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イェシュアの律法の解釈 (序)

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9. イェシュアの律法の解釈 (序)

【聖書箇所】マタイの福音書5章17~21節

ベレーシート

  • マタイの福音書5章17節から新しい区分に入ります。これまで1~12節では、天の御国に住む者とはどのような人々なのかということが、「幸いなのは、・・・の人たち」というフレーズで言い表わされました。13~16節では、そのような人々がこの地においてどのような生き方をすべきなのかを地の塩、世界の光、山の上の町という三つのタブレットを通してお話ししました。それはイェシュアの弟子たちが神との親密なかかわりを常に持ちつつ、神の永遠のご計画、およびそれがエルサレムにおいて実現されることを告げ知らせるという使命があることを取り上げました。そして今回(17節以降)からは、天の御国に生きる者たちと律法とのかかわり(律法の解釈、律法の理解)について話が移って行こうとしています。
  • 21節以降には特徴的なフレーズがあります。すなわち、「(昔の人々に、)『・・・』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。・・・」(①21~26節, ②27~30節、③31~32節、④33~37節、⑤38~42節、⑥43~48節)というフレーズです。このフレーズは、それまでの伝統的な律法の解釈に対するイェシュアの律法の解釈です。そのイェシュアの律法の解釈が当時の人々にどのように映ったのでしょうか。山上の説教の最後にそのことが記されています。群衆たちはイェシュアの語る律法の解釈に驚いたのです(7:28)。というのも、イェシュアが「権威ある者のように教えられたから」だとあります(7:29)。「権威ある者のように」とは、「まことに、あなたがたに告げます」とか、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という話し方に見られます。こうした表現はイェシュアだけがしたもので、それまでのラビたちの解釈に対してはっきりと否定しているだけでなく、より根源的な(=神のご計画における天の御国の)視点から律法について解釈されたものであって、きわめてインパクトの強い革新的な解釈であったのです。その具体的な内容については21節以降に記されていますが、それは次回に取り上げます。そのイェシュアの律法に対する解釈の前置きとして、5章17~20節が置かれているのです。ですから、この部分(5:17~20)だけを取り出して解釈しようとすると、その後の内容と一致しなくなってしまう懸念があります。
  • コンテキストとしては、5章17~20節が、その後に続く五つの律法に対するイェシュアの解釈の序文的役割を果たしているということです。特に、17節の「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」という部分は、今日に至るまで多く誤解されて来ている箇所の一つです。ローマ人への手紙を読んだ人はこの17節に矛盾を感じるかもしれません。なぜなら、ローマ書の10章4節には「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」とあるからです。つまり、「律法を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」という部分と「キリストが律法を終わらせられた」という部分が、一見矛盾しているように誤解されているからです。その誤解を解いてスッキリさせるためにも、今回のメッセージは重要なのです。

1. 「律法を廃棄するためにではなく、成就するため」とはどういうことか

  • このことを説明する前に、いくつかの基本的なことを簡単に学んでおきたいと思います。

(1) 「律法」とは何か

  • 「律法」と訳された元のことばは、ヘブル語の「トーラー」(תּוֹלָה)のことです。「トーラー」とは「主のおしえ」、あるいは「みおしえ」のことで、それをギリシア語にすると「ノモス」(νόμος)となります。「ノモス」は本来「法律」とか「法規」という意味ですが、この「ノモス」を日本語に訳すときに、「法律」ではなく、その漢字の順をひっくり返して「律法」としました。ですから、「律法」と聞くとどうしても、ユダヤ教の戒律を含む法令集のイメージになりますが、決してそうではありません。神のおしえなのです。
  • また、17節の「律法や預言者」が意味するのは、旧約聖書の「モーセの律法」と「預言者」の書という意味です。「モーセの律法」とは、「モーセ五書」のことですが、「預言者」は私たちが手にしている聖書でいう「預言書」とは異なります。聖書の中に記されている「預言書」といえば、ユダヤ教の預言書のことで、そこには私たちの言う「歴史書」も含まれているのです。初めて聞く方もいると思うので、キリスト教の聖書とユダヤ教の聖書は異なることをこの機会に学んでおきたいと思います。キリスト教の旧約聖書の配列は上の図の通りです。この配列を「救済史的配列」とも言います。

    画像の説明

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  • しかしユダヤ教の聖書は、右図にあるように、最も中心にあるのが「律法」(モーセ五書)で、その外側に「預言者」「聖文書」の順に並んでいます。この配列を「法的配列」(権威の順配列)とも言います。マタイの5章17節では、中心にある「律法」と「預言者」だけが記されていますが、これはヘブル的慣用句で、「律法と預言者」で旧約全体を指しているのです。同じ用法が以下の箇所でも使われています(マタイ7:12、11:13、22:40、ヨハネ1:45、使徒24:14, 28:23、ローマ3:21を参照)。ちなみに、ルカの福音書では、「モーセの律法と預言者と詩篇」というように、旧約聖書を三つの区分に従って表現しています(ルカ24:44)。

A 律法【トーラー】(תּוֹלָה) (創世記~申命記までの5巻)・・基本法
B 預言書【ネーヴィーム】(נְבִיאִים‎)・・・・・・・ 基本法の解釈と応用
① 前預言書(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の4巻)
② 後預言書(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12の小預言書)
C 聖文書【ケトゥーヴィーム】(כְּתוּבִים)・・・ 基本法の参考書
①詩歌(詩篇、箴言、ヨブ記の3巻)
②メギロテ(雅歌、ルツ記、哀歌、伝道者の書、エステル記の5巻)
③歴史書(ダニエル、エズラ、ネヘミヤ、歴代誌の4巻)

  • ちなみに、ユダヤ教は【トーラー】(תוֹרָה)、【ネヴィーイーム】(נְבִיאִים)、【ケトゥーヴィーム】(כְּתוּבִים)の赤色で示した三つのそれぞれの頭文字を取って、聖書のことを「タナフ」(תַּנַךְ)と呼んでいます。
  • 使徒パウロは、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:12)と語っています。しかしながら、律法(トーラー)が要求することを行なおうとすることによっては義とされることはなく、救われることができないとも言っているのです。なぜなら、人間の弱さのゆえに神が要求している標準に達することができないからです。むしろ、律法の役割は私たちの内にある罪を明らかにするものであると当時に、それが永遠に廃棄されることは決してないということです。パウロの言う「キリストが律法を終わらせられた」にある「終わり」とは、律法がもう必要なくなったという意味ではなくて、「(律法を)全うする」「(律法を)完成する」ということなのです。それは律法の意味を正しく解釈し、それを完全に生きられたことを意味しています。これは、マタイ5章17節の「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」とイェシュアが語っていることと同じことを意味しているのです。さらに今回は、17節のことばがイェシュアの時代のラビたちの議論における慣用句だということです。ですから、このフレーズが慣用句としてどんな意味をもっているのかを理解する必要があるのです。

(2) 「律法を廃棄する」「律法を成就する」という表現はラビ的議論の専門用語

  • イェシュアが律法を廃棄するために来たのでないことは、次節にある「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます、だから・・・」で説明がつきます。
  • 「イエスはヘブライ語を話したか」という本を書いたダヴィッド・ビヴィン氏は、「律法を廃棄する」とか「律法を成就する」という表現がどういうことかをその本の中で説明しています。ラビたちが律法の解釈をめぐって、もし「あなたは律法を廃棄している」と言ったとすれば、それは「あなたの解釈は律法の意味を弱めている、あるいは、緩めている、破壊している」ということであって、あなたの解釈は正しい解釈ではないという意味だということです。反対に、「わたしは律法を成就している」と言ったとすれば、それは「わたしの律法の解釈は正しい」ということを主張する表現だということです。とりわけ、「御国の福音」を宣べ伝えたイェシュアの律法解釈は、神のご計画の全体である御国の視点から常に解釈されており、その視点から旧約聖書を、再度、解釈し直すべきことを語っているとも言えるのです。また、イェシュアはユダヤ人に対して、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39~40)とも述べています。これは詩篇1篇を解釈するときにも言えます。神のご計画としての御国の視点から、また旧約聖書が御子イェシュアを証言しているという視点から解釈されるべき必要があることを語っているのです。
  • 考えてみましょう。当時の律法学者たちのイェシュアとの衝突は、律法(トーラー)に対する解釈の衝突なのです。イェシュアの場合、自分の解釈は正しいと主張しただけでなく、間違った解釈をしている律法学者たちに対して、「あなたがたは自分が正しいと解釈しているおしえに従って、それを実行していない」と痛烈な批判をも付け加えたのです。それゆえ、イェシュアは当時の律法学者たちから拒絶され、敵対視されて、やがて十字架の死へと追いやられたのです。
     
  • 今年の2017年は、宗教改革をもたらしたルターの時代から500年目を迎える記念の年です。そのためか、聖書が改訂ではなく、全く新しく翻訳し直されて出版されます。新改訳聖書も、また新共同訳も新しくなります。宗教改革の歴史的意義とは聖書解釈をめぐる戦いとも言えます。歴史の中では、そのために殉教した人たちも少なくありません。聖書解釈をめぐる戦いはいのちを賭けるほどに重要な事柄なのです。イェシュアの場合、イェシュアに味方してくれたのは御父と御霊のみです。ある意味、孤独な戦いだったと言えます。しかしそこに神のいのちの道が開かれたのです。したがって、マタイ5章17節の「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」とイェシュアが語ったことはまことに重要なことだったのです。しかも、正しい解釈のためにはヘブル文字の一点一画さえもすたれてはならないのです。つまり、大切にされなければならないのです。

(3) 「律法の中の一点一画」とは 

  • ところで、「律法の中の一点一画」とは何でしょうか。この一点一画とは律法が記されたヘブル語の文字のことを言っているというのは明らかです。

①「一点」とは、「ヨード」(י)というヘブル文字のこと

  • 発音記号に関連するものとして「ダゲシュ」(・)というのがあります。たとえば、愛する者を意味する「ドード」(דּוֹד)、物を煮る「かま」とか物を入れておく「籠」を意味する「ドゥード」(דּוּד)、そしてダビデの「ダーヴィッド」(דָּוִד)にはすべて「・」があり、その位置が異なっています。「・」の付く位置で全く違う語彙となり、意味が大きく変わります。しかしこれを一点とは言いません。なぜなら、1847年にクムランの洞窟で発見された死海写本には、ダゲシュが全く使われていないからです。「一点」とは、下の図の「ヨード」(י)というヘブル文字のことなのです。
    画像の説明
  • 創世記に「そして形づくった」と訳される動詞があります。ところが、
    (a)創世記2章7節では「ヴァッイーツェル」(וַיִּיצֶר)
    (b)創世記2章9節では「ヴァッイツェル」(וַיִּצֶר) となっています。意味としては全く同じですが、わずかに違っています。2章7節では「ヨード」の文字が二つありますが、9節は一つです。なぜ異なっているのでしょうか。これは誤字だと言えるでしょうか。よく観察するならば、前者は人の創造に関わっているのに対して、後者はすべての生き物たち(野の獣、空の鳥)の創造です。
  • 「ヨード」は「手」を意味する「ヤード」(יָד)の頭文字です。このことから、人の場合は他の生き物とは違い、二つの「ヨード」、つまり神の二つの手で形づくられたと解釈できるのです。
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②「一画」とは、右図に見るように、付き出した部分のことを言います。「ダーレット」(ד)と「レーシュ」(ר)の違いは、「画」と言われる部分があるかないかの違いです。もし、「唯一」の「エハーッド」(אֶחָד)の語尾の「ダーレット」(ד)が、もし誤って「レーシュ」(ר)に置き換えられて「アヘール」(אַחֵר)となるなら、意味は「他の」となり、唯一の神が、他の神々となってしまうのです。こうして見るなら、一画はとても重要です。このことは、漢字でいう文字の先が「はねる」か「とめる」かの違いに比べると雲泥の差と言えます。というのは、意味が全く変わってしまうからです。イェシュアが「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」と言うのは、それは律法の権威が永遠性を持っているということです。

  • イェシュアがマタイ5章17~18節で言おうとしている事を意訳するならば、次のように言えます。「このようにして、わたし(イェシュア)の律法に対する解釈は律法を少しでも弱めているなどと考えてはならない。むしろ正しく解釈し、律法を確立しようとしているのである。天も地も終わりがあるが、律法だけは終わりがない。それゆえ、アレーフ・ベート(アルファベット)のどんな小さな文字も、突起も決して消えてはならないのである。」と。律法の権威の不変性と永遠性は、イェシュアが永遠のリビング・トーラーであることと関係があるのです。

3. パリサイ人に勝る義なしに、天の御国に入ることはない

【新改訳2017】マタイの福音書 5章20節
わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

  • 「義」(「ホ・ディカイオスネー」δικαιοσύνη)は、マタイの福音書の特愛用語です。山上の説教の中にこの言葉が5回も使われています(5:6,10, 20,20, 6:33)。イェシュアの弟子たちが律法学者やパリサイ人の義よりもはるかに優れたものでないなら、決して天の御国に入っていくことはできないと言われました。なんと厳しい、かつ恐ろしいことばでしょうか。律法学者やパリサイ人の義とはどのようなものであり、それに勝る義とはどのような義なのでしょうか。前にもお話ししたように、「義」とは神との関係概念です。「義」は「救い」と同義です。
  • だれよりも律法を学び、だれよりもそれを完全に守ろうとした律法学者。その律法にまた何倍もの細則を付け加えて、完全な義を得ようとしたパリサイ人。そのいずれにも該当する人物がいました。それはサウロ、後の使徒パウロです。

    【新改訳2017】ピリピへの手紙3章3~6節
    4 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
    5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
    6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

  • ところが、その彼がこう述べています。

    【新改訳2017】ピリピへの手紙3章7~9節
    7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
    8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
    9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

  • パウロが9節で述べていることは、彼の最も初期の手紙であるガラテヤ人への手紙の中ですでに述べていたことなのです。「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知った」(新改訳2017、ガラテヤ2:16)と。パウロは律法による自分の義ではなくて、キリストを信じることによる義、つまり神から与えられる「義の賜物」であることを知り、それを彼は信仰によって得ることができ、御国に入る(行くのではなく)ことができたのです。その「義の賜物」は「永遠のいのち」そのものなのです。
  • 信仰による義があるからこそ、新しい希望を持って生きることができることをパウロは述べています。

新改訳2017 ピリピ人への手紙3章12~15節
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。

  • 律法学者やパリサイ人の義に勝る義、それは「キリストを信じることによる義」です。ここに、私たちがイェシュアの義にすがらなければならない必然性があるのです。

2017.4.16


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