅱサムエル記 17章23節
アヒトフェルは、自分の助言が実行されないのを見ると、ろばに鞍を置いて自分の町の家に帰り、家を整理して首をくくって死んだ。彼は彼の父の墓に葬られた。

●なぜアヒトフェルはダビデを裏切ってアブシャロムに寝返ったのでしょうか。その理由として考えられるのは、彼の姪であるバテ・シェバの夫のウリヤがダビデによって殺され、孫のバテ・シェバもダビデの妻とされたからです。つまりダビデに対する復讐的な意味があったのかもしれません。

【新改訳2017】Ⅱサム 11:3
ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、
「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。
【新改訳2017】Ⅱサム 23:34・・・ギロ人アヒトフェルの子エリアム

●彼はとてもすぐれた賜物が与えられたにもかかわらず、神のみこころよりも個人的な怨みを優先したことが、彼の歩みを破壊(自滅)させるものとなってしまいました。これは内なる義(高慢)という一種の「偶像」と言えます。それが折れた時に、彼は自滅したのです。イスカリオテのユダの場合は、目に見えるお金が彼の偶像となり、それを愛する者となったことが自分を滅ぼすことになりました。アヒトフェルにしても、ユダにしても、いずれも「偶像に身を任せた」ことがサタンのつけ込む場を与えてしまいました。

●イェシュアが弟子(使徒)として選んだのは十二人です。そのリストでは「ペテロと呼ばれるシモン」から始まって、最後は決まって「イェシュアを裏切ったイスカリオテのユダ」(マタイ10:2,4)となっています。この「イスカリオテのユダ」の正確な名前は、「イスカリオテ・シモンの子ユダ」(ヨハネ6:71)とも、「シモンの子のイスカリオテのユダ」(ヨハネ13:2)とも表記されています。

●なぜ、イェシュアは「シモンというペテロ」と「イスカリオテ・シモンのユダ」という名前の弟子を選んだのでしょうか。しかも十二弟子の「最初」と「最後」にある名前としてです。この二人の共通点は「シモン」という名があることです。「シモン」とは、ヘブル語の「シメオン」のことです。「シメオン」という名前には「御子の声を聞く」という意味が隠されています。

●シモンがなにゆえにペテロと呼ばれたのでしょうか。ヨハネの福音書によれば、シモンの兄弟アンデレがシモンにイェシュアを紹介したときに、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」とイェシュアは言っています。マタイ4章でも「ペテロと呼ばれるシモン」と記されています。私たちが「ペテロ」と呼んでいる人物の正式の名前は「ヨハネの子シモン」なのです。
※マタイ16章17節では「バルヨナ・シモン」となっています。これは「ヨナの子シモン」という意味ですが、「ヨナ」は「ヨハナン」の省略形で、「ヨハナン」の短縮形が「ヨハネ」です。ですから「ヨハネの子シモン」なのです。

●ピリポ・カイザリヤでペテロがイェシュアのことを「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した後には、イェシュアから「あなたはペテロです」と正式に呼ばれています。「ペテロ」とは「」を意味します。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」と言っています。ここには、かつてイスラエルの民が、聞く耳をもたずに捨てた「岩」(申命記32章)を再び回復するために、イェシュアは意図的に全イスラエルの代表としてシモン(シメオン)を「ペテロ」(岩)と呼んだのです。

●申命記32章における「モーセの歌」は、全イスラエルに対して語られた預言的な歌です。

【新改訳2017】申命記32章10~14節
10 主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
11 鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
12 ただ【主】だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。
13 主はこれを地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と硬い岩からの油でこれを養い、
14 牛の凝乳と羊の乳を最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と雄やぎを小麦の最良のものとともに 与えてくださった。あなたは泡立つぶどう酒を飲んだ。

●申命記32章の内容を見るなら、そこには神が選ばれたイスラエルに対する数限りない恵みが綴られています。特に、10節から14節に記されている動詞の数々ー主は彼(イスラエル)を「見つけ」「抱き」「世話をし」「(ひとみのように)守り」「導き」「食べさせ」「飲ませ」「養い」―の恩寵用語には圧倒されます。にもかかわらず、神の民はその神の声に聞き従わず、自分の救いの岩を「軽んじた」「おそろかにした」のです。「シメオン」に隠された神の使命は「聞く」ことです。神のことばに耳が開かれることです。その使命を担った「シメオン」が旧約において呪われているのは、イスラエルの本来の使命的位置づけを代表しているからです。

●「モーセの歌」には「五つの岩」が出てきます。「岩」は「モーセの歌」のキーワードです。ここでの「岩」(冠詞付きの「ハッツール」הַצּוּר)は、神ご自身を表しています(申命記32:4)。神はどこまでも真実なお方であり、ゆるぐことのない不動の岩、とこしえに変わることのない不変の岩です。しかも私たちとともにおられる「救いの岩」(申命記32:15)です。ところが、イスラエルは「自分の救いの岩」を軽んじ、「自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった」のです(申命記32:15, 18)。イスラエルの民が異邦の地に散らされたのは、「岩」である神のことばに「聞き従わなかった」からでした。神の民イスラエルが本来のあるべきところに立ち帰るためには、「岩」である神のことば(=キリストのことば)に「耳を傾け」「聞く」(シァーマ=シメオン)必要があるのです。ここにイェシュアの弟子の筆頭となるべく「シモン」が、イェシュアによって「ペテロ」と呼ばれた必然性の根拠があります。と同時に、十二使徒の名前のリストの最初と最後に「ペテロと呼ばれるシモン」と「イェシュアを裏切ったイスカリオテのシモンの子ユダ」の二人を選んだのは、全イスラエルの回復を実現させようとする神の隠された戦略を見ることができるのです。しかしそれは神に「立ち返る」ことによってのみ実現することなのです。

ベアハリート

●イェシュアを売ったユダは、イェシュアが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」(27:4)と言います。もし、ユタがその人生において唯一貢献したことと言えば、イェシュアが「無実の人であった」ということをあかししたことです。彼はイェシュアがロ―マ総督ピラトに「引き渡された」ことを知って、初めて自分のしたことの重大性を自覚したのです。「後悔し」とはそのことを意味していますが、彼はその後、「首をつって」死にました。ユダが「首をつった」という話はマタイの独占記事です。ユダが自害したのは彼が主に向くことをしなかったためです。「主に向く」とは「主に立ち返る」ことを意味します。もし彼が主に向いたなら、サタンの覆いの力は取り除かれ、主の回復のみわざがなされたかもしれません(Ⅱコリント3:16)。主を否認したペテロとの違いはまさにここにあります。悲しみには、二つの「悲しみ」がある、とパウロはⅡコリント人への手紙7章10節で記しています。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

●ペテロとイスカリオテのユダに、「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」の違いを見ることができます。ペテロもユダも同じく主に対して罪を犯しました。ユダは後悔し、かつ自殺しました。後悔だけならば、「世の悲しみ」となり、死をもたらします。しかしペテロは激しく泣いて悔い改めました。悔い改めとは「神に心を向けること」を意味します。これが「神のみこころに添った悲しみ」です。それは救いに至る「悔い改め」をもらたすとと同時に、救われた者が神との親密な交わりを回復するためにも必要なのです。

●もし「神のみこころに添った悲しみ」であるなら、それは「いのちをもたらす悲しみ」となります。なぜなら、神に向きを変えているからです。とはいえ、神に心を向ける悔い改めには多くの時間が必要とされます。なぜなら悔い改めには単に罪を認めることだけにとどまらず、神のことば(教え)に聞き従うことが求められるからです。真の悔い改めは、驚くほどの神への熱心さをもたらします。なぜなら、悔い改める者に、「主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる」(イザヤ30:18)とあるからです。なんという主の恩寵でしょうか。主に立ち返る者に、主の恩寵の構えがあるのです。それが豊かにもたらされるようにと祈ります。

2021.11.14
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