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イェシュアの水上歩行の奇蹟

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62. イェシュアの水上歩行の奇蹟

【聖書箇所】マタイの福音書14章22~33節

ベレーシート

●前回の「イェシュアによる五千人の給食の奇蹟」に続く「イェシュアの水上歩行の奇蹟」、これが意味する「天の御国」のデモンストレーションが意味することは何かということを考えてみたいと思います。前回の奇蹟と異なる点は、群集と弟子たちとを切り離している点です。天の御国とそれを支配するメシアがどのような方であるかを弟子たちに教えるために、今回の奇蹟が必要であったと考えられます。

●聖書のテキストは別紙をご覧ください。そこにはマタイとマルコとヨハネの並行箇所が記されています。共通している部分がどこで、異なる部分がどこか、一目瞭然です。殊に、マタイの福音書14章28~31節の部分はマタイ独自の箇所だということが分かります。実はこの部分こそ私の人生を変えた箇所でもあります。メッセージでは極力自分のあかしを載せることはしないのですが、今回は特別にお話しします。

●私は21歳でクリスチャンになりました。それから4年目、それまでの不従順な生活を悔い改めるチャンスを神は与えてくれました。私の関心は信仰生活よりも音楽の探求に向けられ、多くの時間と精力と財がそれにささげられていました。しかしそれが茨(偶像)となり、私の魂を一段と飢え渇かせました。一人娘が生まれた頃から、それを捨て去るべく悔い改めが与えられたのです。それからというもの、渇き切った私の魂は神のことばをむさぼり求めるようになり、その結果、家庭礼拝が起こされ、祈りの生活が始まりました。風がその思いのままに吹くように、御霊の働きに自らをゆだねることで、かつてないほどの心の変化に自分でも驚きました。

●主の救いのすばらしさを味わう中で、私に対して持っておられる主のご計画と、私がなすべき使命について明確にしてくださるように祈り続けました。そして多くのみことばを通して、みことばを伝えるという使命が与えられました。それは、片手間ではなく、フルタイムで主に仕えよという献身の招きだったのです。しかしそのためには仕事(ピアノ教師)を辞めなければならず、心に葛藤が生じました。それは、神以外の何物も当てにしないで従うかどうか、その決断を迫られたからです。この試みを通して、主は私の不信仰と貪欲の罪を指摘されました。主の招きに従わなければ一生後悔するのではないかという気持ちが襲ってきたのですが、当惑し、決断しかねていたのです。そのようなときに、マタイ14章28~31節の箇所が示されたのです。「来なさい」という主のみことばに従って舟から出たペテロ。この話を通して、私の「舟」とはいったい何なのか、その「舟から出る」とはどういうことか、どこへ向かって第一歩を踏み出すべきか、主の与えてくださる保証は・・などを考えながら、主の招きに従うことを決意したのです。今でもその時のことは決して忘れません。それ以降の私は、ペテロのように何度も沈みかけながらも、その都度その都度、主が手を差し伸べてくださったことで、今日までやってくることができましたし、これからもそうだと思います。これは私の個人的なあかしですが、神のみことばによって生きようとするすべての者にとっても真理ではないかと思います。なぜなら、マタイ14章28~31節の話は、27節にあるイェシュアの「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」ということばの注解的証言だからです。27節のイェシュアのことばについては、後程、詳しく取り上げたいと思います。前置きが長くなりましたが、早速、テキストの中から、天の御国を支配されるイェシュアについて三つのポイントー1.「向こう岸に向かわせる」、2.「弟子たちのところに来られたイェシュア」、3.「マタイの福音書における『エゴー・エイミ』」ーでお話したいと思います。

1. 向こう岸に向かわせる

【新改訳2017】マタイの福音書 14章22節
それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。

●新改訳改訂第3版では「強いて舟に乗り込ませて」と訳していますが、新改訳2017ではこの「強いて」が訳されていません。おそらく、冒頭の「それからすぐに」をヘブル語に訳すと「ヴァ・ヤーエツ」(וַיָּאֶץ)となり、動詞の「ウーツ」(אוּץ)が「急きたてる、急ぐ、促す」の意味になるのと、「乗り込ませて」という語彙(「エムバロー」ἐμβάλλω、「ラーダー」רָדָה)の中に、「支配する、導く」の意味が含まれているからかもしれません。いずれにせよ、22節の「弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸に向かわせ」という行為に、イェシュアの戦略的な意図を感じさせます。

●「天の御国」は「恐れのない世界」です。なぜなら「主が共におられるから」です。弟子たちが「波に悩まされること」は、天の御国のデモンストレーションのために必要なイェシュアの戦略なのです。神の命令に従わずにタルシシュ行きの船に乗り込んだヨナ。彼は安心して眠っていましたが、「主は大風を海の上に起こされた」(ヨナ書1:4)のです。同様に、イェシュアもあえて弟子たちを舟に乗り込ませ、そして嵐を起こされたのです。

(1) 「向かわせる」(渡らせる)

●なにゆえにイェシュアは弟子たちを「向こう岸に向かわせた」のでしょうか。ここでの「向こう岸」とは「カペナウム」です。マタイ8章でもイェシュアは弟子たちとともに「向こう岸に渡る」ように命じています。この場合は「カペナウム」から「ベツサイダ」(ガダラ人の地)でした。いずれも、湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶっています。これは単に、ある地域からある地域へ移動するという意味ではなく、次元の異なる世界へ渡っていくという意味合いがあるように思います。つまり、「向こう岸へ行く」のは、天の御国を知るために不可欠なデモンストレーションだということです。

●「行く、向かう」(渡る)をヘブル語で見るとそのことが明白です。そのヘブル語はいずれも「アーヴァル」(עָבַר)で、「ヘブル人」(「イヴリート」עִבְרִית)の語源となっています。つまり、「ヘブル人」とは「川を渡って来る者」という意味で、人間中心の世界から神中心の世界に、人間の価値観から神の価値観へ「渡って来る」ということなのです。それは「天の御国」が何かを教えようとし、イェシュアは「実地訓練」を通して弟子たちにあることを教えようとされているのです。ですから、単に、弟子たちと静かな所に行って休息の時を過ごすというようなことでもなく、あるいは、向こう岸の地域での働きを展開しようとするためでもないのです。「向こう岸に向かう」そのことが重要なのです。

(2) 夕方から夜明けが近づいたころ

【新改訳2017】マタイの福音書 14章22節
23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。

①神のご計画におけるリズム 
●「夜明けが近づいたころ」とは、困難に直面している弟子たちを助けるために、イェシュアが最も良い時を待っていたと考えられます。その最も良い時とは、「夕があり、朝があった」というヘブル的時間リズムに基づいているということです。旧約聖書のへブル人の感覚は、夕方が一日の始まりです。創世記1章から2章3節には、「こうして夕があり、朝があった。第何日」ということばが繰り返し使われています。このリズムは神のご計画のリズムともいうべきもので、ヘブル人にとって、生活だけでなく、物事の見方、捉え方にも大きな影響を与えていることは言うまでもありません。

②神の救いにおける恵みの(希望を与える)リズム 
●この「夕から朝へ」のリズムは「恵みのリズム」です。というのは、夕方から夜にかけて人は眠りにつきます。それは働きを止めて休むときです。そして新しい朝を迎えて私たちが目を覚ます時、すべてが整えられ、神のご計画が進んでいることに気づくのです。詩篇127篇にはこうあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。・・あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主は愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と。また、詩篇30篇5節には「まことに・・、夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。これは「涙から喜びへ」「嘆きから踊りへ」という「恵みのリズム」です。このように、神は人間が何もしていない間にすべてのことを備え、ご計画を進めておられるのです。

●この「恵みのリズム」と逆転したリズム、つまり「朝があり、夕があった」とするリズムは、「律法のリズム」と言えます。それは、「まずおまえが必死になって働かなければ、何事も始まらない。おまえが何とかしなければ、すべての問題は解決されない。すべてはおまえの努力にかかっている。休んでいる暇などないのだ」とする重苦しい響きを持ったリズムです。ますます気持ちが暗くなり、絶望的になるだけです。多くの人が、自分の力ですべての問題を解決しようと必死になるあまり、「朝があり、夕があった」というリズムの中で、神様の豊かな恵みを覚えることのできない悪循環の中に落ち込んでしまっています。そしてその結果、抱えきれない重荷と疲れを抱えて心と体の不調を覚えることになっているのです。しかし、聖書の神は希望を与える神です。神はバビロンに捕囚となっているご自分の民に対して、預言者エレミヤを通して、次のような励ましを与えました。「わたしがあなたがたのために立てている計画・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と(エレミヤ29章11節)。弟子たちに対する湖上での実地訓練も、「夕から朝に」かけて行われたところに意味があると言えます。

2. 弟子たちのところに「来られた」イェシュア

【新改訳2017】マタイの福音書14章25節
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。

(1) 「湖の上を歩いて・・来られた」イェシュア

●夜明けが近づいたころ、向かい風で波に悩まされていた弟子たちのところに、イェシュアは湖の上を歩いて来られたのです。水の上を歩いているイェシュアですが、「なぜ、水の上を歩けるのか」といった問題はここでは全くナンセンスです。イェシュアの言動の背景には旧約聖書全体があります。すべては旧約に預言されていることをイェシュアは成就しようとしているのです。ここの「湖の上を歩いて来る」イェシュアの姿は、預言者ハバククが3章14~15節で預言したことばと一致します。

【新改訳2017】ハバクク書3章14~15節
14 あなたは杖で戦士たちの頭を突き刺されます。
彼らは、苦しむ者をひそかに食い尽くすように、
ほしいままに私を追い散らそうと荒れ狂います。
15 あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます。

●14節の「彼ら」とは神に敵対する者たちです。そして「私」とはハバククに代表される神の民のことです。神が彼らの頭を突き刺さすことで、彼らは神の民を絶滅しようと「荒れ狂い」ます。それは「怒り狂う」という意味で、「海」「湖」が荒れる表象と似ています。終わりの時が近づくにつれて、海はますます荒れてくるのです。キリストの再臨がもし満月だとすれば、海は最も荒れている時です。イェシュアだけがその嵐を鎮めることのできる方として現わされます。

●15節の「あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます」とは、ハバククの見た終わりの時の幻です。「馬」は神の力の象徴で、「海」と「大水」は神に敵対する者たちの勢力を意味します。ですから、それが泡立つということは、神に敵対する勢力が最後のあがきをしていると言えます。その海をイェシュアは「歩かれる」「踏みつける」光景です。「歩く」と訳されたギリシア語は「ペリパテオー」(περιπατέω)ですが、ヘブル語にすると「ハーラク」(הָלַךְ)です。しかし同じ「歩く」でも、「踏みつける」という意味だと「カタパテオー」(καταπατέω)となり、それのヘブル語は「ラーダフ」(רָדַךְ)です。マタイの福音書14章のイェシュアの「湖の上を歩いて来られた」姿は、まさに「湖上を踏みつけている」イメージではないでしょうか。

(2)「通り過ぎる」という語彙の意味

●マルコの福音書は「湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた」と同じ事を書いていますが、そのあとに「そばを通り過ぎるおつもりであった」とあります。わざわざ彼らのところに「行かれた(来られた)」のに、「そばを通り過ぎるおつもりであった」とは、矛盾しているように見えます。しかしこれは実は同じことを意味しているのです。「通り過ぎる」とは、来て、通り過ぎて、他のところに行ってしまうという意味ではなく、「神の顕現」を表わす語彙なのです。この「通り過ぎる」という語彙は、新約ではマルコの福音書6章48節にしか出てきません。旧約では27回ですが、神ご自身に関して使われているのは、以下の箇所(出エジプト記33章22節、34章6節、Ⅰ列王記19章9~13節)で確認できます。その一つを挙げておきたいと思います。

【新改訳2017】出エジプト記 33章22 節
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。
わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。

●これはモーセに対して語られた主のことばです。神はご自身の栄光をじかにさらすのを避けるために、モーセを岩の裂け目に入れて、神の手でモーセをおおっています。これは明らかに神ご自身の顕現を述べています。「通り過ぎる」ということばが神の顕現を表わすことばだとすれば、「イェシュアが向かい風のために漕ぎあぐねている弟子たちのところへ来て、神として顕現される」という意味になり、決して通過してしまうことではありません。この解釈は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたことからも明らかです。もし通り過ぎてしまったならば、意味が通じなくなってしまいます。

●ちなみに、マタイ14章22節でイェシュアが弟子たちを向こう岸に「向かわせ」ということばが「アーヴァル」(עָבַר)で、「通り過ぎる」のヘブル語も「アーヴァル」(עָבַר)です。だとするならば、なぜイェシュアが弟子たちを強いて「向こう岸に向かわせたのか」が理解できるのです。つまり、それは弟子たちにイェシュアこそが神であるということを顕わすためだったということです。その行為は、次のイェシュア自身のことばによっても表わされています。

3. マタイの福音書における「エゴー・エイミ」

●イェシュアが弟子たちに語ったことばをじっくりと味わってみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書14章27節
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

(1)「しっかりしなさい」

●「しっかりしなさい」の「サルセイテ」(Θαρσεῖτε)は、「サルセオー」(Θαρσεω)の命令形です。ヘブル語にすると「ハーザク」(חָזַק)の命令形になります。その初出箇所は創世記19章16節で、ソドムに住むロトの家族を救い出すために、御使いたちが「ためらう彼らの手を掴む(握った)行為」を意味します。「ハーザク」(חָזַק)の命令形「ヒゼクー」(חִזְקוּ)は、旧約では「勇気を出しなさい」「雄々しくあれ、強くあれ」という訳で、神が共にいて手を握ってくださるという激励用語としてしばしば用いられています。「自分の力でしっかりとやれ」という意味ではないのです。ちなみに、新共同訳は「安心しなさい」と訳しています。マタイの福音書では、以下の箇所に使われています。

9: 2「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(中風の人に対して)
9:22「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」(長血の女に対して)

(2)「わたしだ」

●これはギリシア語の「エゴー・エイミ」(ἐγώ εἰμι)で、自己宣言を表わします。ヘブル語訳は「まことにわたしこそそれだ」を意味する「キーアニー・フー」(כִּי־אֲנִי אוּה)としていますが、旧約では出エジプト記3章14節の主(ヤーウェ)の名である「わたしは「わたしはある者」である」(「エイェ・アシェル・エイェ」אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)が基となっています。

●ヨハネの福音書でイェシュアは、「わたしは~です」という「エゴー・エイミ」ということばに、他の何かと組み合わせて、ご自身のことを表していますが、マタイの福音書の「エゴー・エイミ」はここだけです。ちなみに、ヨハネの福音書の「エゴー・エイミ」と組み合わせた比喩は以下のように全部で七つあります。いずれもイェシュアが神でなければ言えない事柄です。

①「わたしは命のパンです」(6:35, 41, 48, 51);
②「わたしは世の光です」(8:12);
③「わたしは羊の門です」(10:7,9);
④「わたしは良き羊飼いです」(10:11,14);
⑤「わたしはよみがえりです、命です」(11:25);
⑥「わたしは道であり、真理であり、命なのです」(14:6);
⑦「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1,5)

●また、ヨハネの黙示録の「エゴー・エイミ」は、以下のように四つです。

①「わたしはアルファであり、オメガである。」(1:8) ②「わたしは初めであり、終わりであり」(1:17)
③「わたしは・・・最初であり、最後である。」(21:6, 22:13)
④「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(22:16)

●ユダヤ人たちの「あなたは、自分を何者だと言うのか」(ヨハネ8:53)という質問に対して、イェシュアは「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです」(56節)と答えました。それを聞いたユダヤ人たちは「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」とイェシュアに問いただします。それに対し、イェシュアは「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(58節)と答えました。それを聞いたユダヤ人たちはイェシュアを石打ちにしようとしましたが、イェシュアは身を隠して、宮から出て行かれました。イェシュアが「わたしはある」と言った際に、出エジプト記3章14節で神ご自身を指して言われた「わたしはある」という名と同等としたために、ユダヤ人たちはそれは神を冒涜することだとしてイェシュアを殺そうとしたのです。イェシュアの『わたしはある』という言葉は、神宣言なのです

【新改訳2017】ヨハネの福音書 8章58 節
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』(ἐγώ εἰμι)なのです。」

●イェシュアは自分がただアブラハムの時代よりも先に存在していた事をさして「わたしはある」と言ったのではありません。アブラハムは創造された者だけれども、イェシュアは永遠の昔から存在していることを意味しているのです。「イェシュア・メシア」は、「昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」が、これを単に知識として知っているだけでは意味がないのです。イェシュアの神宣言は弟子たちにどのように受け留められたのでしょうか。33節を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書 14章33節
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した

(3) 恐れることはない

●「恐れることはない」(「メー・フォベイスセ」μὴ φοβεῖσθε)は、旧新約通じて「恐れてはならない」「恐れるな」(「アル・ティーラーフー」אַל־תִירָאוּ)と共にしばしば使われます。なぜなら、私たち人間は常に「恐れる存在」だからです。罪を犯して以来、人間は神の前に裸であることを恐れるようになったからです。「裸」とは、死ぬべきものとされたありのままの姿です。死は恐れや不安、不信感、猜疑心、自己嫌悪や偽善を生み出します。イェシュアがこの世に来てくださった目的は、ご自身の死によって、「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれている人々を解放するためでした」(ヘブル2:15)とあります。ですから、天の御国(メシアが支配する国)は死もなく、恐れもなく、不安も悲しみも病もいかなる喪失もありません。自ら何ら防衛する必要がない世界なのです。

●「死の恐れ」から逃れることはだれにもできません。イェシュアが弟子たちの舟に乗り込むまでは、その恐れから解放されることが決してないのです。イェシュアが舟に乗り込むとは、キリストが再臨(私たちにとっては携挙)されることです。そのことはすでにはっきりしているのですが、そのときまで信仰をもってイェシュアだけを見続けることではないでしょうか。

●最初に私が献身した時のあかしを述べましたが、イェシュアの「来なさい」ということばは、40年経った今でも変わることなく、私の心に響いているのです。天の御国そのものであるイェシュアの「来なさい」という招きのことばを今一度、しっかりと掴みたいものです。

2019.9.29


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